私は自分自身をあまり意識したくない。
I do not want to be aware of too much of myself.
だが、生きている以上、
自分が自分を超えることは今のところできていない。
But, as long as I am alive,
going beyond myself is not yet for me to able to.
自分が自分を超える境地は、
いわゆる坐禅での悟りであろう。
The state of surpassing oneself,
supposedly says it may be enlightenment
in Zazen-meditation activity.
おのれの意識は面倒くさいと
私は自分に対して思っている。
My conscience of myself is annoying as to think.
一々自分が正しいとか、正しくないとか、
これだとかいやあれだとか判断して、
気分を揺らすのは特に面倒極まる。
How am I right or wrong in every moment,
judging this is it or it was that
such a wavering mood is more annoying to me.
自分が愚かだ、賢いとかの決めつけも面倒になった。
Judging whether I am stupid or smart
such prejudice also comes to annoy me.
自我、無我とかの状態確認も
時間の無駄のように思えてきた。
Ego or egoless, checking how being myself,
became waste of time.
思えば、自分の中に声がうるさくなり、
雑音になったのでそれらを静ませるために
坐禅を始めた覚えがある。
Thinking back then, the voices in my mind were noisy
and it became discord,
so I started zazen meditation to quiet them down.
声を殺す、声を無音にする、
声に蓋をするなどは一時的には効く。
Killing the voices, muting the voices,
covering the voices, etc. are working temporarily.
だが、それらの声に支配される時が多い。
But mostly those voices control me.
それらの声の雑音を根本的に消すことができない。
I cannot delete those noises from its root.
もし、がむしゃらに坐禅の訓練をすれば、
できなくはないけれど、
そこまで徹底するまでの理由を持っていない。
If I practice Zen meditation recklessly,
it would not be impossible,
but I don’t have a reason to go through it.
だから、考えに圧倒されそうになると、
立ち上がって家の掃除をするようにしている。
So, when I would be overwhelmed by thoughts,
I get up and try to clean my house to change my mood.
考えは考えで処理することはできないと分かってきたのもあり、
体を使うことで意識変換をしようとしている。
Because I realized that
thought it cannot be settled by thinking about it,
so I have been trying to use my body
to change my way of consciousness.
掃除を始めると根拠のある行動ができるわけだから、
目に見える問題に手を打つ直感が持てる。
Once I start cleaning the house,
I also begin to have the reason for my activity
so I can feel the intuition that
I am dealing with the visible problems to be solved.
散らかって、汚くなった状況を
整理してキレイにする作業をすると、
何で悩んだか忘れるようになる。
While working on organizing and cleaning up the mess, dirty,
I forget what I was worried about.
自分の声に支配されることは、
他人の目線から自分を判断する癖が
優位になったからかもしれない。
Being dominated by your own voice,
it might be caused by seeing one’s own behavior
with the other’s eyes and judging them prioritized.
他人がどう判断したかは、
その人が下した行動を見ない限り知ることはできない。
Knowing how others' decisions are made,
cannot be confirmed
until their judgmental behaviors turned into actions.
なのに、自分が他人にどう見えるかを
先に計算して自らの行動を決める人がいる。
Under such circumstances,
there are people who decide how they act
after calculating firsthand
how their actions are seen by other eyes.
他の人も自らの問題や意識に忙しく、
他人がどう思っているとか
必要で無い限り気にしないはずだ。
The others, by the way, also are busy
dealing with their own problems or consciousness,
so they would not care
what people really think unless it comes to need.
自分を他人の中で確認する作業は
やるだけ時間の無駄かもしれない。
The work of checking out
how am I seen in other’s impressions;
it may be a waste of time whether did well or not.
どうであれ、私は自分の意識を超えることは
無理なのは分かってきた。
Whatever things to be fact,
I somehow came to know that
going beyond my own consciousness is impossible.
では自分が自分に対してできることは何だろうか。
Then what can I do for myself?
それが私には自分の体の限界を乗り越える作業なのである。
As for me, that is work to overcome my physical limitations.
超えられるなら超えていく。
If it can go beyond then go through it.
今、私は自分の体の限界を超えられるために体を鍛えている。
Now, I am training my body to overcome its limits.
それができれば、精神の限界も超えられる方法が
見つかるかもしれないから…
If I will be able to do it,
I may find a way to transcend the limits of my mind...
*参考までに、写真は先月ロシアバレエ公演を見に行った際に
夫が撮ってくれた写真です。
前から2列目の席が取れたから、
ダンサー達の息、筋肉の動きも見えてダイナミックでした。
To add, the picture I posted was taken by my husband
when we went to see Russian ballet.
My husband bought the second row from the stage,
so I could see the dancers' breathing
and how they used their muscles,
it was a dynamic view.
ロシアバレエ団の方々も、桂蓮さまみたいなお客さまたちに見られるのだから、プレッシャーもハンパじゃないでしょうね⚠ああ、かわいそう・・
クリンたちは見るだけでおどれないし、体もかたいのですが(フワフワしているのですがいまいち「可動域」が・・🐻)、掃除をしていると体がほぐれて柔らかくなったような気になります💡前回のブログでおっしゃっていましたが、「(バレエを習えば)どんな身体的な問題があろうと、その問題の中で正しく体を使うことを学べる。」というお言葉を自分の何かに生かそうと思いました🍀🍀✨✨
大当たり!
服はBrooks brothersです。ご存じでしょうね。
太っていた時に買ったのでしたが、
何とか、脂肪燃やせたので、
サイズがプカプカになって、
下に結構重ね着しました。
言われて姿勢をまた見たら
まだまだ修正すべきところが結構あります。
今の姿勢は、望む状態の40%達したところです。
今年まで、望む形の6割達成に向かって
頑張っています。
掃除、を正しい姿勢でやる!ことに気を使ってみてくださいね。
それ、結構、相当しんどいです。
私も最近、顔を隠す理由も亡くなり露出しています。
定年になって最初に読んだ本を思い出しました。
確か「ものぐさ精神分析」と言うのでしたか・・。
その中で、眼からウロコの記述がありました。
自分が自分と思っている自分は、他人が思っている自分だ、と言うことです。
自分の周囲の人たちを自分と言うタマネギの皮を剥くように剥いていくと、何も残らないということです。
それ以降、自分の脳も信用できなくなっていますね。
問題は知覚作用、知覚作用は感覚刺激に対して自我性を付加する働き。
知覚するとは自分を表現する作用でもあるということ。
『自己をはこびて萬法を修證するを迷とす
萬法すすみて自己を證するはさとりなり』
ZIP
似たような体験をしたことがあります。
坐禅を始めたころは、真面目に坐ってました。
ノートもとって
本当に足が麻痺するほどやってましたね。
ある日、その自分というのが
他人の自分とかさなる瞬間がありました。
きっと、そのようなことでしょうね。
以下、『正法眼蔵』の第一巻「現成公案」の解説編のコピペ(読んでも意味が分からなかったのでグーグルしました)
>>「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
自分から悟りの世界へ近づいて行こうとするのは迷いである。悟りの世界のほうからの働きかけがあってはじめて心身脱落し、悟りの世界に溶け込むことができる。<<
バレエに集中できる時、私は以前読んでた禅師の言葉がよぎることが結構多いです。
例えば、『只管打坐』はこのような感じなのか、とか
『自己を證す』行為の意味など
只管打坐を只管打動に
自己を修正(自証、自己を明かす、證する)を
姿勢を修正に代入したりと。
いつも、もし私が坐禅をしてなかったら
未だにビギナーのレベルなんだろうと、
実感、体感しています。
的を得たコメント、ありがたく承りました。
蓮