なぜ、私は南直哉師の本を翻訳しようとしているのか。
なぜ、南直哉師の本を翻訳する人は私でなければならないのか。
これら二つの問いは私の現在の在り方であり、
過去と未来でもある。
私の今までの生きてきた人生を3で割ってみると
韓国での前期三分の一
日本での中期三分の一
残りの後期三分の一は
今アメリカでくぐり抜けている過程経過で
言い表すことができる。
私は前期、中期に亘って自ら課した課題を全部クリアした。
学歴、経済力、経歴において
私の自己を満足させることができた。
心残りが無い。
努力によって達成できる課題を自らに課し、
時間をかけて踏むべき段階を着実に踏んできた。
ところが、自ら設定した課題の頂きに上り詰め、
歩んできた道を見渡した時に見えたのは
課題の達成は目的地でなく、
他の歩むべき道への道なりの経路であるとのことであった。
与えてもらった我人生の三分の二を
ただ私個人の自己満足のために使ったのだが、
それはあくまでも飢餓を満たす行為に過ぎない。
飢餓や喉の渇きは充足させれば、
需要に応じて供給が成され、因果が済む。
私の人生に生じた自らの需要も
自らの供給で因果関係が成立したから、決着させた。
問題は因果が済み、
決着をつけた後に現れた方向性の無い私の心であった。
目的の無い努力は根幹を失い、
自然に淘汰していくように、
行先を失った私の心は
努力する理由を見つけることができなかったのであった。
そんな時に、ばったり南直哉師の生き方に出会い、
私の残り人生をかけて成すべき努力の方向性が定まったのである。
では、なぜ他の人でなく南直哉師なのかの
問いへの私の答えだが、
特に決めた理由は無いとしか言いようが無い。
理屈な理由は無いのだが、直感は確かにあった。
その直感は彼が使うことばで表れた以下の事実を根拠として成り立つ。
彼の発することばは生きている。
彼の言語力は死んだことばを甦らすことができる。
彼の説得力は固定観念を打ち砕ける実行力を合わせ持つ。
彼の使うことばは硬い何かを砕く力がある。
彼のことばは追及するための道具であり、
その道具を正しく使っている。
これらの私の彼への直感を証明していくことが
次の成すべき課題かもしれない。
なぜ、彼の本を翻訳する人が私でなければならないのか、
この問いも私に決まった答えが無い。
だが、彼の生きていることばを
英語で死なせることはしないとの確信はある。
それも直感に過ぎないが….
補足
これらのシリーズを読んで下さった方々へ
宣言した記事の英訳のアップですが、
訳わからず、中々手につかないでいます。
私はこのシリーズを書くことによって、
他の道への折り返し、その分岐点にしようとしています。
なので、私にとっては生き方がかかる記事なのです。
英訳はこの激流を乗り終えたら
自然に書けるようになるかも....
瞑想と坐禅は、違うのでしょうか?
また、ある住職が釈迦は、坐禅をしてお悟りを開かれたという表現をされていましたが、釈迦は瞑想ではないのですかね?
国や時代によっても、風土や風習の違いもある中、同じような表現でよいものか?、という疑問を少し持ちましたので。
韓国人だとしても
日本で短大、生活科学学科
(現在の目白大)
4年大学、心理教育学科(東京家政大学)卒業したので
日本で生まれた26才~27才にあたる言語能力はありますので、
その辺はご心配要らないと思います。
しかも学習塾(入試専門)を15年経営したこともあって
言語能力は著しい問題はないかなと。
仏教知識にしましては
今その習う過程中につき
言えるような立場ではないので
それも了解頂きたいと思います。
人間力とは
南師によって
一応【可】判定をしてもらえた感じがありますので、
それも問題外のことだと思いますし、
私が今、言えることは
全て踏むべき段階中にいるとのことだけです。
いずれ、このシリーズ記事で
もやもや感を明かしていこうと思う次第です。
でありますが、
私への具体的な要望、率直な意見を頂き
誠に感謝しております。
そもそも翻訳とはそれが例えば文学作品であれば理路に沿って丸写しをすればいいというものでもなくて、翻訳者の文学的な素養やセンス、あらゆる力量が問われます。
結局のところ翻訳者の人間力そのものが問われると思います。
仏教を理解する意欲はあるでしょうか。南和尚のことを冷静に見ることができているでしょうか。以前に南さんブログでコメント欄が停止したのは本当に「記事に関係のないことが書いてあったから」なのでしょうか。南和尚を尊敬されている桂蓮さんは南和尚への批判を嫌がるかもしれませんが、批判を嫌がっているのはまずもって南和尚自身なのではないでしょうか。それがコメント欄停止に繋がったことは正直分かりやすい事実だったのではないでしょうか。性格的にそういう傾向はあると思います。そういった部分も含めて私は南和尚の成長を期待しますとしか言いようがないわけです。子供の時の壮絶な体験や、自分の心身や世界への違和感という感性を、仏教や禅の懐の深さを理解する契機としてちゃんと活用してほしいなと思うわけです。現時点で南流の「家風」と言われても思想的な説得力を感じることはできないのです。
桂蓮さんが他のコメントの方とやりとりをしているところを見ても、都合の悪いこと(特に南和尚の批判に繋がるようなこと)は誤魔化そうとする傾向があるのかなと思いました。そういった疑問点はあります。
南和尚について書くということは、そして禅を続けるということは、いつかまともな禅にまで突き抜けることが想定されるということだと思います。南流に甘んじ続けるということがあるでしょうか。そもそも仏教にグルイズムなしです。修行が進むということは、ますます釈尊の巨大さを遥かに望むのみとなるはずです。最終解脱に達すればそれすらなくなるのかもしれませんが。
偉そうなことは言えませんが、仏教とは、禅とは、いつか浜辺に届く波のようにシンプルでケレン味のない成長過程があるだけなのではないでしょうか。「がんばり」は邪魔だけど、がんばってください。
>否定的表現「無心」と、肯定的表現「心」とが究極的に同義語として使われることも禅の顕著な特徴の一つ
つまり即心是仏における「心」と否定的表現の「無心」が同義であるということ。
禅での単純な否定形の「無」が実に単純な表現でありながら多義的であること。この無は慎重に扱わねばならない重大かつ地雷ワードということです。
心を存在するとして措定しながら無心としてすぐさまその心を否定することで概念化、観念化を避け実体視回避する意図があるのでしょう。
八正道の正念での念をサティ=気づきとして
マインドフルネスと訳するようです。
マインドフルネスが流行してますがwiki見る限り英訳は何種類もあるようです。アウェアネス、アテンションetc。
禅でマインドフルネスと同義な語句はなにか。
曹洞宗の藤田一照氏はマインドフルネスは「無心」でありマインドレスネスだといってます。
このマインドレスネスで欧米人が理解してもらえるのかいささか疑問であります。なぜなら心はマインドというと誤解すると思うからです。
即心是仏での心がマインドという想念の類いであったら大問題。非思量ってなにということになりますね。
そして無がlessという単純な否定で終わらない点も無視できません。
妄念、想念などでいう「念」を八正道の正念と同義と解釈するとあらぬ方向へいってしまいます。
浄土真宗でいう念仏の念とはなにか。
概念、観念いずれも「念」を含みネガティブ的要素があります。
つまり念は忌避するべき要素と本質を示唆する要素が混在している。
思えばマインドフルネスも名詞のような扱いになっている。
なぜこういった造語をあてはめざるを得なかったのかその背景とはなにか。
念の扱い方のように同音異義語のような使い方によっては全く異なる点に注意したほうがいいと思います。おそらく混同を誘発する原因は漢訳によると思われる。
「唯だ妄念に依って差別あり。もし妄念を離るれば唯だ一真如なり」
この場合の妄念は正念での意味とは全く異なることは明らかですね。
本質に迫るであろう言葉は禅において「無」「心」「無心」となる。
これを字面だけみてナッシング、マインド、ノーマインドで訳した気になるのは愚かとしかいいいようがない。
本当の思索、哲学の真髄
思考の筋肉、丈夫な骨組
考えや見解の豊かさを
眼の前にして
幸せだと実感してきます。
これが、しあわせ、でしょう。
これが、本当に、差し上げる行為でしょう。
無償に、何の返りを期待せず、
あげることだけに意味をおいた、本当の
休養かもと思えてきました。
私も条件無しに
ただ、いただき栄養にしていきます。
言葉(言語)には風土性が有るのかどうかという議論ですね。
パーリ語のニュアンスと、漢語のニュアンスと日本語のニュアンスはそれぞれ違う。
また同じ国の言葉でも、時代時代の風土によってニュアンスが異なって来る。
これはもう宿命かと・‥
しかしそれが全てでは無いとも思えます。
ちまたで時々論じられる帰国子女の日本帰国後での他の生徒との意識のギャップ問題は、
日本の風土に囚われたゆえに露呈する問題だと思えます。
たぶん若い時に(13歳以前に)外国で長く暮らして外国の教育を受けておられないであろう南和尚さんは、
日本では異端児的思考を持っていたとしても、
じゃあアメリカ人的思考だとかどうかなんて
分かり様が無い。
むしろ南思考は地球人としてよりも
異星人と考えた方が分かりやすいのかも???
日本人内での年層の違いによって、他者を異星人扱いする世代間のギャップが有って、お互いを異星人呼びするけれど、
相手の事をアメリカ人思考になった、ヨーロッパ人思考になった、中国人思考になった、韓国人思考になった、アフリカ人思考になった・・などと例える事は無い筈でしょう。
あくまで日本風土内での多様性をになった日本人としての囚われの中で論じてるようですよね。
そういえば桂蓮さんご自身でも
砂の民思考の保持者ではあるが、
現代韓国若者思考からはガラパゴス現象かもしれないと気付いておられる様だけど、
それはあくまで
韓国風土に囚われた思考法であるわけで、
全ての人間がそうなるって意味でしょうかね。
これがエスペラント語が世界に浸透しなかった理由ではないでしょうか。
ついでに考えて見ると、論理にもとずいたアリゴリズムでのAI言語では、それを国別風土に囚われない国際言語だと位置付ける事が出来るかもしれませんが、
人間はAIではない、AIは人間にはなれない(筈)
というのが風土に囚われるか囚われないかの思考の分かれ目となるのかなと思います。
考えるということは、「自分が」考えるということなのだから、
他人が考えるに際して考え出した専門用語など、要るわけがない。
考えているそこには言葉はない。
なぜなら、考えるのは、わからないから考えるのに他ならず、
わからない限りそれは未だ言葉になってはいないはずだから。
思索の専門用語など、思索者が考えたそのことを
言葉で定着してみた結果にすぎず、その定着された言葉の側から
考え始めようとして難しいのは、その意味では当然でもある。
順序があべこべだからである。
では、いったい貴方は「何を」そんなに考えているのか、と
それは、普通、人は、あまり当たり前なこと、
日常的な出来事については考えない。
しかし、リンゴが落ちるという日常的な出来事のそこに、
地球の万有引力という壮大な神秘が隠れていることを、
天才科学者は発見する。
日常生活それ自体が、このままで、
驚くべき神秘であるということを、忘れている。
科学の限界を認識しつつ、しかし宗教に肩入れをせず、
それらを正確に「考える」ことができるのが「哲学」、
その本来であり、「存在論」と難しく名ざすまでもない。
僧堂で20年余修行し、なお信仰ではないと語る「思索者」としての院代、
南風(みなみ ふう)でこそあれ日本の風土に囚われるべきではないだろう。
アメリカに来てみて今更に気が付く
すがおのニッポンの良さみたいなものが
南本翻訳にも醸し出されれば
最高の翻訳に成りますね。
西洋精神が土台としてあって、それを日本文で書いているから、
その英訳本は欧米人にも分かりやすく容易に受け入れられるとかですよね。
果たして南本はど~なのか。欧米人にも共感を呼ぶものなのか?
彼の日本的精神性は欧米でどう受け取られるかをよく考察する事も必要かもしれませんね。
たぶん、南さんの日本的精神性は、
アメリカでもごく少数の、
非常に知的レベルの高い、英語力の卓越した、教養に溢れた階層の人になら理解されそうな気がしますが。
日本文化って、外国文化を日本風に改変して利用して来たって言われているから、
確かに日本精神(日本風)と言われる何かがもともと有る訳でしょう。
南さんの精神・著作にもそれがにじみ出ているとすれば、桂蓮さんにはそれが何かという事も探求して頂きたいですね。
「老師と少年」あたりかなとイメージしていたのですが。ああいうものを英訳するなら日本文学をどんどん吸収すればいいと思います。まあ日本の心を知るということですね。日本の心も多様ですがやはりこれが日本だという共通点はあると思うんですよ。
「老師と少年」のAmazonレビューに「詩のような」という感想も書いてありましたから、どこかで文学的に日本人の琴線に触れる要素があるということですよね。それを読み取る努力もできるかどうかでしょうね。
宮沢賢治の「春と修羅」や稲垣足穂の「一千一秒物語」みたいな「イルミネーション系」の詩、ショートショート作品から日本の心を嗅ぎ取ってもらうという形なら勉強しやすいのではないかなと。一見すると日本的な感性とは隔絶しているのですが、やはり日本人が書いたものだなという部分を察知できればいいんじゃないかと。翻訳を凡庸なものにしたくないならばそれぐらいの意気込みは必要かもしれませんね。
日本人なら宮沢賢治がいかにも東北のやや自意識過剰な人で、稲垣足穂が神戸(?)あたりの人だと聞けばなるほどと納得するんです。そういった匂いも含めての文学なのです。南和尚もいかにも雪国の人ですよ。リーダー的な資質を持った雪国の典型的な背の高い人という一面ですよ。自分のことですが、以前どこかで書いたコメントを読み返したら自分は思ってた以上に東京の下町臭い人間なんだなって気付きましたから(笑)自分の文化的な背景が文章に出るんですよ。一番表現したい大事なところもそういった経路を通って出てくることは否定できないですよ。
私は日本の音楽なら九州出身の人達がやたらと馴染むんです。東京と九州なのに「心象風景」がなぜか同じに感じるという。ちょっと不思議です。ぜんぜん関係ないのに、この曲は近くのあの辺の景色を歌ってるんだろって強固に思い込んでますから(笑)
まあ多種多様な日本文化の迷路に飛び込んでみると得るものがあると思います。
>仏教プロパーの話は、通訳の流暢な英語よりも、私のブロークンイングリッシュのほうが通じやすい場合があるのです
これによると
自分の著作を南さんご自身で英訳されたほうが通じる事態も想定されますね。
翻訳しようとする人間が黒子に徹することができず我をだして自己主張したりあるいは自己の余計で歪んだ解釈をするより無媒介ダイレクトなブロークンイングリッシュのほうが誤解が少なくかえって通じる事態になりかねません。
あまり悠長なことをいっているとAIによる自動翻訳機能が翻訳家を凌駕する事態も想定されます。
AI経由のほうがわかりやすいなんてことも?
そうすればサンスクリット語、パーリ語の言語の壁が壊れ翻訳家の媒介なし漢訳不要の仏典研究が可能になる。
翻訳家の誤訳がAI訳によって発覚するなんてことも?
経典研究は発展するかもしれませんね。
言語の壁が崩壊するとなかなかスリリングな事態になりそうです。
正常は異常を正常ではないものとして合理的に従属させているわけです。
異常が正常に従属することなく対立的立場になった時、合理性が畏れと共に足元から揺らいでしまうわけです。
この揺らぎが、存在することの確かな手応えに
なるわけです。
私が生まれ変わっても
想像すらできない視点で書いてくるので
それが、他己という
『絶対的な自己との区別』でしょう。
まな板に載った私を
捌く(裁く)コメ達人がいて
裁かれて(捌かれて)痛感している私を
つなぎ合わせ、逢い合わせ
再構築して下さる救いコメマンもいますね。
私が私を超えられない如く
あなたもあなたを超えられない、
その根源に人間関係の核心があり
その未解決の難問を
共有しつつ、
行先分からずとも
進んでいけるような気がします。
私の中の激流も
あなたにとっては
遠くて見るとさざ波
この激流に溺れないように
手を差し伸べてくれるのも
遠くでみているあなた
いつかは
この激流も沈み
さざ波打つ浜辺になるでしょう。
私のツボに嵌るからだと桂蓮さんが答えた。
依って縁起が結ばれた。
故に桂蓮さんでなければならなくなった。
すべて縁起のなせる業である。
しかして我、桂蓮は
小林秀雄賞を得たほどに
品格のある日本語を損なう事無く
品格のある英語に翻訳するものである。
これは、南師の言葉として受け取ると、シックリくる感じがしますかね。
一個人ブログで、がっかりすることがあろうとなかろうと、世間で騒がれることはあまりないでしょうが、翻訳に関しては、売りものとして世に出るとなると、そうもいかなくなるでしょうから、意味合いがすっかり変わるような内容にならないことを、願うばかりです。
ななしさんの疑問は
いずれ晴れると思います。
別にどうってこともないし、
大した展開にならなくて
失望させてしまうかもしれませんが、
私にとっては
真剣な過程なのです。
他人には読んでがっかりするどうでもいい記事でしょうけれど、
私の生き方の中では大のイベントでして、
追い詰めって取り組む系でもないことだし、
文にしてみて
要らない活き込みや余分な感情などを
枝分けする必要性があって
書いています。
書きながら自分と向き合って
確かめてもいるので、
渡らなければならない橋的な過程として
こころを整理している途中です。
桂蓮さんが目標に向かって
ご自分自身を追い詰めないと力が湧いてこない
とかいう、
自分自身に対する叱咤激励の意気込みで
そう思われたという事でしょうかね。
そう考えるとスンナリと理解出来ます。
厳しく見えるかもしれませんが、桂蓮さんでなくても、桂蓮さんがしなくてもよい仕事ですよね。
例えば
なぜ私は翻訳しようとするのか?
それは、誰もしないから、誰も手に付けていないから、まだ知られていないアメリカに広めたいからなど、具体的な説明をされた方が、読み手としては受け取りやすいですかね。
どうしてもその何故を問いたいなら、縁起としかいいようがない事でもありますかね。またそこには、直感だけではないような流れや事象があったはずですよね。
とにかく、そのような目標ができたのですから、此方としては邁進されることを願うだけです。
2018-11-20 07:01:13
ご自分が残りの人生を賭けるモノが見つかった。
それ以外の何物でもない。
その実現に向けて今何をすべきかを問うている。<
....泣かせますね。
私を分かってくれる人がいるとは
嬉しいのに涙が出る。
女子である(性別的に泣ける立場)ことに
ありがたく思った瞬間です。
男子は中々泣けないですもんね。
苦しい立場でしょうね。
この世、私が全く知らない人から
文章だけで、分かってもらえた体験があると
言語もそう捨てたもんじゃないかもです。
『その実現に向けて今何をすべきかを問う』
正にそのことを次回の記事にしようとしていたので、
私のケジメの歩みと並行して
寄り添ってもらっている感じがしましたね。
兎に角、
女子で生まれたことが面倒くさい時が常にありましたが、
今回だけはありがたいと思いました。
もし、私が男子で
同じ記事を書いてたら
Unknownさんから
上記のような精読はしてもらえなかったでしょうに。
それ以外の何物でもない。
その実現に向けて今何をすべきかを問うている。
だけで何がいけないのでしょうか?
なぜ「私でなければならない」などと身構えなければいけないのでしょうか?
南さんが君(=桂蓮さん)でなければいけないと仰ったのでしょうか?
では何故南さんは(以前の南ブログでの)コメ論争不介入の原則を破って迄、
『桂蓮さんに翻訳の全権依頼をしたつもりはありません』とおっしゃったのでしょうか?
>何故、彼の本を翻訳する人が私で無ければならないのか?
>この問いも私に決まった答えが無い・・・
とはかなり不可解なお言葉ですね。
彼の本を翻訳するのは【私しかいないのだ!】と宣言しているのは桂蓮さんご自身だけなのだから、
他者に向けて、
それを論理的に説明する義務が生じていますよね。
なぜ桂蓮さんがそう言い切るのかの答え(説明)を
ご自分でお持ちでないとしたら
論理矛盾を来たしていると受け取られかねません。
それは直感と言う意味でしょう。
直感的に理解するとは
論理的に理解する事の対義語ですね。
桂蓮さんの思考方式がアリゴリズムのフローチャートで最終解迄到達出来るのか、
途中で「解」無し(不適切フロー、論理性無しの故のアリゴリズム続行不可能)
となるかどうか…
お月様が言っておられるようですね・・・もっと月より明るく、海より深くって。
第三番目の人生が今やっと始まったばかりなんですからすべてのすべてがこれからですね。
幽霊なのか枯れ尾花なのか?
言い方が悪くなりますが、
狭い井の中思考で小さく固まってしまうのか、
広い大海を見つけて大きな航海へと旅立つのかは、
これからの勉学しだい、ということでしょうか。
知識欲吸血鬼の桂蓮さん、頑張ってください。
しかし仏教云々ではなく普通の若い人に読んでもらうものとしてならば、物事を深く考えることそのもののサンプルとしては適しているのではないかと思います。
桂蓮さんが最初に感じた共感ですね。それと同じものを伝えたいとする衝動は純粋でいいんじゃないですか。ただ結果的には南和尚の思想がどういうものなのか、また桂蓮さんの共感とはなんだったのかをもっと掘り下げてしっかり把握した方がいいと思います。
難しいもの、わからないもの、
そして人生の現実とは関係ないもの。
考えることが哲学なのだ、哲学を考えるのではない。
何を考えるのかと言えば、決まっている。
現実を考えるのだ。
「現実」とは、私が私であることであり、
世界が存在することであり、人が生きて死ぬことだ。
このことの何であるのかを考えるのだから、
哲学は現実そのものだ。
考えるとは生きることだ。
・・・「で、どうすればいいんですか」。
人生は自分が生きるものである。
だからこれを自分に問うのは理解できる。
しかし、この問いを他人に問うとはどういうことなのだろう。
「自分で考える」ということをしたことがないから、
考えることすら他人にしてもらうものだと思っているのだ。
しかし、生きているのはその人であって、
私はあなたではないのである。
人生とは、それ自体が、知らないものを生きることで、
それが何なのか、それがどうなるのか、
自分が知らないものを生きるのが人生であろう。
知らないからこそ、考えるのだ。
どういうわけだか生まれてしまった限りは、生きなければならないと、
仕事をすること、稼ぐこと、つまり生活の糧を得ることが、
一般的には人生の内実であ。
そしてこれは一般的には、闘争や労苦の形をとる。
しかし、そもそもなぜ我々は、
そんな大変な思いをしてまで生きなければならないか。
しかし、どうも理由がよくわからない。
「どういうわけだか」生まれてしまったからである。
生まれてしまった、存在した、存在が存在するということには、
どうやら理由がないのである。
時として思うのだが
何かをしなければならないということは、
本当は、全然ないのかもしれない。
しなければならないことがないということは、
暇ということではなかろうか。
しなければならないことがあると、思おうとている。
人生に絶望するということすらも、暇つぶしかもしれない。
絶望しているぶんには、人生何ほどかのものであり得るからだ。
しかし、どうあがいてみても、やっぱり人生は何ものもでもないのである。
それ自体が暇つぶしなのである。
惑星が爆発したり、星雲が巡ったり、
あれらすべて壮大な暇つぶしであるように見えてくる。
べつにすることもないから、ああやって遊んでいるのだろう。
いつも興味を持って読ませていただいています。
ただただ読むだけで十分には理解は出来ていませんが
関心を持って読ませていただきます。
当方にもいつも訪問いただいているようで感謝です。