はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 039 (修正版)

2015-10-28 19:29:09 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人に対して、喜び楽しみ甚ければ、気ひらけ過てへる。我ひとり居て、憂悲み多ければ、気むすぼほれてふさがる。へるとふさがるとは、元気の害なり。

心をしづかにしてさはがしくせず、ゆるやかにしてせまらず、気を和にしてあらくせず、言をすくなくして声を高くせず、高くわらはず、つねに心をよろこばしめて、みだりにいからず、悲をすくなくし、かへらざる事をくやまず、過あらば、一たびはわが身をせめて二度悔ず、只天命をやすんじてうれへず、是心気をやしなふ道なり。養生の士、かくのごとくなるべし。

(解説)

 喜びや悲しみなどの感情、心の状態と身体や気との関係は「貝原益軒の養生訓―総論上」でも述べられてきました。ここでちょっと医学書を紐解いてみましょう。それらについては『素問』挙痛論にある黄帝と岐伯の問答に記載があります。黄帝が岐伯に質問しました。

余は百病は気より生ずるを知るなり。

怒れば則ち気が上り、喜べば則ち気が緩み、悲しめば則ち気が消え、恐れば則ち気が下り、寒すれば則ち気が収まり、すれば則ち気が泄れ、驚すれば則ち気が乱れ、労すれば則ち気が耗し、思すれば則ち気が結す。九気は同じからず。何の病が之れ生ずるか。

 黄帝はさまざまな病気が気の状態に関係して発生することを知っていましたが、その具体的な関係や原因については分からないので、岐伯に質問したのです。そして岐伯が答えました。

怒れば則ち気は逆し、甚だしければ則ち血を嘔き、及び飧泄す。故に気が上るなり。
喜べば則ち気は和し、志は達し、栄衛は通利す。故に気は緩むなり。
悲しめば則ち心系は急し、肺は布し、葉は挙がり、而して上焦は通ぜす。栄衛は散らず。熱気は在中す。故に気は消ゆるなり。
恐れば則ち精は却き、却きれば則ち上焦は閉ず。閉じれば則ち気は還り、還れば則ち下焦は脹る。故に気は行らず。
寒すれば則ち腠理は閉ず。気は行らず。故に気は収まる。
すれば則ち腠理は開く、栄衛は通ず。汗は大いに泄る。故に気は泄る。
驚すれば則ち心は倚り所無く、神は帰る所無く、慮は定まる所無し。故に気は乱れる。
労すれば則ち喘息し汗出す。外内は皆、越す。故に気は耗す。
思すれば則ち心に存する所有りて、神は帰する所有り。正気は留りて行らず。故に気は結する。

 このように、岐伯は、怒り、喜び、悲しみ、恐れ、寒さ、暑さ、驚き、疲労、思慮などと身体や気の関係を黄帝に説明しました。ここに出てきた精や神、心、気、思、慮などは何でしょうか。岐伯は『霊枢』本神の中で、もう少し詳しく教えてくれます。黄帝が岐伯に質問しました。

凡そ刺之法は、必ず先づ神に本づく。血脉、営気、精神は、此れ五臓の蔵する所なり。其の淫泆に臓を離るるに至れば、則ち精失はれ、魂魄は飛揚し、志意は悗乱し、智慮の身より去るは何に因りて然るや。天の罪か、人の過ちか。何をか徳・気・生・精・神・魂・魄・心・意・志・思・智・慮と謂う。其の故を問わんと請う。

 それについて岐伯は答えます。

天の我に在るは徳なり。地の我に在るは気なり。徳流れ、気薄りて生じるなり。
故より生の来たるは、之れを精と謂う。両精相搏つ、之れを神という。
神に随いて往来するは、之れを魂と謂う。精に並びて出入するは、之れを魄と謂う。
物を任う所以は、之れを心と謂う。心は憶する所有り。之れを意と謂う。
意の存する所、之れを志と謂う。志に因りて変を存する、之れを思と謂う。
思に因りて遠慕す、之れを慮と謂う。慮に因りて物を処す。之れを智と謂う。
故に智者は之れを養生するなり。必ず四時に順いて寒暑に適し、喜怒を和して居処に安んず。陰陽を節し、剛柔を調う。是の如くならば則ち僻邪は至らず、長生久視ならん。
是の故に怵し思慮せば、則ち神を傷る。神傷れば則ち恐懼す。流淫して止まず。
悲哀に因りて中を動せば、竭絶して生を失う。
喜楽は、神を憚散させ蔵せず。愁憂は、気を閉塞させ行らせず・・・
 と述べ、「徳・気・生・精・神・魂・魄・心・意・志・思・智・慮」とは何なのか、身心とどのような関係があるかを明らかにしました。心のあり方、気の状態は身体に大きく影響を及ぼします。当ブログでは適宜読み下してありますが、これら『素問』や『霊枢』などの医学書は本来漢文で書かれています。益軒はそれらを一般の人々にも分かりやすいように、日本語に、しかも簡単にしたのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 038 (修正版)

2015-10-28 19:24:51 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の術、荘子が所謂、庖丁が牛をときしが如くなるべし。牛の骨節のつがひは間あり。刀の刃はうすし。うすき刃をもつて、ひろき骨節の間に入れば、刃のはたらくに余地ありてさはらず。こゝを以て、十九年牛をときしに、刀新にとぎたてたるが如しとなん。人の世にをる、心ゆたけくして物とあらそはず、理に随ひて行なへば、世にさはりなくして天地ひろし。かくのごとくなる人は命長し。

(解説)

 今回の『荘子』にある庖丁(料理人)のお話は結構知れ渡っていますが、はじめてお聞きになる方や、お忘れの方のために読み下し文をお入れしましょう。出典は、『荘子』養生主です。

吾が生や涯(かぎ)り有り。而も知や涯り無し。涯り有るを以て涯り無しに随うは、殆うきのみ。已にして知を為すは、殆うきのみ。善を為して名に近づくこと無かれ。悪を為して刑に近づくこと無かれ。督に縁りて以て経を為す。以て身を保つべく、以て生を全うすべく、以て親を養うべく、以て年を尽くすべし。

庖丁は文恵君の為に牛を解く。手の触る所、肩の倚る所、足の履く所、膝の踦る所、,砉然たり、嚮然たり。刀を奏すること騞然、音に中らざるは莫し。桑林の舞に合し、乃ち経首の会に中る。

文恵君曰く、譆、善かな。技は蓋し此に至るか。

庖丁刀を釈て対えて曰く、臣の好む所は道なり。技より進めり。始め臣の牛を解きし時、見る所は牛にあらざるは無かりき。三年の後、未だ嘗て全牛を見ざるなり。方今の時、臣は神を以て遇い、目を以て視ず。官知は止まりて、神は行うを欲す。天理に依り、大郤を批き、大?に導き、其の固然に因る。技は肯綮を経ること未だ嘗てあらず。而も況んや大軱をや。

良庖は?ごとに刀を更う。割けばなり。族庖は月ごとに刀を更う。折ればなり。今臣の刀は十九年なり。解く所は数千牛なり。而も刀刃は新たにより発せしが若し。彼の節は間有りて、而も刀刃は厚さ無し。厚さ無しを以て間有るに入る。恢恢として其の刃を遊ばずに於いて必ず余地有り。是れを以て十九年にして刀刃新たにより発せしが若し。

然りと雖も、族に至る毎に、吾其の為し難きを見て、怵然として戒と為す。視は止を為し、行は遅を為し、刀を動かすこと甚だ微なり。謋然として已に解け、土の地に委するが如し。刀を提げて立ち、之れが為に四顧し、之れが為に躊躇し、志を満たし、刀を善いて之れを蔵す。

文恵君曰く、吾れ庖丁の言を聞きて養生を得たり。

 文恵君とは戦国時代は魏の恵王のことで、『孟子』梁恵王章句に登場することでも知られています。『孟子』では、恵王は孟子に国の政治について真摯に質問し、「仁義孝悌忠信」の教えを受けていました。『荘子』では、恵王は料理人の肉牛の捌く境地から養生法を教えられました。『荘子』は『老子』とならんで道家の最重要の経典の一つですが、この養生主篇はその内容だけではなく、登場人物からも儒家的な思想が濃く表れています。

 と言うのは、「善を為して名に近づくこと無かれ。悪を為して刑に近づくこと無かれ。督に縁りて以て経を為す」と、また「以て身を保つべく、以て生を全うすべく、以て親を養うべく、以て年を尽くすべし」と、養生し長く生きることと親孝行することを同列して述べ、儒家の最も重要な方針のうち「中庸」と「孝」をその中で説いているからです。

 また、庖丁は三年の修行の末、無意識に、適切に肉牛を解体することができるようになりました。これは努力を重ねた上の結果であり、何もすることなく自然とできたものではありません。しかも牛の解体も細かく難しいところでは、慎重に、凝視し、ゆっくり行動し、刀を微妙に扱うのです。これは本来の老荘の謂う純粋な「無為」ではなく、「人為」と言ってもよいかもしれません。

 そんな訳で、貝原益軒がここでこの『荘子』養生主の話を引き合いに出したのは自然な流れなのです。刀も、身体も、心も無理な負荷がかかれば折れてしまうのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 037 (修正版)

2015-09-10 18:54:45 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

胃の気とは元気の別名なり。冲和の気也。病甚しくしても、胃の気ある人は生く。胃の気なきは死す。胃の気の脉とは、長からず、短からず、遅ならず、数ならず、大ならず、小ならず、年に応ずる事、中和にしてうるはし。此脉、名づけて言がたし。ひとり、心に得べし。元気衰へざる無病の人の脉かくの如し。是古人の説なり。養生の人、つねに此脉あらんことをねがふべし。養生なく気へりたる人は、わかくしても此脉ともし。是病人なり。病脉のみ有て、胃の気の脉なき人は死す。又、目に精神ある人は寿し。精神なき人は夭し。病人をみるにも此術を用ゆべし。

(解説)

 「胃の気」とは五臓六腑の胃という内臓の働きや力という意味と、人を生命たらしめる全体的な原動力という意味があります。「胃の気」の別名に「元気」とも「冲和の気」ともありますが、「元気」については「貝原益軒の養生訓―総論上―解説」で已に説明しました。「冲和の気」とは何でしょう。それは宇宙の創生を説明する概念の一つであり、『列子』に登場する言葉です。少し見てみましょう。

子列子曰く、昔聖人は陰陽に因りて以って天地を統ぶ。それ有形なるものは無形より生ぜば、則ち天地は安くよりか生ぜる。

故に曰く、太易あり、太初あり、太始あり、太素あり。太易は未だ気を現さざるなり。太初は気の始めなり、太始は形の始めなり、太素は質の始めなり。気、形、質、具わりて未だ相離れず、故に渾淪と曰う。渾淪とは萬物の相渾淪して未だ相離れざるを言うなり。之を視れども見えず、之を聴けども聞えず、之を循むれども得ず。故に易と曰うなり。易は形も埒もなし。

易変じて一となり、一変じて七となり、七変じて九となる。九は気を変ずるの究なり。乃ち復変じて一となる。一は形変ずるの始めなり。清みて軽きものは上りて天となり、濁りて重きものは下りて地となり、冲和の気は人となる。故に天地は精を含みて、萬物を化生す。

 とあるように、天を形成する「清みて軽きもの」と地を形成する「濁りて重きもの」が調和した気が「冲和の気」なのであり、それを『老子』四十二章では簡潔に、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず。萬物は陰を負いて陽を抱きて、沖気は以て和を為す」と言うのです。

 これが後者の広い意味での「胃の気」です。前者の「胃の気」というのは医学書を紐解くと明らかになります。まず『素問』平人気象論を見てみましょう。

平人の常気は胃に稟く。胃は平人の常気なり。人の胃気無きを逆と曰う。逆なるは死す。

人は水穀を以て本と為す。故に人は水穀を絶てば則ち死す。脉に胃気無きも亦た死す。所謂胃気無きは、但だ真臓の脉を得て、胃気を得ざるなり。

また『素問』玉機真蔵論には、

五臓は皆な胃に気を稟く。胃は五臓の本なり。臓気は、自ら手の太陰に致すことあたわず。必ず胃気に因りて、乃ち手の太陰に至るなり。

 とあり、人体の内臓と飲食物(水穀)が関っています。飲食物はもちろん太陽の光や雨、さまざまな天候、気候の恵みを受け、大地から誕生し育まれたものです。それを食し、消化し、人は活動するのですが、その原動力を内臓の胃と結びつけ、「胃の気」と呼びました。他の肝心脾肺腎も、それなしには働くことができず、その臓気も人体のすみずみまで(経絡を使い)行き渡ることができないのです。ただし、これら二つの「胃の気」は厳密に区別できるようなものではなく、意味の領域はとてもあいまいなものです。

 「胃の気の脉」とは何でしょう。最近では脈診はあまり行われていませんが、貝原益軒が生きていた当時は、医学を学んだまともな医師であればだれでも脈診を行っていました。脈診とは、いろいろ種類がありますが、当時主流であったのは手首にある橈骨動脈(寸口)の拍動を触診し病気や死活の診断を行うというものでした。脈を見れば、単純に言っても、その人の心臓の拍動の状態、血管の状態、血液の流れや量の状態など、ひいてはそれをつかさどる自律神経の働きの状態(それだけではありませんが)が推察できるのです。脈診はたいてい病人を診察する時に用いる診断法なので、脈の異常に注目するのですが、「胃の気」がある人は健康であるので脈も正常であり、「長からず、短からず、遅ならず、数ならず、大ならず、小ならず、年に応ずる事、中和にしてうるはし」という中庸の脈になると益軒は言うのです。

 とは言っても、「病脉のみ有て、胃の気の脉なき人は死す」とあるように、「病脉」と「胃の気の脉」は並在することがあり、「胃の気の脉」は上記のような単純な言葉で表現できるようなものではありません。それ故、益軒はまた「此脉、名づけて言がたし。ひとり、心に得べし」とも言いました。これはイマージュの一つであり、直観により認識するものの一つなのでしょう。

「目に精神ある人」の精神は目に見えない心の精神ではありませんね。今風に言えば、目に光がある人であり、生きる力が目に現われている人のことです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 036 (修正版)

2015-09-10 18:51:58 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

ひとり家に居て、閑に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆是心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人も此楽つねに得やすし。もしよく此楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。

古語に、忍は身の宝也といへり。忍べば殃なく、忍ばざれば殃あり。忍ぶはこらゆるなり。恣ならざるを云。忿と慾とはしのぶべし。およそ養生の道は忿慾をこらゆるにあり。忍の一字守るべし。武王の銘に曰、之を須臾に忍べば、汝の躯を全す。書に曰。必ず忍ぶこと有れば、其れ乃ち済すこと有り。古語に云。莫大の過ちは須臾の忍びざるに起る。是忍の一字は、身を養ひ徳を養ふ道なり。

(解説)

 人生の楽しみはいろいろとあるものです。美味しいものを食べたり、たくさん遊んだり、旅行などしたり、お金や宝石、珍奇なものをコレクションしたり、枚挙に暇がありません。しかし楽しみにも損するものと益するものがあります。『論語』季氏では孔子はこう述べました。

益者三楽、損者三楽。礼楽を節せんことを楽しみ、人の善を道うことを楽しみ、賢友多きを楽しむは益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは損なり。

 得をするから楽しいのでははく、損するから楽しくないのでもありません。楽しみの中に損益があり、同じように楽しくないものにも損益があるのです。楽しみとは損益に関らない自然なものです。『論語』述而にはこうあります。

子曰く、疏食を飯らい水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。

 どんなに質素で一見何もないような生活の中にも立派に楽しみはあるのです。しかし儒者の生きる目的は、天下万民のため国を平和に住みやすいように治めることでした。これについては孔子はどう考えていたのでしょうか。『論語』先進にそれを見ることができます。

 孔子と弟子である子路(由)、曾皙(点)、冉有(求)、公西華(赤)がいました。孔子が弟子たちに、「お前たちはふだん自分の真価を分かってくれないと言っているが、もし理解する人が現れて用いてくれるとしたらどうするのだ」と尋ねました。するとまず子路が答えました。

千乗の国、大国の間に摂して、これに加うるに師旅を以てし、これに因るに飢饉を以てせんに、由や之を為さめ、三年に及ぶ比に、勇ありて且つ方を知らしむべきなり。

 孔子はこれを聞くと哂い、次に求に尋ねました。

方の六七十、如しくは五六十、求や之れを為さめ、三年に及ぶ比に、民を足らしむべきなり。其の礼楽の如きは、以て君子に俟たん。

 次に赤が答えました。

之れを能くすと曰うには非ず。願わくは学ばん。宗廟の事、如しくは会同に、端章甫して願わくば小相たらん。

 そして最後に点が答えました。

莫春には、春服既に成り、冠者を五六人、童子を六七人得て、沂に浴し、舞雩に風して、詠じて帰らん。

 それを聞いた孔子は言いました。「吾れは点に与せん」と。三人が政治や学問をしたいと言ったのに対し、点は風流な生き方を選択しました。そして孔子もその生き方に賛成しました。そう、無味乾燥した禁欲生活をおくることが楽しいと自らに思い聞かせて生きるのではないのです。あくまでも人間性豊かに生きることを楽しむ、それが大事なのですね。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 035 (修正版)

2015-08-13 12:23:45 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

貧賎なる人も、道を楽しんで日をわたらば、大なる幸なり。しからば一日を過す間も、その時刻永くして楽多かるべし。いはんや一とせをすぐる間、四の時、おりおりの楽、日々にきはまりなきをや。此如にして年を多くかさねば、其楽長久にして、其しるしは寿かるべし。知者の楽み、仁者の寿は、わが輩及がたしといへども、楽より寿にいたれる次序は相似たるなるべし。

心を平らかにし、気を和かにし、言をすくなくし、しづかにす。是徳を養ひ身をやしなふ。其道一なり。多言なると、心さはがしく気あらきとは、徳をそこなひ、身をそこなふ。其害一なり。

山中の人は多くはいのちながし。古書にも山気は寿多しと云、又寒気は寿ともいへり。山中はさむくして、人身の元気をとぢかためて、内にたもちてもらさず。故に命ながし。暖なる地は元気もれて、内にたもつ事すくなくして、命みじかし。又、山中の人は人のまじはりすくなく、しづかにして元気をへらさず、万ともしく不自由なる故、おのづから欲すくなし。殊に魚類まれにして肉にあかず。是山中の人、命ながき故なり。市中にありて人に多くまじはり、事しげければ気へる。海辺の人、魚肉をつねに多くくらふゆえ、病おほくして命みじかし。市中にをり海辺に居ても、慾をすくなくし、肉食をすくなくせば害なかるべし。

(解説)

 前回、鬼神についてふれましたが、今回はそれの続きです。とは言っても、それは『論語』を読んだことがある人にとっての続きであり、そしてこの三つの短文も繋がっているのです。

 『論語』雍也篇において樊遅は孔子に「知と仁」とは何かと尋ねると、孔子は以下のように述べました。

民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。

仁者は難きを先にして獲るを後にす、仁と謂うべし。

 孔子は続けて言いました。

知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなリ。知者は楽しみ、仁者は寿し。

 益軒は、「山中の人は多くはいのちながし」と山のメリットを説きながらその理由を述べました。その目的は、人々に「仁者」になって欲しいと願っていたからでしょう。「仁者は山を楽し」み、「静か」に生活し、「寿」であり、たとえ人々の初めの目的が単なる長寿であっても、最終的に「仁者」になれば、天下を平和な人間性あふれる世界に近づけていくという儒者の目的を達成できるのです。

 ちなみに「寒気は寿」は『淮南子』墜形訓から来ています。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 034 (修正版)

2015-08-13 12:21:12 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の道、多くいふ事を用ひず。只飲食をすくなくし、病をたすくる物をくらはず、色慾をつゝしみ、精気をおしみ、怒哀憂思を過さず。心を平にして気を和らげ、言をすくなくして無用の事をはぶき、風寒暑湿の外邪をふせぎ、又時々身をうごかし、歩行し、時ならずしてねぶり臥す事なく、食気をめぐらすべし。是養生の要なり。

飲食は身を養ひ、ねぶり臥は気を養なふ。しかれども飲食節に過れば、脾胃をそこなふ。ねぶり臥す事時ならざれば、元気をそこなふ。此二は身を養はんとして、かへつて身をそこなふ。よく生を養ふ人は、つとにおき、よはにいねて、昼いねず、常にわざをつとめておこたらず、ねぶりふす事をすくなくして、神気をいさぎよくし、飲食をすくなくして、腹中を清虚にす。かくのごとくなれば、元気よく、めぐりふさがらずして、病生ぜず。発生の気其養を得て、血気をのづからさかんにして病なし。是寝食の二の節に当れるは、また養生の要也。

(解説)

 ここで出てくる「神気をいさぎよく」とはどのような意味でしょう。それには古代中国の鬼神信仰を知っておかねばなりません。鬼といっても、地獄の閻魔様につかえている赤鬼青鬼とか、村で悪さを繰り返し桃太郎に征伐された鬼たちとは全く異なります。『論語』泰伯で孔子はこう言いました。

禹は吾れ間然すること無し。飲食を菲くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕に致し、宮室を卑くして力を溝洫に尽くす。禹は吾れ間然すること無し。

 孔子にとって禹王は非のうちどころがありませんでした。それは飲食をきりつめて、先祖や神々をお祭りし、衣服や住居などを質素にし、天下の民を水害から守るための灌漑工事に力を尽くしたからです。当時は人は死ぬと鬼になると信じられていました。そして「孝」は父母に行なうものですが、父母が他界していれば「孝を鬼神に致」すのです。そんな鬼神の信仰に対して、漢代の王充は『論衡』論死の中で以下のように主張しました。

人は物なり。物は亦た物なり。物は死して鬼に為らず。人は死して何故獨り能く鬼と為る。世は能く人物を別つも鬼と為すあたわず。則ち鬼と為す鬼と為さざるは尚、分明し難し。別つあたわざるが如し。則ち亦た以って其の能く鬼と為すを知ること無し。

人の生きる所以は、精気なり。死して精気は滅す。能く精気を為すは血脈なり。人は死して血脈竭き、竭きて精気は滅す。滅して形體は朽ち、朽ちて灰土と成す。何を用って鬼と為す。

人に耳目無ければ、則ち知る所無し。故に聾盲の人、草木に比べられる。夫れ精気が人より去れば、豈に徒だに耳目無しと同じならんや。朽ちて則ち消亡し、荒忽として見られず。故に之れを鬼神と謂う。人の鬼神の形を見るは、故より死人の精に非ざるなり。

何ぞや。鬼神は荒忽として見えざることの名なり。人は死して精神は天に升ぼり、骸骨は土に帰る、故に之れを鬼と謂う。鬼は帰なり。神は荒忽として無形なる者なり。或説に、鬼神は陰陽の名なり。陰気は物を逆して帰し、故に之れを鬼と謂う。陽気は物を導きて生じ、故に之れを神と謂う。神は、伸なり。申復して已むこと無し。終して復た始まる。

人は神気を用いて生じ、其れ死して復た神気帰る。陰陽は鬼神を称し、人は死して亦た鬼神を称す。気は人を生じ、猶ほ水の冰を為すがごときなり。水は凝して冰を為し、気は凝して人を為す。冰は釋けて水を為し、人は死して神を復す。其れ名は神を為すなり。猶ほ冰の釋けて水と名を更めるがごときなり。人は名の異なるを見て、則ち知の有るを謂う。能く形を為して人を害す。據すること無く以って之れを論ずるなり。

 王充は古代中国の合理主義者の代表格ですが、ここでも超自然的な信仰を否定し、高度な言語論を展開しています。もちろん、この論の中で人間の生死を説明する単語、「神気」にも「精気」にも超自然的な意味合いは全くありません。あるのは言語上の曖昧さだけであり、それも現代のそれに比べて五十歩百歩なのです。「神気」、それは人を生命たらしめるもの、大自然からのあずかりものなのであり、そして『淮南子』俶真訓には、「神、清らかなれば、嗜欲乱すこと能ず」とあります。「神気をいさぎよく」、この言葉にはこのような背景があるのでした。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 033 (修正版)

2015-08-13 12:18:57 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人、毎日昼夜の間、元気を養ふ事と元気をそこなふ事との、二の多少をくらべ見るべし。衆人は一日の内、気を養ふ事は常にすくなく、気をそこなふ事は常に多し。養生の道は元気を養ふ事のみにて、元気をそこなふ事なかるべし。もし養ふ事はすくなく、そこなふ事多く、日々つもりて久しければ、元気へりて病生じ、死にいたる。この故に衆人は病多くして短命なり。かぎりある元気をもちて、かぎりなき慾をほしゐまゝにするは、あやうし。

古語曰、日に慎しむこと一日、寿して終に殃なし。言心は一日々々をあらためて、朝より夕まで毎日つヽしめば、身にあやまちなく、身をそこなひやぶる事なくして、寿して、天年をおはるまでわざはひなしと也。是身をたもつ要道なり。

飲食色慾をほしゐまヽにして、其はじめ少の間、わが心に快き事は、後に必身をそこなひ、ながきわざはひとなる。後にわざはひなからん事を求めば、初わが心に快からん事をこのむべからず。万の事はじめ快くすれば、必後の禍となる。はじめつとめてこらゆれば、必後の楽となる。

(解説)

 宋代の類書『太平御覧』にはこんな話が載っています。周の武王と太公望の会話です。

武王、師尚父に問いて曰く。

「五帝の戒、聞くをうべきか」

師尚父曰く。

「黄帝云く。予は民上に在り。搖搖として夕の朝に至らずを恐る、故に金人は其口を三緘し、言語を慎むなり。

堯は民上に居る、振振として深淵に臨むが如し。

舜は民上に居る、兢兢として薄冰を履むが如し。

禹は民上に居る、慄慄として日を満たさざるが如し。

湯は民上に居る、翼翼として敢て息せざるを懼る。

吾は聞く。道は微よりして生じ、禍は微よりして成る。終と始を慎みて、金城の如く完うす。怠に勝つを敬せば則ち吉、欲に勝つを義せば則ち昌。日に慎むこと一日。寿して終いに殃なし」

 太公望は、圧倒的に有利な殷の紂王の軍隊を牧野の戦いでやぶり、周を勝利に導いた伝説的な軍師です。ちなみに牧野の戦いは、『史記』には、周軍は兵車三百乗、勇士三千人、武装兵四万五千人であり、殷軍は七十万の兵であったと記されています。その彼が武王に「五帝の戒」を訊かれて答えたのがこれらの言葉です。

 君子のもっとも尊敬すべき、見習うべき五人の聖帝は常に天下の民のことを考え、慎み深く生きていたのです。益軒は長寿のための養生法を説きましたが、長寿の目的は長く生きることでも、個人的な楽しみでもないのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 032 (修正版)

2015-08-13 12:16:26 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

一時の慾をこらへずして病を生じ、百年の身をあやまる。愚なるかな。長命をたもちて久しく安楽ならん事を願はゞ、慾をほしゐまゝにすべからず。慾をこらゆるは長命の基也。慾をほしゐまゝにするは短命の基也。恣なると忍ぶとは、是寿と夭とのわかるる所也。

易に曰、患を思ひ、予てこれを防ぐ。いふ意は後の患をおもひ、かねて其わざはひをふせぐべし。論語にも、人遠き慮なければ、必近きうれひあり、との玉へり。是皆、初に謹んで、終をたもつの意なり。

人、慾をほしゐまゝにして楽しむは、其楽しみいまだつきざる内に、はやくうれひ生ず。酒食色慾をほしゐまゝにして楽しむ内に、はやくたたりをなして苦しみ生ずるの類也。

(解説)

 「慾をほしゐまゝにすべからず」は「総論上」から何度も繰り返され、またこの後何度も繰り返されます。大切なことだからでしょう。

 「患を思ひ、予てこれを防ぐ」というのは、『易経』の、これは予言書でもあり哲学書でもある儒学の経典の一つですが、その中の既済の卦にある言葉。ちょっと確認してみましょう。

既済 亨ること小なり。貞しきに利ろし。初めは吉にして終わりは乱る。

象に曰く、既済は亨るとは、小なる者亨るなり。貞しきに利ろしとは剛柔ただしくして位当たればなり。初めは吉なりとは、柔中を得ればなり。終に止みて則ち乱る、其の道窮まるなり。

象に曰く、水の火上に在るは既済なり。君子以て患いを思い、予め之を防ぐ。

 既済の卦は、初めは良いが終わりが悪いというもので、君子であれば先を見越して予防しましょう、という内容です。予言書があるくらいなので運命は決定しているのだ、とついつい思ってしまいますが、未来は人間の知性と努力で変えることが出来るのです。

 「人遠き慮なければ、必近きうれひあり」は、『論語』衛靈公にある孔子の言葉。「一時の慾をこらへずして病を生じ、百年の身をあやまる」という益軒の言葉を対になって擁護しています。「一時の慾をこらへ」ないのは「遠慮」がないからなので、「愚なるかな」と言っているのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 031 (修正版)

2015-07-21 16:16:44 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

爰に人ありて、宝玉を以てつぶてとし、雀をうたば、愚なりとて、人必わらはん。至りて、おもき物をすてゝ、至りてかろき物を得んとすればなり。人の身は至りておもし。然るに、至りてかろき小なる欲をむさぼりて身をそこなふは、軽重をしらずといふべし。宝玉を以て雀をうつがごとし。

心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。凡わが身を愛し過すべからず。美味をくひ過し、芳うんをのみ過し、色をこのみ、身を安逸にして、おこたり臥す事を好む。皆是、わが身を愛し過す故に、かへつてわが身の害となる。又、無病の人、補薬を妄に多くのんで病となるも、身を愛し過すなり。子を愛し過して、子のわざはひとなるが如し。

(解説)

 「総論上―解説 010」にも出てきました。「薬は皆気の偏」なのであり、「参芪朮甘の上薬といへども、其病に応ぜざれば害あり。況、中下の薬は元気を損じ他病を生ず」るのです。病気でもないのに薬を飲んではいけません。

 子供への愛情。どんな愛も過剰になれば害となります。貝原益軒は『和俗童子訓』という育児書を残していますが、この中で以下のように述べています。

凡、小児をそだつるに、初生より愛を過すべからず。愛すぐれば、かへりて、児をそこなふ。衣服をあつくし、乳食にあかしむれば、必、病多し。衣をうすくし、食をすくなくすれば、病すくなし。富貴の家の子は、病多くして身よはく、貧賎の家の子は、病すくなくして身つよきを以、其故を知るべし。小児の初生には、父母のふるき衣を改めぬひて、きせしむべし。きぬの新しくして温なるは、熱を生じて病となる。古語に、凡そ小児を安からしむるには、三分の餌と寒とをおぶべし、といへり。三分とは、十の内三分を云。此こころは、すこしはうやし、少はひやすがよし、となり。最古人、小児をたもつの良法也。世俗これを知らず、小児に乳食を、多くあたへてあかしめ、甘き物、くだ物を、多くくはしむる故に、気ふさがりて、必脾胃をやぶり、病を生ず。小児の不慮に死する者は、多くはこれによれり。又、衣をあつくして、あたため過せば、熱を生じ、元気をもらすゆへ、筋骨ゆるまりて、身よはし。皆是病を生ずるの本也。からも、やまとも、昔より、童子の衣のわきをあくるは、童子は気さかんにして、熱おほきゆへ、熱をもらさんがため也。是を以、小児は、あたためすごすが悪しき事を知るべし。天気よき時は、おりおり外にいだして風日にあたらしむべし。かくのごとくすれば、はだえ堅く、血気づよく成て、風寒に感ぜず。風日にあたらざれば、はだへもろくして、風寒に感じやすく、わづらひおほし。小児のやしなひの法を、かしづき育つるものに、よく云きかせ、教えて心得しむべし。

 今も昔も過保護な親はいるものです。愛することは大切な人情。しかし自身の身体へも子供へもそれが過剰にならないように気をつけましょう。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 030 (修正版)

2015-07-21 16:14:43 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

酒食の気いまだ消化せざる内に臥してねぶれば、必、酒食とゞこほり、気ふさがりて病となる。いましむべし。昼は必、臥すべからず。大に元気をそこなふ。もし大につかれたらば、うしろによりかゝりてねぶるべし。もし臥さば、かたはらに人をおきて、少ねぶるべし。久しくねぶらば、人によびさまさしむべし。

日長き時も昼臥すべからず。日永き故、夜に入て、人により、もし体力つかれて早くねぶることをうれへば、晩食の後、身を労動し、歩行し、日入の時より臥して体気をやすめてよし。臥して必ねぶるべからず。ねぶれば甚害あり。久しく臥べからず。秉燭の比おきて坐すべし。かくのごとくすれば夜間体に力ありて、ねぶり早く生ぜず。もし日入の時よりふさゞるは尤よし。

養生の道は、たのむを戒しむ。わが身のつよきをたのみ、わかきをたのみ、病の少いゆるをたのむ。是皆わざはひの本也。刃のときをたのんで、かたき物をきれば、刃折る。気のつよきをたのんで、みだりに気をつかへば、気へる。脾腎のつよきをたのんで、飲食、色慾を過さば、病となる。

(解説)

 食後の消化していないうちに横になって寝てはいけない。これは今も一般的に言われているので解説しなくていいですね。『千金方』にも「食して則ち臥すは傷なり」と書かれているように昔から経験的に知られていたことです。

 昼寝をしてはいけない。これは「総論上」でも出てきました。

 「脾腎のつよきをたのんで・・・」というのは何でしょう。これは五臓六腑のうち脾の臓と腎の臓のこと。「脾胃なる者は、倉廩の官、五味焉より出る」(『素問』霊蘭秘典論)というように食べ物を受け入れる臓器であり、「脾気は口に通じる。脾和すれば則ち口は能く五穀を知るなり」(『霊枢』脈度篇)というように、食欲と味覚をつかさどる臓器でもあります。「腎なるものは、蟄を主り、封蔵も本、精の処なり」(『素問』六節蔵象論)とあるように、生殖に関係深い精を貯蔵している臓器です。それゆえ、飲食、色慾行動をおこすには脾腎の力が必要であり、もしそれが強いから、もしくは強いと思い込むことで飲食、色慾を過せば、それらの気を消耗し病になると益軒は言ったのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 029 (修正版)

2015-07-21 16:13:07 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

華陀が言に、人の身は労動すべし。労動すれば穀気きえて、血脈流通す、といへり。およそ人の身、慾をすくなくし、時々身をうごかし、手足をはたらかし、歩行して久しく一所に安坐せざれば、血気めぐりて滞らず。養生の要務なり。日々かくのごとくすべし。呂氏春秋曰、流水腐らず、戸枢螻まざるは、動けば也。形気もまた然り。いふ意は、流水はくさらず、たまり水はくさる。から戸のぢくの下のくるゝは虫くはず。此二のものはつねにうごくゆへ、わざはひなし。人の身も亦かくのごとし。一所に久しく安坐してうごかざれば、飲食とゞこほり、気血めぐらずして病を生ず。食後にふすと、昼臥すと、尤、禁ずべし。夜も飲食の消化せざる内に早くふせば、気をふさぎ病を生ず。是養生の道におゐて尤いむべし。

千金方に曰、養生の道、久しく行き、久しく坐し、久しく臥し、久しく視ることなかれ。

(解説)

 華陀とは名医の代名詞的存在にもなっていて、『三国志』にも登場し、曹操の権力にも屈服しなかった医師です。彼は「麻沸散」と呼ぶ麻酔薬を使用し、腹や背を切り開き内臓を治療するなどの外科手術をしていたことでも知られていますが、養生の術にも長けていました。華佗については、『後漢書』方術列伝下に記されています。

華佗は字を元化。沛国譙人なり。一名を歸 。徐土に遊学す。数経に兼通し。養性之術に曉る。年は百歳に且く、猶ほ壮容有り。時の人以って仙と為す。

 華陀は、百歳近くになってもその容貌は壮年の頃のようであり、「養性之術に曉」り、同じ時代の人々は彼を仙人のようであると言っていたのです。その華陀はこう述べました。

人体は労動を欲す。但し當に使極すべからず。動搖せば則ち穀氣は銷ゆ。血脈は流通す。病は生せず。譬えば猶ほ戸枢の終に朽ざるなり。

 と言うわけで、華佗以前の古の仙人は体を動かす体操「導引術」をあみだしたのですが、それは難しいので、華陀は「五禽之戯」と名づけた簡単な健康体操を推奨しました。それは、虎・鹿・熊・猿・鳥を真似て行なうもので、これを毎日続けると、九十歳になっても耳目聰明で歯牙完堅な身体を維持できると説きました。

 『千金方』は「総論上」でも出てきましたが、ここの出典は「道林養性第二」からです。『千金方』ではこう続きます。

久しく視るは血を傷る。久しく臥すは気を傷る。久しく立つは骨を傷る。久しく坐すは肉を傷る。久しく行ふは筋を傷る。

 ずっと横になって寝てばかりいればやる気が失せて行動する意欲がなくなり、ずっと立ちっぱなしの生活をつづけていると、腰痛や脊椎の圧迫骨折などが起こり、ずっと座ってばかりいると、大腿四頭筋や腓腹筋など目に見えて減少していき、休むことなく運動を続ければ筋肉・腱などを痛めます。ここまでは具体的に観察できるものです。しかし、「久しく視るは血を傷る」とはどういうことでしょうか。目で見ることを続けても、実際に出血することも貧血になることもないでしょう。

 そもそもこの記載は、『素問』宣明五気篇の一文が由来です(『千金方』は唐代、『素問』は漢代頃の書)。この篇の根底には五行学説が流れており、これは何でも五つに分類し、その関係性を考察し、一般化し、抽象的な理論になったものです。この五行説を利用した医学理論には、具体的な現象、事例とともに、理論的にそうあるべきだという演繹的帰結が混在しています。この「久視・・・」もその一つかもしれません。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 028 (修正版)

2015-07-21 16:11:00 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

凡、朝は早くおきて、手と面を洗ひ、髪をゆひ、事をつとめ、食後にはまづ腹を多くなで下し、食気をめぐらすべし。又、京門のあたりを手の食指のかたはらにて、すぢかひにしばしばなづべし。腰をもなで下して後、下にてしづかにうつべし。あらくすべからず。もし食気滞らば、面を仰ぎて三四度食毒の気を吐くべし。朝夕の食後に久しく安坐すべからず。必ねぶり臥すべからず。久しく坐し、ねぶり臥せば、気ふさがりて病となり、久しきをつめば命みじかし。食後に毎度歩行する事、三百歩すべし。おりおり五六町歩行するは尤よし。

家に居て、時々わが体力の辛苦せざる程の労動をなすべし。吾起居のいたつがはしきをくるしまず、室中の事、をつかはずして、しばしばみづからたちて我身を運用すべし。わが身を動用すれば、おもひのままにして速に事調ひ、下部をつかふに心を労せず。是、心を清くして事を省く、の益あり。かくのごとくにして、常に身を労動すれば気血めぐり、食気とどこほらず、是養生の要術也。身をつねにやすめおこたるべからず。我に相応せる事をつとめて、手足をはたらかすべし。時にうごき、時に静なれば、気めぐりて滞らず。静に過ればふさがる。動に過ればつかる。動にも静にも久しかるべからず。

(解説)

 「総論下」になると養生法がますます具体的になってきます。文章も読みやすく解説を挟む余地があまりないのですが、所々言葉の解説だけしていきます。

 「京門」というのは、ツボの名前であり、足少陽胆経の経穴の一つ。腎の募であり別名、気府とも気兪とも呼ばれ、季脇の下一寸八分の場所にあります。別名から推察されるように、気の集まるところであり、ここでは「食気をめぐらす」ために使っています。が、ここではツボの特性はあまり関係なさそうです。お腹を前面、側面、後面と「なで下ろし」ていますが、その側面を指示するために、「京門」という名前を使っています。

 「食毒の気」というのは、ゲップで出る気でしょう。

 ところで『徒然草』九十三段に以下のように書かれています。

  「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しみを忘れて、いたづがはしく外の楽しみを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志、満つる事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」

 「日々是好日」と言うように、「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」と富貴などではなく、なにげない日常の生きてきることそのものが楽しみである、という思想があります。また「生死の相にあづからず」という、生死を超越した悟りの境地もあります。この文章で使われている「いたづがはしく」は、「苦労して・骨を折って・大変な思いをして」というような意味でしょう。日々は楽しむものであり、辛く苦しい労働は養生のためにも良くありません。過ぎたるは何とやらです。

 宋代の詩人、陸游は『上殿札子』でこう詠っています。

人君と天は徳を同じくす、惟れ当に心を清くし事を省く、淡然とし虚静、之を損し又損し、無為に至る

 人君も天も、心から無用なものを取り除き、心は澄みきり、無駄な行いもすることはない。静かに余計なものをどんどん取り除き、無為に至るのです。何もしないわけではなく、道に法った自然な行い、無為の為をしているわけです。貝原益軒は養生のハウツーを説きながら、こっそり哲学を織り交ぜます。

(ムガク)



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貝原益軒について (修正版)

2015-06-27 17:06:24 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

 ここまで『養生訓』の解説をしてきましたが、貝原益軒についてはどんな人物なのかほとんど説明してませんでしたので、ここでざっと彼の経歴を見てみましょう。



一六三〇年 寛永七年
十一月十四日、福岡城内、東邸に生まれる。

 (この年は、徳川家光が征夷大将軍に就いてから八年後、古学者伊藤仁斎が四歳の頃です)

一六三五年 寛永十二年 五歳
四月三日、母を失う。

一六三六年 寛永十三年 六歳
草子類を読みはじめる。走ったり跳んだりすることが得意でなく、友人と遊ぶことを好まない。

一六三七年 寛永十四年 七歳
父寛斎にしたがって穂波郡八木山の知行所に移る。

一六三八年 寛永十五年 八歳
島原の乱、父従軍。次兄存斎から漢文の手ほどきをうける。家が貧しく、他から借りて平家・保元・平治物語を読む。

一六三九年 寛永十六年 九歳
次兄存斎、医をまなぶため京都に留学。

一六四〇年 寛永十七年 十歳
福岡の新大工町に移る。

一六四一年 寛永十八年 十一歳
父にしたがって怡土群井原に移る。太平記を読む。

一六四二年 寛永十九年      十二歳
継母を失う。

一六四三年 寛永二十年      十三歳
父寛斎、知行所を失う。生活のため福岡荒戸新町に出て医を営む。益軒、父の蔵書の医書を読む。次兄存斎、京都から帰り、 仏教をけなす。益軒、以後仏を拝しない。

一六四六年 正保三年        十六歳
荒津山の下に移る。はじめて『小学』を読む。

一六四七年 正保四年
三年前より江戸に留まっていた父帰る。

一六四八年 慶安元年 十八歳
任官して国主忠之の近侍となる。四人扶持。父にしたがってはじめて江戸に行く。

一六四九年 慶安二年 十九歳
江戸から帰って元服。忠之から譴責をうけ、十五日間閉門。

一六五〇年 慶安二年 二十歳
忠之の怒りにふれ失職。以後七年間浪人。

 (藩主黒田忠之は、お家騒動「黒田騒動」の中心人物であり、益軒はこの頃、その忠之から被害がありました)

一六五一年 慶安四年 二十一歳
『近思録』を読む。

一六五五年 明暦元年 二十五歳
長崎に遊ぶ。医者となる決心をし、江戸に行く。川崎の宿で剃髪し柔斎と称した。

 (江戸初期の医師は、剃髪をし僧衣を身に着けるのが常でした。士農工商の身分制度から外れた存在であるとアピールするためです。同じように、貴人に仕える近従や儒学者なども剃髪し僧衣を身に着けました)

一六五六年 明暦二年 二十六歳
国主の光之に仕え六人扶持をもらう。

一六五七年 明暦三年   二十七歳
京都に遊学、安楽小路上町に住む。山崎闇斎・木下順庵・松永尺五らを訪ねる。

 (益軒は藩費で儒学を学ぶため京に遊学することになりました。松永尺五と言えば、あの藤原惺窩の弟子であり、林羅山・那波活所・堀杏庵とともに窩門四天王と言われていました。残念ながら二ヶ月で尺五は他界しました)

一六五八年 万治元年     二十八歳
『大学』を講義する。木下順庵の講義に列する。

 (木下順庵は松永尺五の弟子であり、益軒と順庵はお互いに講義を聴きあっていました)

一六六二年 寛文二年     三十二歳
一時帰藩。三十石に加禄される。また京都に帰る。講義にあつまるものが多くなる。

 (益軒の講義は、『小学句読』『孝経』『大学章句』『論語集註』『近思録』などです)

一六六四年 寛文四年     三十四歳
福岡に帰る。知行一五十石となる。十月、江戸に行く。

一六六五年 寛文五年     三十五歳
三月、江戸を発し京都に滞在。父寛斎、福岡で死亡。著書『易学提要』『読書順序』

一六六六年 寛文六年     三十六歳
一月、福岡に帰る。十月、江戸に行く。

一六六七年 寛文七年     三十七歳
二月、京都に向かう。春夏の間に淋疾・疝気・痰火(気管支炎)を病む。秋、大和旅行。著書『止戈編』

一六六八年 寛文八年    三十八歳
六月二十六日、江崎広道の娘初(十六歳)と結婚。十一月、江戸に行く。髪をのばし久兵衛を名のる。著書『近思録備考』

 (益軒は、この歳に髪をのばしました。これは正式に医師を辞めて武士階級の儒者になったことを意味します。知行も儒臣として最高の二百石になりました)

一六六九年 寛文九年    三十九歳
三月、京都に向かう。七月、福岡に帰り、荒津の東浜に邸宅を国主よりもらう。著書『顧抄』『小学句読備考』

一六七一年 寛文十一年     四十一歳
三月、京都へ行く。七月、福岡に帰る。黒田家譜編集の命令をうける。

一六七三年 延宝元年    四十三歳
京都滞在一ヶ月

一六七四年 延宝二年    四十四歳
九月、主君光之にしたがって江戸に行く。

一六七五年 延宝三年    四十五歳
幕府薬園の薬草を見学。五月、福岡に帰る。

一六七六年 延宝四年    四十六歳
長崎に藩命で図書を買いに行く。

一六七七年 延宝五年    四十七歳
命令により宗像郡大島に行き漂流してきた朝鮮人と筆談する。その後も機会あるたびに朝鮮人と筆談し、朝鮮の学問と風習を知ろうとした。

一六七八年 延宝六年    四十八歳
『黒田家譜』をつくり献上して、光之より白銀百両をもらう。

一六七九年 延宝七年    四十九歳
著書『杖植紀行』『伊野太神宮縁起』『初学詩法』『増福院祭田記』

一六八〇年 延宝八年
長門・大阪・京都・奈良・吉野山・箕面・有馬を旅行。著書『畿内吟行』『京畿紀行』『大和河内路記』『本草綱目目録和名』

一六八一年 天和元年    五十一歳
飢饉、知行所の農民に銀一七一匁を分けあたえる。

一六八二年 天和二年    五十二歳
十月、海路江戸に行く。著書『頣生輯要』

一六八三年 天和三年 五十三歳
三月、江戸を出て伊勢・大和をへて京都に入る。五月、福岡に帰る。

一六八四年  貞亨元年 五十四歳
幕府の命で黒田長政の戦事歴の調査。二月、江戸に行き、関が原・播州をみて・五月、帰福。十一月、再度江戸に行く。著書「黒田公勲功記』『大宰府天満宮故実』『大学新疏』

一六八五年 貞享二年 五十五歳
三月、江戸を発し、日光・足利学校・妙義l山にいたり、中仙道をへて、東近江から敦賀に行く。四月、京都に入り、六月、帰福。著書『西帰吟稿』

一六八六年 貞享三年 五十六歳
明の朱竹坨、、長崎に来て益軒の『近思録備考』を読み、好著とし自ら筆写して帰る。

一六八七年 貞享四年 五十七歳
著書『学則』『和字家訓』『吾嬬路記』

一六八八年 元禄元年 五十八歳
筑前風土記をつくる準備をはじめる。国内を巡遊。七月、京都に行く。約一年滞在。米川玄察に筝を習う。十一月、南都見物。

一六八九年 元禄二年 五十九歳
一月、京都を出て、丹波・若狭・近江をめぐる。二月、河内和泉から紀伊に行く。五月、京都を発して帰福。著書『平韻弁声』『香譜』『厳島図並記事』

一六九〇年 元禄三年 六十歳
福岡。博多の諸寺をたずね故実を問う。西方諸群巡遊。著書『香椎宮紀事』『都鄙行遊記』

一六九一年 元禄四年     六十一歳
四月、京都に行き、五月、東近江に遊ぶ。八月、福岡に帰る。著書『黒田家臣由来記』『筑前名寄』『江東紀行』『背振山記』

一六九二年 元禄五年     六十二歳
四月、船で室津にいたり、書写山にのぼり、姫路・大阪・大和・伊勢をへて、五月、江戸に着く。七月、発して京都にいたって滞在。著書『続和漢名数』『壬申紀行』『大和巡覧記』

一六九三年 元禄六年     六十三歳
著書『磯光天照宮縁起』『講説規戒』

一六九四年 元禄七年     六十四歳
十一月、京都に行く。著書『熊野路記』『豊国紀行』

一六九五年 元禄八年     六十五歳
京都にあって公卿と交遊。五月、帰福。辞職を願ったが許されない。次兄存斎、死去。

一六九六年 元禄九年     六十六歳
知行三百石となる。客を招いて祝宴数日。

一六九八年 元禄十一年    六十八歳
二月、夫人・侍僕を伴って大阪・京都見物。九月、有馬温泉に遊ぶ。

一六九九年 元禄十二年    六十九歳
著書『和字解』『日本釈名』『三礼口訣』

一七〇〇年 元禄十三年     七十歳
七月、辞職を許される。

一七〇一年 元禄十四年 七十一歳
著書『近世武家編年略』『至要編』『宗像郡風土記』

一七〇二年 元禄十五年 七十二歳
末兄楽軒の病重く再三訪う。三月、楽軒、死去。著書『音楽紀聞』

一七〇三年 元禄十六年 七十三歳
国内巡遊。著書『筑前国続風土記』『点例』『和歌紀聞』『黒田忠之公譜』『五倫訓』『君子訓』

一七〇四年 宝永元年 七十四歳
夏、夫人大病。著書『宗像三社縁起並附録』『菜譜』

一七〇五年 宝永二年 七十五歳
命により『三才図会』の修補。著書『古詩断句』『鄙事記』

一七〇六年 宝永三年 七十六歳
『三才図会』の修補おわって献上。著書『和漢古諺』

一七〇七年 宝永四年 七十七歳
三月、国内を巡遊し古蹟をさぐる。五月、先君光之、死去。

一七〇八年 宝永五年 七十八歳
著書『大和俗訓』

一七〇九年 宝永八年 七十九歳
著書『大和木草』『岐蘇路記』『篤信一世用財記』

一七一〇年 宝永七年 八十歳
著書『楽訓』『和俗童子訓』

一七一一年 正徳元年 八十一歳
著書『岡湊神社縁起』『有馬名所記』『五常訓』『家道訓』

一七一二年 正徳二年
著書『心画規範』『自娯集』

一七一三年 正徳三年 八十三歳
秋より重症の東軒夫人、十二月二十六日、死去。著書『養生訓』『諸州巡覧記』『日光名勝記』

一七一四年 正徳四年 八十四歳
夫人を失ってから孤独でさびしく健康も正常を失う。春になっても客をことわって逢わない。二月に一度よくなって笛崎あたりまで出かけられるようになったが、四月、再発し、手足麻痺し、ついに起たない。夏に『大疑録』を完成、八月二十七日、死去。西町金竜寺の竜潜庵に葬る。

 十三歳の頃から、益軒は仏教を好みませんでした。埋葬は寺でしたが、葬儀は仏式でありません。ひたすら儒教の研究と普及に力を注いだ一生でした。

参考文献:『日本の名著 貝原益軒』中央公論社

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


貝原益軒の養生訓―総論上―解説 027 (修正版)

2015-06-27 17:04:31 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

気は、一身体の内にあまねく行わたるべし。むねの中一所にあつむべからず。いかり、かなしみ、うれひ、思ひ、あれば、胸中一所に気とどこほりてあつまる。七情の過て滞るは病の生る基なり。

俗人は、慾をほしゐままにして、礼儀にそむき、気を養はずして、天年をたもたず。理気二ながら失へり。仙術の士は養気に偏にして、道理を好まず。故に礼儀をすててつとめず。陋儒は理に偏にして気を養はず。修養の道をしらずして天年をたもたず。此三つは、ともに君子の行ふ道にあらず。

(解説)

 貝原益軒はここまで養生法にことよせて君子の道を説いてきました。人には色々な生き方があります。俗人、仙術の士、また陋儒などの生き方ですが、陋儒は、儒者の中でも頭でっかちで理屈を弄ぶだけで正しい行動をしません。彼らは、「理に偏にして気を養はず。修養の道をしらずして天年をたもた」ないのです。仙術の士は、仙人になること、仙術を会得することを目的に修行を積み重ねますが、道理や礼儀を修め、天下万民に尽くすことを考えません。彼らは、「養気に偏にして、道理を好まず」、「礼儀をすててつとめ」ないのです。そして俗人ではそのどちらの生き方もせず、「慾をほしゐままにして、礼儀にそむき、気を養はずして、天年をたもたず、理気二ながら失」います。

 理と気、これらは「総論上 解説023」でもでてきましたが、何なのでしょうか。『易経』繋辞伝には、「一陰一陽、之を道と謂う」とありますが、これに対し、程伊川(宋代の哲学者、朱子学の始祖の一人)はこう言っています。「陰陽は気なり。気は是れ形而下なるもの、道は是れ形而上なるもの」と。つまり、ここでの理は、道理の理であり、また形而上の存在であることが分かります。形而上とは、形の無いもの、例えば「一年は約365日である」とか、「人は誰でも必ず死ぬ」、「何の養生もしなければ天年を保てない」などの事柄がそうです。これらはモノではありませんね。また気とは、固体でも、液体でも、気体でも何でもいいのですが、形而下の存在であり、これは物質のことです。

 人の身体は天地の気が聚まったものであるので、死んでしまうことは気を失うことであり、「慾をほしゐままにして、礼儀にそむ」く生き方は、理に背くことである。そう益軒はここで言ったのです。

 益軒は黒田藩の、また日の本の儒者として、天下の民の感化に力を注いできました。儒学の講義を続け、儒学を一般の人にも分かりやすく読み下した本を作ったり、時には自ら知行所の領主として飢饉の時に農民に施しをしました。『養生訓』総論上には『孫子』など兵法の話がよく出てきましたが、益軒の仕えた黒田光之は、豊臣秀吉の成功を支えた兵法家、黒田官兵衛の子孫です。黒田藩には自然と兵学を大切にする空気があり、中国の医学は、また養生法も、兵法と深く関連しているのですが、益軒はこのような藩の中で、その関連を隠すことなく、惜しみなく披露することができたのです。

 総論上はこれで終わりです。次は総論下です。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


貝原益軒の養生訓―総論上―解説 026 (修正版)

2015-06-27 16:56:12 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の道は、恣なるを戒とし、慎を専とす。恣なるとは慾にまけてつつしまざる也。慎は是恣なるのうら也。つつしみは畏を以、本とす。畏るるとは大事にするを云。俗のことわざに、用心は臆病にせよと云がごとし。孫真人も、養生は畏るるを以本とす、といへり。是養生の要也。養生の道におゐては、けなげなるはあしく、おそれつつしむ事、つねにちいさき一はしを、わたるが如くなるべし。是畏るなり。わかき時は、血気さかんにして、つよきにまかせて病をおそれず、慾をほしゐままにする故に、病おこりやすし。すべて病は故なくてむなしくはおこらず、必、慎まざるよりおこる。殊に老年は身よはし、尤おそるべし。おそれざれば老若ともに多病にして、天年をたもちがたし。

人の身をたもつには、養生の道をたのむべし。針灸と薬力とをたのむべからず。人の身には口腹耳目の欲ありて、身をせむるもの多し。古人のをしえに、養生のいたれる法あり。孟子にいはゆる、慾を寡くする、これなり。宋の王昭素も、身を養ふ事は慾を寡するにしくはなし、と云。省心録にも、慾多ければ即ち生を傷る、といへり。およそ人のやまひは、皆わが身の慾をほしゐままにして、つつしまざるよりおこる。養生の士はつねにこれを戒とすべし。

(解説)

 益軒はここでも、畏れ慎しみ、そして慾を少なくするようにと説きます。孫真人とは唐代の医師であり、『千金方』を著しました。益軒は『養生訓』巻六択医で、「孫思邈は、又、養生の祖なり。千金方をあらはす。養生の術も医方も、皆宗とすべし。老荘を好んで異術の人なれど、長ずる所多し。医生にすすむるに、儒書に通じ、易を知るを以てす。廬照鄰に答えし数語、皆、至理あり。此人、後世に益あり。医術に功ある事、皇甫謐、葛洪、陶弘景等の諸子に越たり。寿、百余歳なりしは、よく保養の術に長ぜし効なるべし」、と述べています。

 また、ここでは慾を少なくするを説くために、孟子や宋代の道徳人王昭素、同じく宋代の詩人林逋の『省心録』などから言葉を集めました。主張していることは、今まで「養生訓総論上」で述べてきたことと同じです。益軒はそれを言葉を換え、角度を変えながら繰り返します。

(ムガク)