はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

伝統医学・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師・・

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 025 (修正版)

2015-06-06 12:10:55 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

聖人は未病を治すとは、病いまだおこらざる時、かねてつつしめば病なく、もし飲食色欲などの内慾をこらえず、風寒暑湿の外邪をふせがざれば、其おかす事はすこしなれども、後に病をなす事は大にして久し。内慾と外邪をつつしまざるによりて、大病となりて、思ひの外にふかきうれひにしづみ、久しく苦しむは、病のならひなり。病をうくれば、病苦のみならず、いたき針にて身をさし、あつき灸にて身をやき、苦き薬にて身をせめ、くひたき物をくはず、のみたきものをのまずして、身をくるしめ、心をいたましむ。病なき時、かねて養生よくすれば病おこらずして、目に見えぬ大なるさいはいとなる。

孫子が曰、よく兵を用る者は赫々の功なし。云意は、兵を用る上手は、あらはれたるてがらなし、いかんとなれば、兵のおこらぬさきに戦かはずして勝ばなり。又曰、古の善く勝つ者は、勝ち易きに勝つ也。養生の道も亦かくの如くすべし。心の内、わづかに一念の上に力を用て、病のいまだおこらざる時、かちやすき慾にかてば病おこらず。良将の戦はずして勝やすきにかつが如し。是上策なり。是未病を治するの道なり。

(解説)

 『素問』四気調神大論には、こう書かれてあります。「聖人は已病を治せず。未病を治す。已乱を治せず。未乱を治す・・・。夫れ病を已に成りて後に之を薬し、乱を已に成りて後に之を治めるは、譬えれば猶ほ渇きて井を穿ち、闘いて錐を鋳す。亦た晩からずや」と。聖人は、未病を治すのであって病気を治さず、戦争を治めるのではなく、起こる前に治めるのであると。病となり、また戦争になった後に治そうと努めても、それは咽が乾いてから井戸を堀り、戦闘が起きてから武器を鋳造するようなものなのです。

 益軒は、「解説011」にもあったように、病気を戦争に、医療を兵法に喩えました。この考え方は、医療が呪術から科学技術になった時代、病気が祟りでも天罰でもなくなった時代、古代中国は戦国時代にまで遡ります。病気は神や超自然的な力によりひき起こされるのではなく、祈りや呪ないで治癒するのでもなく、人の力により戦って治療されるべきものである、という考えが生まれ、今日に至りました。

日本に中国医学が輸入されてからも―「大宝律令」に医疾令があるように飛鳥時代には已にそれは輸入されていました―安土桃山時代に至るまで、祈祷による治療が主流でしたが、益軒は、この思想を広めることに一役を担ったのです。彼は、ここでも『孫子』の「古の善く勝つ者は、勝ち易きに勝つ」(形篇)を、また謀攻篇に見られる「よく兵を用る者は赫々の功なし」という思想を引用しました。そして「未病を治する」ことの重要性を説いたのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


貝原益軒の養生訓―総論上―解説 024 (修正版)

2015-06-06 12:09:36 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

養生に志あらん人は、心につねに主あるべし。主あれば、思慮して是非をわきまへ、忿をおさえ、慾をふさぎて、あやまりすくなし。心に主なければ、思慮なくして忿と慾をこらえず、ほしゐまゝにしてあやまり多し。

万の事、一時心に快き事は、必後に殃となる。酒食をほしゐまゝにすれば快けれど、やがて病となるの類なり。はじめにこらゆれば必後のよろこびとなる。灸治をしてあつきをこらゆれば、後に病なきが如し。杜牧が詩に、忍過ぎて事喜ぶに堪えたりと、いへるは、欲をこらえすまして、後は、よろこびとなる也。

(解説)

 『周易』損に、こうあります。「君子以て忿りを懲らし欲を塞ぐ」と。忿怒の感情と欲望は君子としてこらえるべきものであり、すぐに怒り散らし、食欲や色欲の奴隷になっている人は君子ではないのです。益軒は「養生に志あらん人」に君子になって欲しいと願ったのですね。

 杜牧とは、唐代の詩人であり、ここでの「忍過ぎて事喜ぶに堪えたり」と言うのは、「遣興」という詩からの引用です。



 鏡弄白髭鬚 如何作老夫
 浮生長勿勿 兒小且鳴鳴
 忍過事堪喜 泰来優勝無
 治平心径熟 不遣有窮途


 詩の出来栄えを論ずるのは良いとして、益軒がここでこれを持ち出したのは、当時、この詩が一般的だった、または手軽に知る事ができる環境だったのでしょう。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 023 (修正版)

2015-05-28 19:48:12 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

陰陽の気天にあつて、流行して滞らざれば、四時よく行はれ、百物よく生る。偏にして滞れば、流行の道ふさがり、冬あたたかに夏さむく、大風大雨の変ありて、凶害をなせり。人身にあっても亦しかり。気血よく流行して滞らざれば、気つよくして病なし。気血流行せざれば、病となる。其気上に滞れば、頭疼眩暈となり、中に滞れば亦腹痛となり、痞満となり、下に滞れば腰痛脚気となり、淋疝痔漏となる。此故によく生を養ふ人は、つとめて元気の滞なからしむ。

(解説)

 今ここで直接関係はありませんが、後のために少し全体的な解説を挟ませていただきます。貝原益軒は、『養生訓』では声を大にして主張してはいませんが、「理気二元論」を否定しました。これは朱子学の基礎的哲学の一つであり、簡単に言えば、この世には、「気」という物質を構成する要素と、「理」というそれらの性質、ふるまいを決定する法則の二種類が存在し、それらは全く異なる分離した存在である、という理論です。この理論に立脚した医学が、安土桃山時代に輸入された中国医学、いわゆる後世方医学や金元医学と呼ばれるものです。益軒の時代は、この医学が主流でありましたが、「理気二元論」を否定するとどうなるのでしょうか。その前に、益軒がどのようにそれを否定したのか、『大疑録』から見ていきましょう。

それ天地の間は、すべてこれ一気にして、その動静を以てすれば、これを称して、陰陽となし、その生生息まざるの徳、これを生と謂ふ。故に易に曰く、「天地の大徳を生と曰ふ」と。その流行を以て、一は陰となり、一は陽となる、これを道と謂ふ。その条理ありて乱れざると以て、又これを理と謂ふ。指す所同じからざるによりて、姑くその名を異にすといへども、然もその実は、みな一物のみ。ここを以て陰陽流行して純正なるものは、即ちこれ道なり。故に理と気とは、決ずこれ一物にして、分つて二物となすべからず。然れば則ち、気なきの理なく、また理なきの気なく、先後を分つべからず。いやしくも気なくんば、何の理かこれあらん。これ理と気の分つて二となすべからず、かつ先に理ありて後に気ありと言ふべからざる所以なり。故に先後を言ふべからず、又理と気とは二物にあらず、離合を言ふべからざるなり。蓋し理は別に一物あるにあらず。乃ち気の理なるのみ。気の純正にして流行する者、これを道と謂ふ。その条理ありて紛乱せざるも以て、故にこれを理と謂ふ。その実、道と理と一なり。いやしくも理を以て、別に一物ありて気中に寓すとなさば、則ちこれ老氏のいはゆる、「物あり混成し、天地に先だちて生ず」、仏氏のいはゆる、「物あり天地に先だつ、無形にして本より寂寥たり。常に万象の主となり、四時を逐うて凋まず」といふものと、何を以て異ならんや。天地太和の気は、これ陰陽の正なるものなり。故に能く万物を生じ、万品の根柢となる。至貴の理は、これを賤しんで、形而下の器となすべからず。故に理と気とは、もとこれ一物なり。

 とあるように、「理と気とは、もとこれ一物なり」と言い、「気一元論」を主張しました。もっとも、これは益軒だけの独創ではなく、同時代の伊藤仁斎や荻生徂徠も同じことを主張しています。しかし、益軒の『養生訓』は広く一般の人々に読まれることとなり、その彼らの哲学が民衆に受け入れられる土壌を形成しました。さて、理(コトハリ・法則)が気(物質)とかけ離れた所に存在するのではなく、実際のものと同じところに存在するという思想が生まれ、それが普及すると何が起こるのか、それはその新しい哲学を基礎とした実証科学、医学の分野では「古方派医学」の誕生です。人の身体の仕組み、治療の手段・法則を、過去の理論書や言い伝えではなく、実際の人体や臨床現場から見出そうとしたのでした。また西洋から輸入された知識と、今まで信じられてきた知識が異なっていたことが、この思想の遷移に拍車をかけました。

 「気血流行せざれば、病となる」という、紀元前からあり、また現代の日本でも一般に通用している考えは、貝原益軒が世に広めたようですね。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 022 (修正版)

2015-05-06 21:58:01 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の道なければ、生れ付つよく、わかく、さかんなる人も、天年をたもたずして早世する人多し。是天のなせる禍にあらず、みづからなせる禍也。天年とは云がたし。つよき人は、つよきをたのみてつつしまざる故に、よはき人よりかへつて早く死す。又、体気よはく、飲食すくなく、常に病多くして、短命ならんと思ふ人、かへつて長生する人多し。是よはきをおそれて、つつしむによれり。この故に命の長短は身の強弱によらず、慎と慎しまざるとによれり。白楽天が語に、福と禍とは、慎と慎しまざるにあり、といへるが如し。

世に富貴財禄をむさぼりて、人にへつらひ、仏神にいのり求むる人多し。されども、其しるしなし。無病長生を求めて、養生をつつしみ、身をたもたんとする人はまれなり。富貴財禄は外にあり。求めても天命なければ得がたし。無病長生は我にあり、もとむれば得やすし。得がたき事を求めて、得やすき事を求めざるはなんぞや。愚なるかな。たとひ財禄を求め得ても、多病にして短命なれば、用なし。

(解説)

 『荘子』山木篇にこんな話があります。荘子は山中で、ある木を見ました。その木は材木にされなかったことで、「其の天年を終える」ことができました。また一方で、飼育されていた雁は利用するところがないために殺されました。天年とはただ単に命を終えるまでの年ではなく、何らかの人為が介在することなく、その命を終える年のことであり、木であれば切り倒されることなく老化し自然に倒れるまでの年であり、雁であれば殺されることなく終える年のことです。

 益軒は前に、養生しないことは自らを殺すことと同じであると言いましたが、ここでもまた、「みづからなせる禍也。天年とは云がたし」、と繰り返します。荘子は弟子から、「不材を以て其の天年を終える」生き方と、「不材を以て死す」生き方と、先生はどちらの生き方をしているか、と訊かれました。荘子は笑い、私は「材と不材の間」の生き方であると言い、さらにこう続けます。

「若し夫れ、道徳に乗り浮游せば、則ち然らず。誉なく訾なく、一龍一蛇。時と倶に化し、肯て専ら為すこと無し。一上一下、和を以て量を為す。浮游するや萬物の祖なり。物を物とし物に於いて物にせず、則ち胡んぞ得るべくして邪を累す。此れ黄帝、神農の法則なり」

 伝説の帝王でもあり医薬の神でもある、黄帝や神農の生きる法則と言うのは、「道徳に乗り浮游する」ことです。ここで荘子が言うところの道徳は儒者のそれと少し異なり、森羅万象、自然の道の働きのようなものです。中国の伝統医学、漢方も鍼灸も、『黄帝内経』を基礎としていますが、これも自然というものを重視しています。

 白楽天とは、白居易とも呼ばれ、唐代の詩人です。ここでの引用は、「省試性習相近遠賦」という詩からであり、益軒は「無病長生」は神仏が決めるのではなく、「我にあり」、慎むことの重要性を説くために白楽天の詩を用いました。白楽天は、「慎の義は、匪に莫く、道に率いて本を為し、善を見て遷す。誠偽を既往に観て、未然に進退を審らかにす」と言いました。行動をよく考え推理し慎重にする、それが「福と禍」の分かれ目なのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 021 (修正版)

2015-05-06 21:55:01 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

言語をつつしみて、無用の言をはぶき、言をすくなくすべし。多く言語すれば、必、気へりて、又気のぼる。甚、元気をそこなふ。言語をつつしむも、亦徳をやしなひ、身をやしなふ道なり。

古語に曰、莫大の禍は、須臾の忍ばざるに起る。須臾とはしばしの間を云。大なる禍は、しばしの間、慾をこらえざるよりおこる。酒食色慾など、しばしの間、少の慾をこらえずして大病となり、一生の災となる。一盃の酒、半椀の食をこらえずして、病となる事あり。慾をほしゐままにする事少なれども、やぶらるる事は大なり。たとへば、蛍火程の火、家につきても、さかんに成て、大なる禍となるがごとし。古語に曰ふ。犯す時は微にして秋毫の若し、病を成す重きこと泰山のごとし。此言むべなるかな。凡、小の事、大なる災となる事多し。小なる過より大なるわざはひとなるは、病のならひ也。慎しまざるべけんや。常に右の二語を、心にかけてわするべからず。

(解説)

 「言をすくなくすべし」と言うのは、今まで『養生訓』に何度も出てきました。忘れやすく、しかし重要なことは、益軒は重ねて言い続けます。

 「古語に曰、莫大の禍は、須臾の忍ばざるに起る」、と言うのは、朱子学の始祖の一人、程明道の弟子である尹和靖の言葉です。彼は続けて「謹しまざるべからず、聰明、遙知なれば、愚を以て之を守るべし」と言いました。聡明で遥か遠くまで知る能力があれば、謹むことを愚直に守るように、という意味です。『荘子』外物篇には、「夫れ、忍ばざるは一世の傷にして、萬世の患を驁す」とあります。益軒は「一世の傷」を、そして密かに「萬世の患」を軽視しないように説きます。

 「古語に曰ふ。犯す時は微にして秋毫の若し、病を成す重きこと泰山のごとし」と言うのは、『千金方』―『備急千金要方』とも言いますが― 婦人方虚損第一の一節です。正確には、「病を感じること嵩岱よりも廣し」ですが、嵩岱とは、それぞれ五岳の一つ、嵩山と岱山(泰山)のことであり、古来、巨大なものの代表です。その後、医学書により一節の後半が微妙に変わりますが、言っている内容はどれも同じであり、どんな重い病も初めはとても小さく微かなものであり、軽いうちに治療しましょう、と言ったものです。

 『千金方』は唐代の医書ですが、同じような思想がそれより遥か前、これは政治に関してですが、『呂氏春秋』察微に見られます。そこに、「治乱存亡は其の始は秋毫の若し。其の秋毫を察し、則ち大物を過さず」とあるように、何事も物事が小さいうちに対処することが望ましいのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 020 (修正版)

2015-04-21 17:51:38 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

いにしへの人、三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。飲食を節にし、色慾をつつしみ、睡をすくなくするは、皆慾をこらゆるなり。飲食色欲をつつしむ事は人しれり。只睡の慾をこらえて、いぬる事をすくなくするが養生の道なる事は人しらず。ねぶりをすくなくすれば、無病になるは、元気めぐりやすきが故也。ねぶり多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし、昼いぬるは尤、害あり。宵にはやくいぬれば、食気とゞこほりて害あり。ことに朝夕飲食のいまだ消化せず、其気いまだめぐらざるに、早くいぬれば、飲食とどこほりて、元気をそこなふ。古人、睡慾を以、飲食色慾にならべて三慾とする事、むべなるかな。おこたりて、ねぶりを好めば、くせになりて、睡多くして、こらえがたし。ねぶりこらえがたき事も、又、飲食色慾と同じ。初は、つよくこらえざれば、ふせぎがたし。つとめてねぶりをすくなくし、ならひてなれぬれば、おのづから、ねぶりすくなし。ならひて睡をすくなくすべし。

(解説)

 益軒は、「睡をすくなくする」ことが養生の一つであると何度も唱えます。とりわけ、「昼いぬるは尤、害あり」と、昼寝に対して厳しい評価を与えています。世界の他の国では、シエスタのように昼寝が社会的に認められ、健康維持にも役に立つことが知られているのですが、どうしてなのでしょう。それには儒学的価値観が関係しているようです。『論語』に、こんな話があります。

 孔子の弟子に弁説に巧みな宰予(宰我)という者がいました。ある時、宰予は孔子に尋ねました。「仁者は之に告げて、井に仁ありと曰うと雖ども、其れ之に従わんや」と(『論語』雍也)。仁者は仁を追い求める者ですが、もし井戸の中に仁があると言われれば、井戸に飛び込みますか、と質問したのです。それに対して、孔子はこう答えました。「何すれぞ其れ然らん。君子は逝かしむべきも、陥るべからざるなり。欺くべきも、罔うべからざるなり」、と。君子はそんなことをする訳がない。信義を大切にするので、人の言葉に耳を傾けて、それを信じ、行動に移すのが君子である。しかし道理に反することはなく、騙すことはできても、思考停止させることはできないのだ、と。

 ある日、その宰予が昼寝をしました(『論語』公冶長)。それを見た孔子がこう言いました。「朽木は雕るべからず、糞土の牆は杇るべからず」と。朽ち果てて腐った木材に彫刻することはできないし、糞の土で垣根を上塗りして補強することはできない。孔子は、その材料を非難することはできないという理由で、宰予を叱りませんでした。このように儒教の世界では、昼寝をしただけで「朽木」や「糞土」に譬えられてしまいます。ちなみにこの経験以降、孔子は、人を言葉だけで信じることはなく、その行動も見てから信じるようになりました。

 『詩経』にはこうあります。「昼をして夜と作さしむ。既に爾の止を愆る」と、周の霊王の悪政を非難して歌った詩です。天下万民のために自らを律し、国々の政治に携わる君主たちに儒学の教えを広め実践させようとする儒者は昼間から寝ている場合ではないのです。

 また「古人、睡慾を以、飲食色慾にならべて三慾とする」と、今でも生物学的にも妥当な記載がありますが、これは儒学ではなく、仏教由来のようですね。『翻譯名義集三』世界第二十七にある三つの欲であり、人の生存に必要不可欠な要素です。しかし過ぎたるは何とやら、お腹も七分目、ひかえめが好ましいのであり、では睡眠時間はどのくらいが良いのでしょうか。それはまた後に出てきます。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 019 (修正版)

2015-04-21 17:51:21 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

或人の曰、養生の術、隠居せし老人、又年わかくしても世をのがれて、安閑無事なる人は宜しかるべし。士として君父につかへて忠孝をつとめ、武芸をならひて身をはたらかし、農工商の夜昼家業をつとめていとまなく、身閑ならざる者は養生成りがたかるべし。かかる人、もし養生の術をもつぱら行はば、其身やはらかに、其わざゆるやかにして、事の用にたつべからずと云。是養生の術をしらざる人のうたがひ、むべなるかな。養生の術は、安閑無事なるを専とせず。心を静にし、身をうごかすをよしとす。身を安閑にするは、かへつて元気とどこほり、ふさがりて病を生ず。たとへば、流水はくさらず、戸枢はくちざるが如し。是うごく者は長久なり、うごかざる物はかへつて命みじかし。是を以、四民ともに事をよくつとむべし。安逸なるべからず。是すなわち養生の術なり。

或人うたがひて曰。養生をこのむ人は、ひとゑにわが身をおもんじて、命をたもつを専にす。されども君子は義をおもしとす。故に義にあたりては、身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す。もしわが身をひとへにおもんじて、少なる髪膚まで、そこなひやぶらざらんとせば、大節にのぞんで命をおしみ、義をうしなふべしと云。答て曰、およその事、常あり、変あり。常に居ては常を行なひ、変にのぞみては変を行なふ。其時にあたりて義にしたがふべし。無事の時、身をおもんじて命をたもつは、常に居るの道なり。大節にのぞんで、命をすててかへり見ざるは、変におるの義なり。常におるの道と、変に居るの義と、同じからざる事をわきまへば、此うたがひなかるべし。君子の道は時宜にかなひ、事変に随ふをよしとす。たとへば、夏はかたびらを着、冬はかさねぎするが如し。一時をつねとして、一偏にかかはるべからず。殊に常の時、身を養ひて、堅固にたもたずんば、大節にのぞんでつよく、戦ひをはげみて命をすつる事、身よはくしては成がたかるべし。故に常の時よく気を養なはば、変にのぞんで勇あるべし。

(解説)

 ここで益軒は、養生することに疑いを持つ人々に反論を行ないます。ある人は、養生は安閑無事なる人には良いが、仕事を持った忙しい人にはできるものではない、と言います。それに対し、益軒は、そもそも養生のためには、安閑無事であってはならず、人がそれぞれの仕事によく務めることこそ養生であると言うのです。

 「流水はくさらず、戸枢はくちざるが如し」というのは、『呂氏春秋』の一節、「解説 017」を参照のこと。

 またある人は、君子は義を守るために、「身をすて命をおしまず、危を見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す」のに、自分一人の命ばかり大切にし、わずかな髪膚が傷つくことを畏れていれば、義をうしなうのではないか、と言います。孟子は、「生も亦我が欲する所なり、義も亦我が欲する所なり。二つの者兼ぬることを得べからざれば、生を舎てて義を取らん」、と言いました。義を捨ててまで、養生するのはおかしいという主張です。

 それに対して益軒が持ち出したのが、「常」と「変」でした。「常」とは平常時、普段の平和な日常のことであり、「変」とは変事、戦争や天災、クーデターなど、特別な異常事態が起きた時のことです。『易経』損彖に、「損益盈虚、時と偕に行なう」とあるように、ものごとにはそれを行なうべき時があるのです。養生は、変事ではなく、平常時に行なうべきものであり、もし養生せず健康を害し、あるいは命を失ってしまったのなら、変事に臨んで義のために働くことすら適わないのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 018 (修正版)

2015-04-21 17:50:49 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人の身のわざ多し。その事をつとむるみちを術と云。万のわざつとめならふべき術あり。其術をしらざれば、其事をなしがたし。其内いたりて小にて、いやしき芸能も、皆其術をまなばず、其わざをならはざれば、其事をなし得がたし。

たとへば蓑をつくり、笠をはるは至りてやすく、いやしき小なるわざ也といへども、其術をならはざれば、つくりがたし。いはんや、人の身は天地とならんで三才とす。かく貴とき身を養ひ、いのちをたもつて長生するは、至りて大事なり。其術なくんばあるべからず。其術をまなばず、其事をならはずしては、などかなし得んや。

然るにいやしき小芸には、必、師をもとめ、おしへをうけて、その術をならふ。いかんとなれば、その器用あれどもその術をまなばずしては、なしがたければなり。人の身はいたりて貴とく、是をやしなひてたもつは、至りて大なる術なるを、師なく、教なく、学ばず、習はず、これを養ふ術をしらで、わが心の慾にまかせば、豈其道を得て生れ付たる天年をよくたもたんや。故に生を養なひ、命をたもたんと思はば、其術を習はずんばあるべからず。夫養生の術、そくばくの大道にして、小芸にあらず。心にかけて、其術をつとめまなばずんば、其道を得べからず。其術をしれる人ありて習得ば、千金にも替えがたし。

天地父母よりうけたる、いたりておもき身をもちて、これをたもつ道をしらで、みだりに身をもちて大病をうけ、身を失なひ、世をみじかくする事、いたりて愚なるかな。天地父母に対し大不孝と云べし。其上、病なく命ながくしてこそ、人となれる楽おほかるべけれ。病多く命みじかくしては、大富貴をきはめても用なし。貧賤にして命ながきにおとれり。

わが郷里の年若き人を見るに、養生の術をしらで、放蕩にして短命なる人多し。又わが里の老人を多く見るに、養生の道なくして多病にくるしみ、元気おとろへて、はやく老耄す。此如くにては、たとひ百年のよはひをたもつとも、楽なくして苦み多し。長生も益なし。いけるばかりを思ひてぞ、寿ともともいひがたし。

(解説)

 天地人の三才思想の歴史は長く、『周易』説卦伝には、以下のような記載があります。

「昔者、聖人の易を作るや、将に性命の理に順うを以てす。是を以て天の道立ち、曰く陰と陽。地の道立ち、曰く柔と剛。人の道立ち、曰く仁と義。三才を兼ねて之を両にす。故に易は六画にして卦を成す。陰を分かち陽を分かち、迭いに柔剛を用う。故に易は六位にして章を成す」

 『易経』は五経の筆頭にあげられる古典であり、天地万物の理を爻により明らかにし、未来を予言するための書物です。孔子が、「易を学べば大過なかるべし」と言い、また孟子や荀子もこの書を重視し、後世の儒学者にとっても最も基礎的な学問となりました。

 そして、『孝経』聖治篇には、「天地の性、人を貴しと為す」とあり、そして「人の行いは孝より大なるは莫し」とあります。それ故、益軒は、「かく貴とき身を養ひ、いのちをたもつて長生するは、至りて大事なり」と言い、「みだりに身をもちて大病をうけ、身を失なひ、世をみじかくする事、いたりて愚なるかな。天地父母に対し大不孝と云べし」と言うのです。

 益軒は、若者たちの、「養生の術をしらで、放蕩にして短命なる人多」く、また老人たちの「養生の道なくして多病にくるしみ、元気おとろへて、はやく老耄す」ることに、心をいためました。たとえ長生きしても、病で苦しみ続けた一生であれば、「寿ともともいひがた」く、非常に大切なわざ、養生の術を人々に学んで欲しいと切に願ったのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 017 (修正版)

2015-04-13 16:18:42 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の術は、つとむべき事をよくつとめて、身をうごかし、気をめぐらすをよしとす。つとむべき事をつとめずして、臥す事をこのみ、身をやすめ、おこたりて動かさざるは、甚、養生に害あり。久しく安坐し、身をうごかさざれば、元気めぐらず、食気とどこほりて、病おこる。ことにふす事をこのみ、ねぶり多きをいむ。食後には必、数百歩歩行して、気をめぐらし、食を消すべし。ねぶりふすべからず。父母につかへて力をつくし、君につかへてまめやかにつとめ、朝は早くおき、夕はおそくいね、四民ともに我が家事をよくつとめておこたらず。士となれる人は、いとけなき時より書をよみ、手を習ひ、礼楽をまなび、弓を射、馬にのり、武芸をならひて身をうごかすべし。農工商は各其家のことわざをおこたらずして、朝夕よくつとむべし。婦女はことに内に居て、気鬱滞しやすく、病生じやすければ、わざをつとめて、身を労動すべし。富貴の女も、おや、しうと、夫によくつかへてやしなひ、おりぬひ、うみつむぎ、食品をよく調るを以、職分として、子をよくそだて、つねに安坐すべからず。かけまくもかたじけなき天照皇大神も、みづから神の御服をおらせたまひ、其御妹、稚日女尊も、斎機殿にましまして、神の御服をおらせ給ふ事、日本紀に見えたれば、今の婦女も昔かかる女のわざをつとむべき事こそ侍べれ。四民ともに家業をよくつとむるは、皆是養生の道なり。つとむべき事をつとめず、久しく安坐し、ねぶり臥す事をこのむ。是大に養生に害あり。かくの如くなれば、病おほくして短命なり。戒むべし。

(解説)

 『呂氏春秋』に、「流水は腐らず、戸枢は蠹わず。動すれば也。形気も亦た然り。形動かざれば則ち精流れず、精流れざれば則ち気鬱す。鬱する処、頭なれば則ち腫を為し風を為し、処、耳なれば則ち挶を為し聾を為し、処、目なれば則ち眵を為し盲を為し、処、鼻為れば則ち鼽を為し窒を為し、処、腹なれば則ち張を為し府を為し、処、足為れば則ち痿を為し蹙を為す」とあります。常に動き続けること、それが貝原益軒の養生の基本です。では、動き続けるとして何をしたら良いのでしょうか。益軒は、それぞれの身分や職分にあった「つとむべき事」を務めるべきであると考えました。

 江戸時代は、朱子学を基礎とした士農工商の身分社会でした。しかし身分の差別があったからと言って、幕府に協力した儒学者たちが、不平等で不公平な社会を望んでいたとは言えません。『書経』呂刑篇に、「差別なき平等は真の平等にあらず」とあるように、人々が集団生活を営む上で、争いや混乱を生ずることがないように作られたのが身分だったのです。

 『管子』小匡篇では、斉の桓公が宰相である管子に、「民の居を定め、民の事を成すには、奈何せん」と質問しました。すると、管子はこう答えました。

「士農工商、四民なる者は、国の石の民なり。雑処して使うべからず。雑処なれば則ち其の言はみだれ、其の事乱る」

 春秋戦国時代には、すでにこのような考えがあり、荀子も、「類を以て雑を行らせ、一を以て萬を行らす。始は則ち終であり、終は則ち始であり環の端無きが若し也」と言い、身分とその職分は天地の理の顕れであると考え、続けて、「君臣、父子、兄弟、夫婦は、始は則ち終、終は則ち始。天地と理を同じくし、萬世と久を同じくす。夫れ是れ之の大本を謂う。故に喪祭、朝聘、師旅は一也。貴賤、殺生、与奪も一也。君は君、臣は臣、父は父、子は子、兄は兄、弟は弟で一也。農は農、士は士、工は工、商は商も一也」と言ったのです。それぞれが己の分を守り、それぞれの職業に尽くすことが、自然に則していることを主張しました。

 荀子は考えました。水火には気があるのに生命がなく、草木には生命があるのに知覚がなく、禽獸には知覚があるのに礼儀がない。しかし、人には気があり、生命があり、知覚があり、礼儀もある。だから最も尊貴であるのだと。人は、力では牛に及ばず、走ることでは馬に及ばないが、なぜ彼らを使うことができるのか。荀子は答えます。人は集団生活を営むことができるからである。なぜできるのかと言うと、それは身分の差別があるからである。どうすれば差別を維持できるのかと言うと、それは礼儀があるからである、と。人は単なる烏合の衆にならず、組織を作り、役割分担をすることで、大きな力を得たのです。

 『荀子』王制篇にこうあります。

「能く親に事うるを以て之れを孝と謂い、能く兄に事うるを以て之れを弟と謂い、能く上に事うるを以て之れを順と謂い、能く下を使うを以て之れを君と謂う。君は、善く群をなす也。群の道、當なれば、則ち萬物皆其の宜を得て、六畜皆其の長を得る。群生すれば皆其の命を得る」

 荀子は、礼儀を守り、集団の秩序を保つことで、全ての人が命を全うすることができると説きました。益軒の視野には、単なる個人の養生だけではなく、国家レベルの養生があったことが分かります。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 016 (修正版)

2015-04-13 16:15:27 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

天地のよはひは、邵尭夫の説に、十二万九千六百年を一元とし、今の世はすでに其半に過たりとなん。前に六万年あり、後に六万年あり。人は万物の霊なり。天地とならび立て、三才と称すれども、人の命は百年にもみたず。天地の命長きにくらぶるに、千分の一にもたらず。天長く地久きを思ひ、人の命のみじかきをおもへば、ひとり愴然としてなんだ下れり。かかるみじかき命を持ながら、養生の道を行はずして、みじかき天年を弥みじかくするはなんぞや。人の命は至りて重し。道にそむきて短くすべからず。

(解説)

 邵尭夫とは、宋代の思想家であり、諡を康節と言います。道家的な宇宙生成論を唱えたことが特徴で、その後その思想は、朱熹による朱子学の成立に大きな影響を与え、日本の儒学者に知られる所となりました。尭夫の有名な話に、洛陽の天津橋の上で杜鵑の声を聞き、王安石が宰相になること、および国家の政治的混乱が生じることを予言した、というものがあります。国から何度も仕官の声がありましたが、断って自由気ままに生活をしました。

 さて、「十二万九千六百年」を「一元」とする彼の思想は、『皇極経世書』に書かれています。もう少し詳しく見てみましょう。まず人の一世代、一世を三十年とします。そして十二世が一運であり、それが三百六十年です。それから三十運が一会であり、それが一万八百年であり、十二会が「一元」、「十二万九千六百年」なのです。一年は約三百六十日あり、また十二ヶ月でもあり、一月は三十日あります。このように宇宙には周期があり、尭夫は、このような周期を計算していくことで、天地の寿命を知ろうとしたのでした。

 初めの第一会(一万八百年)で天が開け、次の第二会で地が開け、次の第三会で人を含む万物が生じたと、そして、現在は第六会であり、第十一会で万物が死に絶え、第十二会で天地の寿命が終ると、尭夫は考えました。現在では、地球の年齢は四十五億年であり、膨張する太陽に飲み込まれ消滅するまで、まだ数十億年あると考えられています。尭夫の出した天地の寿命が正確か否かは置いておき、彼は人々に、天地にくらべて人の寿命が短いことを量的に示すことに成功したのです。

 そして益軒は言うのです。「かかるみじかき命を持ながら、養生の道を行はずして、みじかき天年を弥みじかくするはなんぞや。人の命は至りて重し。道にそむきて短くすべからず」と。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 015 (修正版)

2015-04-13 16:00:06 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

およそ人の楽しむべき事三あり。一には身に道を行ひ、ひが事なくして善を楽しむにあり。二には身に病なくして、快く楽むにあり。三には命ながくして、久しくたのしむにあり。富貴にしても此三の楽なければ、まことの楽なし。故に富貴は此三楽の内にあらず。もし心に善を楽まず、又養生の道をしらずして、身に病多く、其はては短命なる人は、此三楽を得ず。人となりて此三楽を得る計なくんばあるべからず。此三楽なくんば、いかなる大富貴をきはむとも、益なかるべし。

(解説)

 益軒は、「人の楽しむべき事」を三つあげました。また、孟子は、「君子の楽しむべき事」を三つあげています。一つずつ比較していきましょう。

一楽
(益軒) 身に道を行ひ、ひが事なくして善を楽しむ
(孟子) 父母倶に存し、兄弟故無し

二楽
(益軒) 身に病なくして、快く楽む
(孟子) 仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざる

三楽
(益軒) 命ながくして、久しくたのしむ
(孟子) 天下の英才を得て之れを教育する

 一方は自分自身の事に終始していますが、もう一方は家族の事や天下の人材の事に言及しています。だいぶ趣きがことなりますが、それもそのはず、益軒は人の楽しみを、孟子は君子の楽しみを述べたのであり、君子であれば必ず人であると言えますが、全ての人は必ずしも君子ではありません。君子としての楽しみも、まず人としての楽しみが無ければ多くを得ることができないのです。

 また二人とも、三楽に入らないものとして、益軒は、「富貴」、孟子は、「天下に王たること」をあげています。財産も、身分も、権力も、それらは「まことの楽しみ」に数えられることはないのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 014 (修正版)

2015-04-11 13:10:40 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

生を養ふ道は、元気を保つを本とす。元気をたもつ道二あり。まづ元気を害する物を去り、又、元気を養ふべし。元気を害する物は内慾と外邪となり。すでに元気を害するものをさらば、飲食動静に心を用て、元気を養ふべし。たとへば、田をつくるが如し。まづ苗を害する莠を去て後、苗に水をそそぎ、肥をして養ふ。養生も亦かくの如し。まづ害を去て後、よく養ふべし。たとへば悪を去て善を行ふがごとくなるべし。気をそこなふ事なくして、養ふ事を多くす。是養生の要なり。つとめ行なふべし。

(解説)

 その昔、孟子は公孫丑に、「浩然の気」とは何かと訊かれ、こう答えました。

その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害うことなければ、則ち天地の間に塞つ。その気たるや、義と道とに配す。是れなければ餒うるなり。是れ義に集いて生する所の者にして、襲いて取れるに非ざるなり。行い心に慊からざること有れば、則ち餒う。我故に告子は未だ嘗て義を知らずと曰えるは、その之を外にせるを以てなり。必ず事うこと有りて、正とすること勿れ。心に忘るること勿れ。助けて長ぜしむること勿れ。宋人の若くすること無れ

 この孟子の言う所の「浩然の気」、それは最も大きく、最も剛く、そして単純なものです。そして『管子』に、「浩然なる和平は以て気淵と為す」とあるように、天地万物の調和と平衡に深く関っています。これは、養って無駄に消費しなければ、天地の間に充満するのです。また、それは義(仁義)と道(道理)に配合されていて、もしこの気がなければ、人の気力も失せてしまいます。これは義の心によって養われ、無理に奪い取れるものではなく、また、行動する時、心に疚しいことでもあれば、失われるのです。孟子は言います。気を養うには、義と道に従えばよく、気を得ることを目的としてはいけない。心に忘れてもいけないし、宋人のように、無理やり道理に逆らって助長してはいけない、と。

 ここで言う、宋人とは、昔話にでてくる農民です。春秋戦国時代の頃、田の苗の成長が遅れていることを心配した農民が、苗を成長させようとしてそれらを引っ張りました。疲れて家に帰り、そのことを家族に話すと、息子が急いで田を見に行きましたが、苗はすべて抜けて枯れ果てていた、という話です。

 孟子は言います。「天下の苗を助けて長ぜしめざる者は寡し。以て益無しとなして之を舎つる者は、苗を耘(くさぎ)らざる者なり。之を助けて長ぜしむる者は、苗を揠(ぬ)く者なり。ただ益無きのみに非ず、而て又、之を害う」と。益軒も、元気を養うことは「田をつくるが如し」と言い、あせらないで道理に適った養生法をつとめることを勧めました。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 013 (修正版)

2015-04-11 13:04:03 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

およそ人の身は、よはくもろくして、あだなる事、風前の燈火のきえやすきが如し。あやうきかな。つねにつつしみて身をたもつべし。いはんや、内外より身をせむる敵多きをや。先、飲食の欲、好色の欲、睡臥の欲、或怒、悲、憂を以、身をせむ。是等は皆我身の内よりおこりて、身をせむる欲なれば、内敵なり。中につゐて飲食好色は、内欲より外敵を引入る。尤おそるべし。風寒暑湿は、身の外より入て我を攻る物なれば外敵なり。人の身は金石に非ず。やぶれやすし。況、内外に大敵をうくる事、かくの如にして、内の慎、外の防なくしては、多くの敵にかちがたし。至りてあやうきかな。此故に人々長命をたもちがたし。用心きびしくして、つねに内外の敵をふせぐ計策なくむばあるべからず。敵にかたざれば、必、せめ亡されて身を失ふ。内外の敵にかちて、身をたもつも、其術をしりて能ふせぐによれり。生れ付たる気つよけれど、術をしらざれば身を守りがたし。たとへば武将の勇あれども、知なくして兵の道をしらざれば、敵にかちがたきがごとし。内敵にかつには、心つよくして、忍の字を用ゆべし。忍はこらゆる也。飲食好色などの欲は、心つよくこらえて、ほしいままにすべからず。心よはくしては内欲にかちがたし。内欲にかつ事は、猛将の敵をとりひしぐが如くすべし。是内敵にかつ兵法なり。外敵にかつには、畏の字を用て早くふせぐべし。たとへば城中にこもり、四面に敵をうけて、ゆだんなく敵をふせぎ、城をかたく保が如くなるべし。風寒暑湿にあはば、おそれて早くふせぎしりぞくべし。忍の字を禁じて、外邪をこらえて久しくあたるべからず。古語に、風を防ぐ事、箭を防ぐが如くす、といへり。四気の風寒、尤おそるべし。久しく風寒にあたるべからず。凡、是外敵をふせぐ兵法なり。内敵にかつには、けなげにして、つよくかつべし。外敵をふせぐは、おそれて早くしりぞくべし。けなげなるはあしし。

(解説)

何か思ふ何とか歎く世の中はただ朝顔の花の上の露

 これは『新古今集』にある、人の命のはかなさを詠んだ歌です。人の命はあだなるものであり、昔から、かげろう、水の泡、朝顔の露、蝋燭の火など、さまざまなものに喩えられてきました。鴨長明は『方丈記』でこう述べています。

「朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。・・・その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし」

 この仏教的無常観、それは日本人が古より深く共感するところであり、益軒は、ここで仏教の経典『倶舎論』にある、「寿命は猶お風前の燈燭の如し」を引用し、『養生訓』を読む人の心に訴えました。そして病気を戦に、養生法を兵法に喩え、今まで述べてきた養生の大切さを説くのです。

 戦は、ただ勇敢であるとか、力があるだけでは勝てません。『孫子』に、「善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ」とあるように、勝敗にはその道理を修得し、勝つための兵法を保持することが必要です。養生もまたしかり。とりわけ、内敵(内慾)には忍、外敵(外邪)には畏に気をつけなければなりません。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 012 (修正版)

2015-04-09 18:08:49 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人の身は百年を以、期とす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ此如くみじかきや。是、皆、養生の術なければなり。短命なるは生れ付て短きにはあらず。十人に九人は皆みづからそこなへるなり。ここを以、人皆養生の術なくんばあるべからず。

人生五十にいたらざれば、血気いまだ定まらず。知恵いまだ開けず、古今にうとくして、世変になれず。言あやまり多く、行悔多し。人生の理も楽もいまだしらず。五十にいたらずして死するを夭と云。是亦、不幸短命と云べし。長生すれば、楽多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なる事も、長生せざれば得がたし。ここを以、養生の術を行なひ、いかにもして天年をたもち、五十歳をこえ、成べきほどは弥、長生して、六十以上の寿域に登るべし。古人長生の術ある事をいへり。又、人の命は我にあり。天にあらず、ともいへれば、此術に志だにふかくば、長生をたもつ事、人力を以、いかにもなし得べき理あり。うたがふべからず。只気あらくして、慾をほしゐままにして、こらえず、慎なき人は、長生を得べからず。

(解説)

 貝原益軒が『養生訓』を執筆したのは、自身が八十三・四歳の頃でした。亡くなったのが、正徳四年(1714年)ですが、その頃、寛文十一(1671)年から享保十(1725)年の二歳児の平均余命は、男は約三十七才、女は二十九才と速水融氏によって計算されています。益軒は、今の時代から見ても長寿でしたが、きっと当時の人々は、益軒に信じられないほどのありがたさを感じたことでしょう。

 人の寿命について考察している文献で、最古のものの一つ、『素問』上古天真論―戦国時代から前漢にかけてまとめられたとされる医学書―には、黄帝と岐伯という太医の対話が、以下のように記されています。

 黄帝は、岐伯に訊ねた。

「余聞く、上古の人、春秋、皆百歳を度えて、而かも動作衰えず。今時の人、年半百にして動作皆衰うる者は、時世異なるか、将た、人之を失するか」

 現代から二千年以上前に、なぜ昔の人は百歳まで衰えずに生きられたのか。なぜ今の人は五十歳にもなると老衰するのかということを疑問に感じていました。そして岐伯は答えます。

「上古の人、其の道を知る者は、陰陽に法り、術数に和し、食飲に節有り、起居に常有り、妄りに作労せず。故に、能く形と神と倶にして、尽く其の天年を終えて、百歳を度えて乃ち去る」

 岐伯は、昔の人は、天地の陰陽の法則に従い、様々な養生術に調和し、飲食をほどほどにし、規則正しい生活をし、過労しないために、百歳まで生きられるのだ、と簡潔に説明し、それから今の人が、その半分の年で衰えてしまう理由を述べました。

「酒を以て漿と為し、妄らを以て常と為し、酔いて以て房に入り、欲を以て其の精を竭くし、耗を以て其の真を散じ、満を持つを知らず。神を御するに時ならず。務めて其の心を快にし、生楽に逆らい、起居に節無し、故に半百にして衰うるなり」

 岐伯は続けて、老化しないための聖人の教えを紹介します。

「虚邪賊風、之を避るに時有り、恬惔虚無なれば、真気之れに従い、精神内に守り、病安くんぞ従い来たらんや。是を以て、志、閑にして少欲、心、安らかにして懼れず、形、労して倦まず、気従いて以て順、各其の欲に従いて、皆願う所を得る。故に其の食を美しとし、其服を任せ、其の俗を楽しみ、高下相い慕わず、其の民、故に朴と曰う。是れを以て嗜欲は其の目を労すること能わず。淫邪其の心を惑わすこと能わず。愚智賢不肖、物に懼れず。故に道に合す。所以、能く年皆百歳に度たりて、動作衰えざる者、以て其の徳は全うして危うからざるなり」

 これらが、益軒が『養生訓』で繰り返し述べたことの基本です。徳川家康に仕えた天海の寿命は百八歳、同時代の医師、永田徳本は百十八歳前後でしたが、益軒が、誰もが百歳の長寿が可能であると考えた根拠がここにあり、「人の身は百年を以、期とす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり」と、言ったのです。

 杜甫は、「人生七十古来稀」と『曲江詩』の中で詠みました。七十歳のお祝いを「古稀」と言いますが、この杜甫の詩が由来です。また、孔子は、七十四にて亡くなりましたが、こう言っています。

「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」

 聖人の一人として数えられる孔子ですら、五十歳で「天命を知り」、本当の人生が始まったのです。それ故、益軒は、「五十なれば不夭」と言い、それ以前に死んでしまうことを「わか死」と言ったのです。また、孔子は『論語』において、「君子に三戒あり。少き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは血気方に剛なり、これを戒むること闘に在り。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得に在り」と言いました。益軒は、五十未満が若いとするならば、「五十にいたらざれば、血気いまだ定まらず」、特に色欲を戒しめて養生するべきであると考えたのでした。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論上―解説 011 (修正版)

2015-04-09 18:01:06 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

古の君子は、礼楽をこのんで行なひ、射御を学び、力を労動し、詠歌舞踏して血脈を養ひ、嗜慾を節にし心気を定め、外邪を慎しみ防て、かくのごとくつねに行なへば、鍼灸薬を用ずして病なし。是君子の行ふ処、本をつとむるの法、上策なり。病多きは皆養生の術なきよりおこる。病おこりて薬を服し、いたき鍼、あつき灸をして、父母よりうけし遺体にきずつけ、火をつけて、熱痛をこらえて身をせめ病を療すは、甚、末の事、下策なり。たとへば国をおさむるに、徳を以すれば民おのづから服して乱おこらず、攻め打事を用ひず。又保養を用ひずして、只薬と針灸を用ひて病をせむるは、たとへば国を治むるに徳を用ひず、下を治むる道なく、臣民うらみそむきて、乱をおこすをしづめんとて、兵を用ひてたたかふが如し。百たび戦って百たびかつとも、たつとぶにたらず。養生をよくせずして、薬と針灸とを頼んで病を治するも、又かくの如し。

身体は日々少づつ労動すべし。久しく安坐すべからず。毎日飯後に、必ず庭圃の内数百足しづかに歩行すべし。雨中には室屋の内を、幾度も徐行すべし。此如く日々朝晩運動すれば、針灸を用ひずして、飲食気血の滞なくして病なし。針灸をして熱痛甚しき身の苦しみをこらえんより、かくの如くせば痛なくして安楽なるべし。

(解説)

 「礼楽」とは儀礼と音楽のことであり、『礼記』に「礼は民心を節し、楽は民声を和す」とあるように、礼楽は人々を治めるために重要なものです。それ以上に、「礼楽は天地の情に偵り、神明の徳に達す」ともあり、人間以上の天地自然の情から生まれ、神明なる「徳」に達するために、君子にとって必要不可欠なものなのです。「射御」とは、弓術と戦車(馬車)の操縦のことであり、古代中国における、君子のたしなみの一つでした。

 『孝経』には、「身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」とあります。益軒は、「病おこりて薬を服し、いたき鍼、あつき灸をして、父母よりうけし遺体にきずつけ、火をつけて、熱痛をこらえて身をせめ病を療す」ことは、不孝であり、君子の行いではないと説くのです。

 益軒が、この段で使った比喩は、儒学と兵学が由来です。孟子は、「徳を以て仁を行なう者は王たり。・・・力を以て人を服する者は、心服せしむるに非ざるなり、力、足らざればなり。徳を以て人を服せしむる者は、中心より悦びて誠に服せしむるなり」と言いました。儒家は、法家や道家と異なり、天下は徳で治めるべきであると主張しました。そして益軒は、国を治めるためには、力ではなく、徳が必要であるように、人を治めるには養生が必要であると主張したのです。

 『孫子』には、「百戦百勝は、善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」とあります。戦争も病気も、戦わずして勝つ、それが善いのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)