宣長には三人の尊敬する師がいました。一人は堀景山(儒学)、一人は武川幸順(医学)、そして賀茂真淵(古学)です。なぜこれらの三人なのか、他にも医学を教わった堀元厚や諸々の歌の先生を数えても良いのではないか、という意見もあるかもしれませんが、実際に、宣長が『法事録』に命日を記載し、法要を行っている師は、この三人なのです。その中でも堀景山は宣長にとって別格であり、それ故、日本の歴史や思想においても重要な人物なのです。なぜそう言えるのでしょう。
宣長の『古事記伝』など古学、国学における業績は賀茂真淵なしには語れません。彼が若き日に真淵の『冠辞考』に出会い、彼に教えを請わなければ、『古事記伝』は宣長存命中に完成しなかったでしょう。武川幸順も宣長には不可欠でした。彼と出会い、彼から医学を学んだからこそ、医師としての収入があり、生活することができ、またそれにより研究を続けることが可能となりました。また後の天皇の侍医であった彼を通して、公家社会とのつながりを持つことで、新しい学問を広めるための一種のロビー活動を行うことも可能となりました。しかし、景山の宣長への影響というのは、そういうものではありません。
宣長の家は木綿商を営んでいましたが、彼は16歳のころ、その江戸の店に出されたことがありました。しかし、一年で松坂の実家に帰されました。そして二、三年間のニート生活の後、今度は伊勢山田の紙問屋へ養子に出されましたが、今度は二年で離縁され、また実家に戻されたのです。宣長の母は、彼は「商いの筋には疎くて、ただ本を読むことだけ好む」と言い、それでは医師にでもしようと、宣長を京へ留学させたました。宣長は読書や歌を好んだ一途な若者でした。しかし彼は商人の家に生まれたので、商売ができない彼は落伍者だったのです。宣長が景山に出会ったのはそんな時でした。
もし和歌や源氏物語の世界に強く惹かれていた宣長が入門したのが、江戸の林羅山を祖とする一門であったのなら、日本はまったく違った歴史になっていたかもしれません。景山の学風、堀杏庵や藤原惺窩の、藤原定家や冷泉家からつながった、いわゆる京学派と呼ばれる儒学の流れの中に身を置いたからこそ、あの我々の知る宣長が誕生したのです。どんな学風なのでしょうか。これを簡単に感じ取るために、実際に儒学書を、ここでは惺窩が著したとも伝えられている『仮名性理』は冒頭部分を、今回は現代語訳しないで、そのままながめてみましょう。(改行だけはしてあります)
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としたちかへる朝の空の気色も長閑に、きのふにはやうかはりて、谷のうぐいすも歩をこころみ、軒端の梅のえならぬ匂に移り来て、うゐごとのねも事新しくめづらし。人のこころもそぞろに延て、思ふままなる友うちかたらひ、ここの山かしこの寺にただよひあるき、歌をよみ、文をつくりて、其心ざしをのべ、その興をもよほす。あるは又女どちわらべのこことよげなるをあとさきにひき倶して、高いやしきをうち物かたらひて、若草根ぜりなどやうの物をとりつみ、ことある興におもひて、世のうきわざをわすれて、けふはかひある我身かなと心おごりもせられ侍る。
三月半は吉野の麓は散すぐれば、山の花いまをさかりと色めきたり。都のもここかしこちりもはじめず、咲ものこらず。人のこころも空になりて、山の奥谷のそこまでまどひ行て、暮ゆくはるのなごりををしみ、はるの風のおもてを吹には寒からねども、花にふるる声は山賤のおのの音よりもはげしく、昨日まではにほやかにして、色に出香にほこりて、天下の人の心をまよはせしむくひにや、一夜のほどになかば散て、かつがつのこりたるも、なかなか見しおもかげもなく、たとへばやめるおふなの匂ひおとろへたるにことならず。
又衣がへの日は心もあらたまりて、内も外もみどりの色々にそめなして、出仕のよそほひを引つくろひ、又せちゑ*1にはあやめふきわたし、あふひ*2かけたるもいとめづらし。牡丹は花の君なりと唐人の云しも、げにことはりぞかし。閨のとしは花のやうもひとへにまさりて、ちしほの色に咲みだれ、柳はみどりに、山ぶきは中央の色をふくむ。又軒端も山もとりつくろひて、みどりのぬれぬれとぢてわかやかなるは、花よりもいみじくめづらし。
文月のはじめごろは、あつしさなおをしきれども、夕べの風の心はかはりて、いつとなく一葉ちりそめて、野山の色々にそめわけて、錦をはれる世界となるも、いとになくすぐれて興有見ものなりけり。
月はいつもめでたしと云へども、ことさらまちうけたる十五夜の、峰のこずゑよりこごれかかりたるやうにあでやかにさし出たる、心もこと葉もおよびがたし。いにしへの人たちもはる秋のおとりまさりは、いづれをいづれをわきかたかりし。よべの月のまどかなりしも、けふの夕はおもがはりして、物のかけたるやうにおぼえ侍る。
神無月の朔日ころより、露じものおくての山田吹風も身にしみて、まがきの花もしぼみおちて、本あらの萩もかつちりて、そともの虫のこゑもなきからし、世をすて人のはらわたをくだくたよりとなり、いなかの山はなかばも過て雪くだり、あられまじりの風おちて、民のすみかもあわれなりけり。
目に見えぬ天地のこころはかりしりがたしといへども、四季の転変してうつりかはれる次第を察するに、さかんなればかならずおとろへ、満ればかくるならひは、皆是自然の理と見え侍る。いきとしいけるものの内に、人ばかり盛久きはなけれども、よろこびきはまればかなしみきたり、おごれるものは久しからず、是又自然の理なるべし。
斉の桓公の廟にあやしき器あり。夫子見て、是は宥坐のうつはものなり、と宣ふ。水なき時はかたぶき、又水中ぶんなる時はろくなり*3。十分にみつる時は此うつは物かならずくつがへる。明君是をいましめとして、常にその座のかたはらにおき給ふ。子路問曰、十分にみつるともかけぬ道あるべしや。夫子曰、才智すぐれて君子のごとくなりとも、愚人のおもひをなすべし。天下に大なるこうをなしたりとも、人にゆづりて、わが功にほこるべからず。勇力世の人にすぐれたりとも怯をもつておもふべし。とめる事は四海をたもつとも、謙をもつてまもるべし、といへり。ああ聖人だもかくのごとし。諸人これを心とせば、みてりと云ともあやうからずかし。
一 天道とは天地の主人なり。かたちなきゆへに、目に見えず。しかれども春夏秋冬のしだひのみだれぬごとくに四時をおこなひ、人間を生ずることも、花さきみなることも、五穀を生る事も、みな天道のしわざなり・・・・・・。
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一つの文学作品としても成り立っている本書は、本文を読まなければ、これが儒学書であるとは分らないことでしょう。そしてこれは宣長の景山から学んだ儒学の雰囲気というものをよく表わしています。ここでは宣長がこの『仮名性理』を読んで学んだということを言っているのではありません。細かな学説もここでは関係ありません。彼は、この学風、雰囲気の中で儒学や詩歌を学び、風流な遊興生活を送ったのでした。もし、宣長が景山から朱子学を学んだ、とだけ捉えていると、本質を見落としてしまうかもしれません。
彼の和歌や源氏への思いは、景山の下で満たされることになりました。それだけではありません。彼の思いは、景山の儒学的裏付けのために、まったく正当化されたのです。景山により、和歌も詩も、欲や恋も、人にとって、そして国家を成り立たせる上でも必要不可欠なものであると説かれました*4。ここでやっと宣長は、自分の意識の奥に押された落伍者の烙印を消し去ることができ、宣長は宣長として生きていくことが可能となったのです。
さて、もう少し具体的な景山の宣長への影響をどうしたら知ることができるのでしょう。それを知るための鍵の一つが、景山の著した『不尽言』です。宣長は『不尽言』を筆写しました。しかし全文を写したわけではなく、一部だけなのです。重要なのは何を写したかだけではなく、何を写さなかったのかという所であり、そこに宣長の心を見ることができるのです。
つづく
(ムガク)
*1 五月五日の節句
*2 葵
*3 器の水が半分の時は立つ
*4 『不尽言』
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