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019― 桜島噴火と風邪 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-04-16 18:55:13 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長の処方は基本的にはあまり変わりありませんでしたが、方剤の使用頻度は季節や年によって変化しました。それを見ていくとその時どのような病が流行っていたのか、社会環境がどのような状態であったのか推測することができます。例えば宣長の多用した参蘇飲と二陳湯に注目してみましょう。安永七年から天明三年までの一月当たりの処方割合を図に表わすとこうなります。


Xの処方割合=100*(一か月あたりのXの処方数)/(一か月あたりの全方剤処方数)




 それぞれの処方割合は、ほぼ毎年秋冬には増加し春夏には減少する傾向がありますが、安永八年だけは何ともはっきりしない形をしています。何があったのでしょう。一番大きな出来事は桜島の大噴火です。薩摩藩知学事であった山本正諠は『安永櫻島炎上記』でこう述べています。

安永八年乙亥九月二十九日夜より十月朔日に到り、本府城下及び東南北数十里の間、地の震うこと頻りなり。已に当日の未の刻をすぎて、城下の東方対岸桜島の上に火を発し大に燃え上がり、火燃ゆれば地愈震い、地震へば火愈燃ゆ。或は相応ずるに似、或は相激するに似たり。而して其焔の出つるや、結んで萬朶となり、簇りて数隊となり、沸騰すること狂濤怒浪の如く、競起すること畳嶂層巒の如し。愈昇り愈高く幾丈を限るべからず。その光耀烈しく点を焼けば則ち九重の上盡く紅いに、煌々海を照せば則ち千尋の底悉く明なり。星斗之れが為に色を失ふて出づること能はず、魚龍之が為に形を現はして遁くること能はず。疾電の縦横するは焔を閃かすなり。流星の上下するは石を飛はすなり。迅雷山を動かすは其声の振ふなり。烈風海を蕩かすは響きの轟くなり。応に是れ千巌崩れて無底の谷に墜ち、万壑陥つて不測の穴に渝むべし。

大凡一昼一夜見る所、奇々怪々にして名け難く状し難く、変々幻々にして認め難く指し難く、之を見る者乍ち目の眩めくを恐れ、之を聞く者は頓に耳の塞がるを覚えゆ。是の若くなること五日を経て而して後稍々微なり。然かもその火勢未だ遽かに已ざるなり。或は三四時間をすぎて燃え、或は一二日を隔てて燃え、その煙已に伏して而して復起き、その声已に止まって而して復鳴る。又東北五六里の海底より燃え上がりその響き日夜隠々として已まず。既にして海上頓に中州を現じ水を出ること高さ二丈余、周り半里ばかりなるべし。是に於いて桜島の形突然として出るところは平となれり。降然として起る所は凹となれり。復舊日の面目にあらず…。

既にして而して城下に灰を雨す。飄々として風に随い繽粉として地に満つ。碧瓦朱甍俄かに素を積み青松緑竹頓に花を著く。若のみならず簾戸に入り延席に集り箕皿に落ち飲食に糝る。而して道を行く者は傘を張り笠を載くといへども面を撲ち目に眯り頗る婁をなせり。然れども時方に之れ冬に向ふ日夜西北風多く東南風少し。是を以って城下灰を雨らすこと稍や少しとす…。*1

大正三年(1914年) 大正大噴火(VEI5)の写真

 この噴火が宣長のいた伊勢松坂や江戸にまで影響しているのです。宣長は『安永八年己戌日記』の十月にこう記しています。

二日
昨夜中天灰を降らす。今朝之を見るに、屋上地上に満つ。雪の如く積みて、色白ふして甚だ繊細、尋常の灰に異なり、砂に似て而も亦灰の如きなり。抑此の灰、津より以北は降らず。宇治山田辺は、降ること此の辺より多き由なり。朔日二日終日天曇、三日は快晴なり。二日南方尤も曇り、晩見ゆ、雲中に日輪を見る、光輝なく月の如し、蓋し灰猶空中に在る故か。此度灰を雨らす事、亥年亥月亥日亥刻なり。是又奇異なり。[夜四つ半比より降]件の灰数日消えず。八日の夜に至り大雨、此れに因り灰悉く消える。後追々他国の様を聞くに、参河遠江紀伊信濃等皆同じく降る。江戸は、二日の昼之降る由なり。京大坂など降らず。

 『武江年表』には「十月朔日夜より二日まで、灰雪の如く降る、大隈国桜島焼きたりしが其の灰江戸迄も降しといふ」とあり、直ぐにではないにせよ、降った灰と桜島の噴火の関係は知られていました。

 桜島の灰が伊勢にも大量に降り積もっていたこと、また「京大坂など降らず」とあるので気流風向きが大きく影響していることが解ります。この噴火の火山爆発指数(VEI)は5であるので、ポンペイのヴェスヴィオと同規模の大規模噴火でした。噴火がある場合、その前兆として地震だけでなく火山ガスの噴出もあり、それには二酸化硫黄や一酸化炭素、硫化水素などの有毒物質も含まれています。

 桜島から松坂まで約640Kmあり、火山ガスが致死量に達することはないにせよ、微量のガスの持続的な吸入が、松坂の人々、特に敏感な乳幼児や小児に軽い咳や痰を引き起こしていた可能性があります。それが何となくはっきりしない図の形に表れているのかもしれません。


 また処方頻度数として以下の式を立てて図にしてみると、

Xの処方頻度数=100*(一か月あたりのXの処方数)^2 /(一か月あたりの全方剤処方数)




 というような今度ははっきりとした特徴が見えてきます。天明元年の十月、十一月に参蘇飲と二陳湯のピークが表れました。この時は何が起きていたのでしょう。このような形は特定の病気の流行です。宣長の『安永十年(天明元年)辛丑日記』にはこう記されています。

十一月廿九日
十月より今月に至り風病大流行、諸国一同なり。

 宣長は天明元年十二月九日には「十月霜月両月の間、大に風病流行いたし、その俗用しげく、一向に学問事廃し、漸此間少々手透を得たり」と田中道麿に手紙を書いています。寝る間も惜しんで学問をしていた宣長が、それを出来なかったという状況がこの図からも見えてきます。

 ちなみに『泰平年表』には「九月、十月、風邪流行」とあり、江戸と松坂ではその流行に約一カ月のずれがあることが分かります。

 桜島の噴火と並び伊豆の大島、阿蘇山に加え、天明三年には浅間山も噴火をしました。天明の飢饉に入ると宣長の処方もまた少し変わるのです。

つづく

(ムガク)

*1: 東孤竹『桜島大噴火記』

コメント(Q&A)

Q:処方割合のグラフで安永八年の一月二月と天明三年一月は冬なのになんで何も処方されていないのですか。「毎年秋冬には増加し春夏には減少する傾向がある」とは言えないのではないでしょうか。

A:安永八年の一月二月は『済世録』の欠落した期間であるので記録が残されていません。天明三年の一月、そして二月の大部分も記録の欠落があります。それゆえ値が0になっており、図の一部が凹んでいる理由です。なのでその期間の値は傾向見るための判断材料としては使えないのです。

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学





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