宮本武蔵(1584-1645年頃)は日本人のほぼ誰もが知る剣豪でありますが、その著作『五輪書』の中に気に関する記述が見られます。
「枕をおさゆるといふは、我実の道を得て敵にかゝりあふ時、敵何ごとにてもおもふ気ざしを、敵のせぬ内に見知りて、敵のうつといふうつのうの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心、是枕をおさゆる心也。」
この文中の「気ざし」は「兆し」のことで、ものごとが起ころうとする、思いや考えが生じようとする前触れの意味があるようです。『五輪書』の他の文中には、かなの「き」の字か普通に使われています。それ故、この「気ざし」の「気」は単なる「き」の当て字ではなく武蔵が「気」に対して持っている印象が感じられますね。
「景気を見るといふは、大分の兵法にしては、敵のさかえおとろへを知り、相手の人数の心を知り、その場の位を受け、敵のけいきを能く見うけ、我人数なんとしかけ、此兵法の理にて慥に勝といふ所をのみこみて、先の位をしつてたゝかふ所也。又一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、相手の人柄を見うけ、人のつよきよわき所を見つけ、敵の気色にちがふ事をしかけ、敵のめりかりを知り、其間の拍子をよくしりて、先をしかくる所肝要也。物毎の景気といふ事は、我智力つよければ、必ずみゆる所也。」
この「景気」や「気色」には筆舌にしがたいけれども確かである情報、様子や気配のような意味があるようです。この生死に関わる重要な情報は特殊能力などではなく、智力を必要としていることが分かります。ちなみにこの「敵」を「病」に置き換えると医療者にとって考え深いものになりますね。
「声無きに聴き、形無きに視る」(『礼記』曲礼上第一より)(註1)
中国や日本では古来よりこの思想がありました。例えば「目上の人に会って話をしているとき、相手があくびをしたり、手にした杖を動かしたり、靴のつまさきを動かしたり、あるいは戸外の日ざしの移りかげんを気にするようであれば、いとまを請うがよい」、というようにです。
ところで『五輪書』の五輪は五行論と同じ数字です。何か関係あるのでしょうか。
次回に続きます。
(註1)礼記:儒家の、礼法や文化に関する論集。前漢の戴徳の編「大戴礼」と戴聖の編「小戴礼」があったが、後者が今日の『礼記』となった。『大学』『中庸』はもとは『礼記』の一部。三礼、五経の一つ。(『漢字海』より)
(ムガク)
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