今も昔も「気」とは何であるのかという議論があります。「気」とは電気や電磁波、磁気のようなエネルギーであるとか、はたまた元素のような物質であるとか議論に絶えません。
鍼灸の世界では「気」とは人間の身体にある経絡という循環器官の内部を流れている生命エネルギーなどと言われることもあります。また外気功の分野では「気」は身体の外に放出されるエネルギーのように捉えられています。
また荘子(BC369-286年頃)や張横渠(1020-1077年)に代表される気一元論の中では、「気」とはあらゆる物質を構成する元素のようなものであると言われています。
数千年の時を経て「気」という単語の意味は多様を極めています。もしそのたくさんの意味の中でどれか一つが正しいのであれば、それ以外の意味は誤まっているのでしょうか。
そうではありません。それらの意味のどれもが正しいものです。
なぜなら、もともと単語の意味と文字には何の関係もないのですから。その間の関係とはある時のある人々の約束事であり恣意的なものに過ぎません。またいったん単語の意味と文字の関係が決定されても、時代とともに単語の使われ方が変化するので、意味の定義も変化します。それを忘れてしまうと「気」を理解することができません。
この言葉の定義の問題は江戸時代にもありました。たとえば朝鮮人参(高麗人参とも御種人参とも呼ばれていますが)は現在でも体力が落ちて元気がない時によく服用されています。後世方医学(李朱医学)では「気」を補う薬として特に重用されていました。
このことに対して吉益東洞(1702-1773年)は「元気は天地根元の気にして人の胎内にやどる時にうけ…気虚する時は死ぬるなり…人参は心下の痞鞕を治す…気を補ふといふ事なし…」(註1)と言っていました。これなどはまさに「気」の定義が後世方派と異なっているという言葉の問題ですね。
また古方派の医師である香川修徳(1683-1755年)は「陰陽の本は一気のみ、一身四肢百骸は気の運動に憑(ヨ)らざるはなし、斯の気は即ち陰陽なり、陰陽は即ち斯の気なり、天地の火に至るや、亦斯の一大元気のみ…」(註2)などと言っています。同じ古方派でも「気」の定義は異なるようです。
さらに本居宣長(1730-1801年)の言うところの「煕然たる一気」など考えるときりがないですね。
科学的分析により「気」を理解する時も単語の意味の恣意性を忘れてはなりません。すなわち、もし科学的分析により「気」とは何か明らかにしたいのであれば、常に「ある時ある人が観察した具体的な現象そのもの」が分析の対象である必要があります。
それはさて置き、とりあえず言えることは「気」がエネルギーであるか物質であるかという議論は、言語学的にみても自然科学的にみても、あまり実のある議論ではありません。
1905年にアインシュタイン(1879-1955年)が特殊相対性理論を発表しました。その理論によりエネルギーと(質量をもつ)物質の境界がなくなってしまいました。それは「E=mc?」という方程式に示されています。この方程式が正しかったために広島と長崎の悲劇が生まれたのは残念なことですが…。
(註1)吉益東洞『医事或問』巻下
(註2)『修庵香川先生文』
(ムガク)
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