前回まで貝原益軒の『養生訓』(総論上・下)の解説を連載してきましたが、これもまたその続きです。と言っても焦点は儒学者である益軒から国学者である本居宣長に移ります。
益軒と宣長はどちらも医師でもありましたが、彼らの思想を見ていくと日本人特有の思考が見えてきます。特に宣長にはそれが顕著に表れており、それは決して宣長が特殊であったのではなく、彼は非常に一般的な日本人であったと言えるでしょう。近世日本において彼の業績は皇国史観や国粋主義、尊皇攘夷の思想の中心にあり続け、復古神道も宣長の存在なしにはあの時代に生じることは無かったでしょう。宣長は天竺や唐から入ってきた仏教や儒教の絶対性を排撃し、皇国の優位性を主張し続けました。しかし、それでも宣長は仏教徒であり、彼は浄土宗の信者の家に生まれ、若き時より甚だ仏を好み、人生を終える時は自らの葬儀を遺言してまで仏式で行ったのです。現代でも、生まれて神社へお宮参りし、教会で結婚式を挙げ、お寺で葬式をすることがよくありますが、このようなことに矛盾を感じることなく平然と行えるのは日本人の特徴の一つかもしれませんね。
さて医師として生計を立てていた宣長はどのような治療を行っていたのでしょうか。また当時の医学についてどのように考えていたのでしょうか。江戸期の他の名の知れた医師たちが自ら医書を著し彼らの医術や思想を世間や後世に伝えようとしたのに対し、宣長は医書を著すことはなく、彼のそれは我々にとってよく知るものではありません。なぜ宣長は医書を著さなかったのか。それについてはこれから次第に明らかになるでしょうが、宣長の残した膨大な著作や資料から医師としての宣長を明らかにしていくことが可能です。その時、彼がどのような薬を使っていたとか医学書を読んでいたかというのは記録に残されていますがあまり重要でもなく、どのような思想で医療を行っていたかという所、それも日本人特有の思考方法が関係していた所が重要であり、それが現代そして未来の日本の医療を知ることにも繋がるのでしょう。
それではこれから彼を批判することなく礼賛することもなく、医師としての宣長をありのまま見ていきましょう。きっとそこにはもののあはれを知る心が必要かもしれません。
つづく
(ムガク)
本居宣長と江戸時代の医学
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