前回、宣長がどのような医師になろうとしたのか明らかにする鍵が「稚髮(薙髮)」にあると言いましたが、それはなぜでしょう。結論から先に言ってしまえば、宣長が京都留学中に記した『在京日記』にこうあるからです。
宝暦五年
三月三日 稚髮を為し、名を更めて宣長と曰く。号を更めて春庵と曰く。春庵を以て常に相呼す。
この時、宣長の叔父村田清兵衛は書状に、「改名され、稚髮になられたこと、めでたく大変悦ばしいことです。だんだん療用などもお勤めのこと、第一段の義、随分と医業にご油断なく精を出してください」と述べ、宣長が母に頼んだ医師としての衣装十徳と脇差を用意しました。ここが宣長の医師としての第一歩だったのです。
「薙髮」とは「髪を薙ぐ」ことで、文字通り髪の毛を剃ることです。隣の清国では1645年に「薙髮令」が発せられ、「頭を留むる者は髪を留めず、髪を留むる者は頭を留めず」と漢民族は満州民族に弁髪を強要されていました。儒者にとっては毛髪も父母から授かった大切なものでありましたが、その切断だけでなく伝統的な衣冠の変更も強制されていたのです。
日本でも同じようなことが起きていました。もともと薙髮は僧侶として出家する時に行うものであり、例えば僧であり歌学者でもあった契沖は「十三歳にして薙髪し、高野山に登」っています。しかし徳川家康は儒学者林羅山を側近に登用するために「薙髮をして道春と称」させ、また民部卿法印(僧の階級の一つ)の位に就けたのでした。それ以来、儒学者は仕官するためには僧侶でなくても、たとえ仏教を全く信じていなくても髪を剃り、僧侶のような格好をせねばならなかったのでした。これは家康にとって、士農工商の階級社会の中で、低い身分の者を法外の者として高い者と同列に置くための、単なる方便だったのです。
そしてそれは医師にとっても同じでした。幕府や各藩のお抱え医師になるには、「薙髮」し僧侶のような服装を身に着けることが必要だったのです。たとえ儒医であってもオランダ流外科医であってもです。名のある医師のほとんどが坊主頭であり、杉田玄白や山脇東洋(右絵)もそうだったのはそんな訳です。貝原益軒も医師になる時には薙髮しました。ただしこれは彼が習慣に従ったからであり、後に儒者になる時には髪を伸ばしましたが、それは彼が武士階級だったからでしょう。
では宣長は「稚髮を為し」て、髪を剃って坊主頭になったのでしょうか。いいえ、実は違います。『在京日記』をもう少し前から見て追って行きましょう。
宝暦三年
七月二十二日 堀元厚氏に入門し、医書講説を聞く。
七月二十六日 堀元厚先生の講釈始まる。毎朝、霊枢、局方発揮なり。二七四九の日の夕は、素問、運気論、溯集なり。
九月九日 仮に名を健蔵と改めて曰く。
九月二十日 中旬より予め頂髮を生長す。
宝暦四年
正月二十四日 堀元厚[北渚先生と号す]先生死去。
五月朔日 武川幸順法橋の門に入り、医術を修業す。
・・・
宝暦五年
三月三日 稚髮を為し、名を更めて宣長と曰く。号を更めて春庵と曰く。春庵を以て常に相呼す。
このように、宣長は医学を学び始めて約二ヶ月後には頭頂の髪を伸ばし始めているのです。もちろん宣長は江戸時代の商人の家の生まれで、普通の月代のある髷でした。その剃ってある頭頂の髪を約一年半の間伸ばすことで「稚髮を為し」たのです。つまり、これは宣長の薙髮は薙髮ではなく、それは医師を称すること表現した言葉のあやであり、苦労することを骨を折ると言ったり、可笑しい時にへそで茶を沸かすと言ったりすることと同じなのです。ではなぜ宣長は髪を剃らず、逆に伸ばしたのか。江戸期の多くの名医が坊主頭であり、宣長の家は浄土宗の信徒であり、彼も「小来甚だ仏を好」んでいたので、剃髮してもおかしくなかったのです。でもしませんでした。なぜでしょう。
後藤艮山 香川修徳
それは宣長は後藤艮山に倣ったからです。もちろん昆山は宣長が上京した時にすでに亡くなっていたので、正確には香川修徳など後藤流の門弟たちにです。昆山の肖像画と比べれば一目瞭然ですね。昆山は自分が儒学では伊藤仁斎よりも、仏教では隠元より勝ることはできないと自覚し、医学で頂点を目指そうと医師の道を選んだのでした。彼は、薙髮し僧衣を身に着け僧官を拝することを嫌い、髪を束ねて縫腋(十徳)を着て医業や研究に励んだのです。昆山の髪型は医師として画期的でしたが、これは彼が伊藤仁斎のそれに倣ったからかもしれません。なぜなら彼の医論「一気留滞論」は仁斎の「気一元論」を基に組み立てられているからです。彼らは終生仕官することなく、それ故清く貧しくもあり、髪を剃る必要が無かったのであり、きっとそれを望みもしなかったのです。そして彼らの、儒学では古学、医学では古医方と呼ばれるものが、門弟が増えるに従い世に広まりました。
そして宣長も古医方の儒医に惹きつけられたのです。それも堀元厚の下で霊枢、局方発揮、素問、運気論、溯集など、いわゆる後世方医学を学び始めて二ヶ月後には自分が進む道の決心を固めたのです。それはなぜでしょう。また古医方のどのような所に惹きつけられ、どんなことを学んだのでしょうか。
つづく
(ムガク)
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