「忠誠」の第2弾です。第1弾はこちらでした。
「忠誠」は、時に美しく響きますが、世間でよく言うように、美しいほど注意が必要なのでしょう(笑)。
「きれいなバラには、トゲがある」
↓
「きれいな花には、トゲがある」
↓
「きれいでないのに、トゲがある」
さて・・・・始まります。
野村証券を告発し、一連の総会屋スキャンダルの口火を切った大小原公隆〔おおこはら・きみたか〕は『裏切り』(読売新聞社)に「私の告発の動機は正義ではない。職務上の義務だった。」と書き、「思い違いをした忠誠心に呪縛された社員たち」を気の毒がりながら、「会社、社員、株主を裏切ったのは経営者の方である」と断言している。その通りだろう。辞任の記者会見で野村証券社長の酒巻英雄は「まず、私に言ってほしかった。」と口にしたが、言えば必ず、もみ消されたに違いない。:P.213 佐高信「こんな日本に誰がした!」講談社文庫
これを読んで
野村なら「あり得ることだ」と思った方は正しい。野村の肩をもつ理由は、どこにもありませんが、こういうのは日本で「どこにでもあり得る」事件なのです。
ただし中国・韓国では、こんなことは「日常茶飯事」なので、起こったとしてもニュースにならないほど隠蔽・捏造のレベルが高い(笑)。
一方日本では、「あり得ること」ですが、起こったらニュースになります。日本では、それほど隠蔽・捏造の技術が発達していない、つまりレベルが低い、ということですか(笑)。
これまでアラブの領土は絶えず外国人によって占領され、そのことがアジア、ヨーロッパ一アフリカの三大陸を結ぶかけ橋の役をはたしてきた。アラブ人は、世界のあちこちからやってきた外国人にもまれ続けてきた。そのうえ中東は、いろいろな文明の温床となり、各種の宗教の発祥地ともなった。アラブ人は、新しいカルチュアに自分たちを適応させ、変化に耐え、同化することを学びとった。
数百年間、アラブは自由な国ではなかった。アラブ人には、自分が大きな存在の中の一つであると感じさせるもの、つまり国家を感じさせる必要条件がなかった。家族を除いて、彼らには忠誠をつくずものが何もなかった。
そして、そういうものが必要になったとき、彼らは支配者の愛顧を受けるために忠誠心を発揮するほかなかったわけである。柔軟性に結びつく、もう一つの大きな要素は、子供の育て方の中に発見される。赤ん坊は、一つの物体のようなもので、数人の膝から膝へ回され、母親を求めて赤ん坊が泣けば、そこに居合わせた婦人が乳を与える。:P.67 サニア・ハマディ「アラブ人とは何か」明石書店
かつて私は
ある著名な故人に「中東人は、石油を産出するようになって不幸になったと思います」と言ったところ、その人は即座に「いや石油のおかげで幸せになった」と否定しました。
また私が別の人に同じことを言ったところ、その人は「不幸になった」とする私の説に賛同しました。
つまり、石油が出たことは、不幸とも言えないし、幸福とも言えない、どちらでもない、ということでしょうか(笑)。
私は自分にいささかの主張があったとしても
「死守する」なんて馬鹿げたことはせず、それぞれ異なる意見の中間あたりに何か真実があるのでは、と考えることが多いのかもしれません。
私は、多くのことについて「自分なりの意見をもつ」ことが多いためか、たとえ「自分の考えがある」としても、これを死守しないのでしょうか。
多くの人は普段、自分の意見などもたず情報をただ受け入れるだけなので、たまに何かについて自分の考えが決まると、それを死守し始めるもの。やはり私は変っているのでしょうか(大笑)。
過去において、イスラム帝国の栄光があったとはいえ
現代ではその時代に虐げられてきた人たちが世界を牛耳る時代。互いに異なる宗教の中間あたりに真実を求めるのではなく、自分の宗教が正しいと信じこまされ異教徒に長い間「恨み」をもち続けたからでないと、あれほど深い宗教対立は考えられません。
現代のイスラム教徒の一部は、移民としてそういうキリスト教地域へ渡って仕事をしてきました
そういう移民をしなかった人には、いいも悪いも、イスラム教という洗脳「教育」がありましたが、異教徒の住む地域へ移民した人たちの中には「教育」を受けられなかった人もいて、国を出て初めてイスラム教以外の宗教を知った人、国際関係についての無知な人もいて、異国でイスラム教徒だけが寄り集まって、しかも宗教上の理由で顔を隠してその国で治外法権のような「異国」を形成していると異端視されはじめ、よって「差別されている」という考えに洗脳されやすく、中には過激な犯罪に走る人が出てきます。
これも教育の不足に起因すると思われます。
ただし、「教育」を重視する視点からご推察の通り、私がイスラム過激派の言動を正しいと認めているわけではありません。
大切なのは、イスラム教地域の人たちが、キリスト教地域に頼らずに、自立することでしょうか。依存しながら「差別された」と過激になるのではなく、依存の度合いを少なくすることにこそ活路がある、と私は思うのです。
そういう意味で、中東が、突然わいてきた石油を利用して「自立」ではなく「依存」で繁栄を目指したことが不幸だったのではないか、と言ったわけです。
昨今の宗教対立を
私はこのようにとらえているので「表現の自由を」などと叫ぶのではなく、真正面から宗教対立ととらえ、宗教対立をあおることで利益を得ている人たちをなくすよう行動することが大切かと思います。
「あすから一神教をやめましょう」と呼びかけるのが現実的でないと思うからこそ、こんな指摘をするのでした。
憲法より「党への忠誠」? 中国で初の「国家憲法日」
中国は4日、憲法記念日に相当する初めての「国家憲法日」を迎え、政府や国営メディアなどが憲法を守る姿勢を大々的にアピールした。習近平(シーチンピン)指導部は「法治」を新たな看板に掲げるが、庶民の反応は冷静だ。
国を挙げて憲法の大切さを学ぶ日として、10月に党中央委員会が決めた。1982年のこの日、習氏の父、習仲勲氏が主宰した全国人民代表大会で、文化大革命の名残を残した従来の憲法を大幅に改めた現憲法が成立したのにちなんだ。
4日は政府機関や学校などで勉強会が開かれ、メディアも盛んに宣伝。「憲法は改革開放を進めるための用心棒だ」(人民日報)などと意義を強調した。
しかし、ネット上では広西チワン族自治区の裁判所が開いた憲法順守を誓う宣誓式で、憲法より先に「党への忠誠」がうたわれたことなどが話題になった。「中国版ツイッター」の微博(ウェイボー)でも、「(憲法が定める)選挙権を使えたのは、学級委員長を選んだ時だけ」「おとぎ話にだまされるな」などと冷めた意見が目立っている。(北京=林望)
:朝日新聞デジタル 2014年12月5日00時31分
上記に見られるとおり、昨年あたりから
悔い改め始めたのか、中国について、香西(こうざい)かおり、いや、功罪(こうざい)両面から報道するように変化してきたかに見えるのが、朝日新聞。
同紙が、中国共産党との良好な関係を維持しながら、現実をそのまま伝えようとする姿勢に切り替えたとするならば実に立派。
しかし「現実報道ほど危ないことはない」「現実報道など念頭にない」はずの中国共産党が、果して朝日の「謀反」を「目こぼし」するとも思えず、毛沢東の「造反には理が有る」という意味の造反有理〔ぞうはんゆうり〕を朝日が演じていると仮定して、それが通じるや否や、というところ。
みなさまが、どうとらえるかどうか分りませんが、私は
- 中国共産党が中華人民共和国を建国した
- 中国共産党が発表する声明は、多くの場合、まったく正反対の意味を含んでいる〔私が特別に疑い深い人間だからではない〕
という経緯から、「国家憲法日」を制定したということは、中国が法治国家を目指したという意味とは正反対の、「中国共産党による弾圧を徹底させる」意思表示と見ました。
過去の無数の実例から、これが「尤もらしい」と信じています(笑)。チワン自治区での「党への忠誠」は、その一例に過ぎません。
中国共産党には、
ある状況が中国共産党にとって〔「中国にとって」ではない〕危険だ、と判断すると事実と異なる美しい言葉を乱造する悪いクセ
があります。いつもあとになって気づきますが、これは得意中の得意。つまり中国共産党には
- 言っていることと正反対の行動をしたがる
言い替えると
- 行動していることと正反対のことを言いたがる
傾向があるらしい。
これは状況を見極められない「うぬぼれタイプ」特有の心理状態であり、自分が一番用意周到に考えているとする根拠としていることから、この傾向は、ほぼ断定する価値があると言っていいでしょう!
何でも思いつきで強権的に決めるからこそ、形式的には「美しく着飾る必要がある」のですね(笑)。世間体として醜いところがあると判断するからこそ顔を整形します。
憲法よりも党への忠誠のほうが大切なのは、中国では当たり前。
そして何回も言いますが
党への忠誠を強要していることがバレてはまずいので、見かけ上、否定するために「法の遵守」を謳うわけです。
党が「目こぼし」できないときに限って、この「法」が活きてくるのですが、実際の効果がないのは、むかしから変りません。
もちろん、「憲法は改革開放を進めるための用心棒(人民日報)」とは、中国共産党の一党独裁を強めるため「憲法は用心棒でなければならない」と言っているのです。その意味は・・・・
ようじん‐ぼう【用心棒】
- 盗賊などを防ぐ用心に備えておく棒。
- 内側から戸を押さえるために備えておく棒。しんばりぼう。
- 護衛のために身辺につけておく従者。博徒などが警戒のために抱えておく武芸者。
広辞苑第六版
つまり
中国の憲法とは、中国共産党という博徒が民主主義という盗賊から身を守るための、用心棒
・・・・うわぁ~、久しぶりにいいことを言いましたね。←誰も言ってくれないので自分で(笑)。
ばく‐と【博徒】ばくちをうつ人。ばくちうち。:広辞苑第六版
自由経済・自由社会には
原油価格や為替や宗教対立を操作しようと試みる連中がいて、かくも危うき一面をもってはおりますが、それでも統制経済・弾圧国家に比べたら、まだまだ充分に健全だ、と言えると思います。
ただし、自由経済・自由社会の利点を賛美し過ぎる
だけではなく、厳しく自由経済を監視して、不正操作を許さないという姿勢が、これからもずっと必要なのです。
「忠誠」だけでは対立をあおってしまい危ない。
「自由を確保するためには、多くの人が納得するような規律が必要」
なのでしょう。