夕飯時のリモート会合が始まる直前、カメラがオフでミュートもオフになっていたお宅から「カレーだからスプンも出してね」って声が聞こえてきた。
こどもたちがお膳立てしている。
別のお宅のヴァーチャル背景の後ろで音の出るおもちゃで遊んでいる子は、多分もっと小さい。
私の頭の後方から意識の逆竜巻がくーっとそちらに伸びて、フレームの外側の人の気配にくつろぐ。
「本題」について話しながら、でも、いつも私たちは「本題」の裾野にあるそこに身を寄せていたのだった。
そこに乗って、安心して、「本題」を語っていたのだった。
(身体の側面に感じる人の(安心の)非言語の領域)
(言語非言語の分業で、暮らしの中で丸ごと摂取、吸収するようになっていた「人に必要なもの」)
「日常」−「本題(例 リモート会議)」−「不要なストレス(例 通勤電車)」=「今足りていないなにか」
私たちは何をしていたのか。
私たちには何が必要なのか。
私たちはなんであるのか。