日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

牛乳、二本

2017年10月22日 | 日記
スーパーで買い物を終えようとしていた時、外は暮れて雨が降り始めていました。

おとなしいミニチュアダックスを抱き抱えた年配の女性が入り口から顔をのぞかせて、店員さんたちに声をかけました。

「あの、牛乳二本だけ欲しいんですけど、このままお店に入っちゃだめかしら。」

顔を見合わせた店員さんたちはすまなそうに、動物を連れて入店はできないと答えました。
老犬らしいその犬を外で待たせられない事情があるのでしょう、困った様子で外に出ていったので「よかったら牛乳二本、買ってきましょうか」と声をかけました。

牛乳二本とお釣りを渡して「助かりました」と言われてその人と別れ、車を出す私の口もとは小さく笑っていました。
それは良いことしたな、と思ったわけではなく。

誰でもがするおせっかいではないのに、なぜか頭に浮かぶ私の友だち、あの人もきっとそうするなあ、あの人もあの人もあの人も、と思ったからです。

考えれば考えるほどおかしくて。

なんか、ありがとうね、みんな。

何もしてなくてもあなたがあなたであることで、私の口は今、笑っているよ。



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この社会の病

2017年10月17日 | 日記
須川邦彦という人の「無人島に生きる16人」という本があります。
明治生まれの著者が先生から聞いた遭難譚、なんと実話だそうです。
16人のおじさんたちは遭難しても気持ちはちっとも負けないで、勉強する時間割を作ったり亀牧場を作ったりと、ドタバタ生活して最後には救助されます。青空文庫などで無料で読めるようになっているのでぜひ一度お読みください。
おじさんたちの前向きなところ、どんな冒険小説にも負けない面白さで大好きな本ですが、私が本当に驚くのはこの本で使われている言葉の力強さです。

すべての言葉に信念が意思がきちんと宿っている。
そうでした、昔、言葉はそういうものだったのでした。
それには言霊という名前もあったのでした。

戦争に負けて今のようになったどこかの時点で、今の私たちの社会が苦しんでいる病の芽が生まれたのではないでしょうか。

「言葉の空洞化」という病。

その症状が一番強く現れているのは政治と教育の場だと思います。



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小学校 その5

2017年10月17日 | ホームスクール・ホームエデュケーション・不登校

私が一番好きだったのは家庭科の授業でした。

おそらく学校内ではノーマークの家庭科の先生は、そうですか、参観されると聞いていませんでした、とおっしゃいました。
そして淡々と普段通りの授業をなさいました。

先生はすっくと立っている。

大人にしかできないやり方でしっかり地に足をつけて、落ち着きを放っている。

こどもたちをなんとかしようとしていない。
(そんな必要がないから。)

順番にこどもに縫製のやり方を指示する。
適切に。過不足なく。

その教室には息苦しさがありませんでした。

必要なら助けてもらえる。

作業に集中しても大丈夫。

学校が苦手だったり、生きづらかったりする子も、この教室だったら身構えずに学ぶことができるかもしれません。

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小学校 その4

2017年10月16日 | ホームスクール・ホームエデュケーション・不登校
学校という場は

社会の「こうあれ」が過剰に現れる

意図と意識が張り巡らされた特別な空間

未熟で弱く、なのに生命力の強いこども

「ひとまとめに」なんとかしようとする大人

一人ひとりの頭上に漂う母たちの切ない願い

時に衝突する様々なレベルの複雑な思惑


あらゆる波に

こどもたちは毎日さらされ続ける

ガチャガチャして落ち着きがなく

しばしば理不尽で

平穏がない


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2017年10月16日 | 日記
夢で

わたしは若い女で
男のところにかけこむ
男はわたしを大切に大切に扱う
若い女である私は
大切にされながら
そんなに大切にしなくていいのにと思っている

夢で

わたしは男で
若い女を受け入れる
どうしたものか思案しながら
食べ物をそっと置き
女に毛布をかける

両側から見ても
夢は別の夢

女と男が
お互いの相手であったかすらわからない

女の夢は女の夢だけでできている
男の夢は男の夢だけでできている

私は常に私だけれど

女にも男にも名前はない
相手が誰であっても差し障りはない

その夢が示すものはおそらく

「私が出会うのは常に私でしかない」

「私が出会うのは他者ではなく
他者についての私の解釈である」



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