恋
は
世界と私の間にある

自分はそうとう一般平均から外れてる自信ある。
時々自分でそうだよね、って確認しておかないとやばいとは思ってる。
(生涯一野良)
自転車に乗りながら、ああいい人生だったと心の底から思う。
例えば今この瞬間、命が終わったとしても、それでも私はそれを知るという恵を受けた。
辛くてたまらないことが同時にいくつもあったとしても。
それはそれで私が幸せを受け取る邪魔にはならないんだ。
昨日ああは言ったけど、でも祈ったらあとは割とどうでもいい。
全てが変わっていって何もかも今と同じじゃなくなっても、私はまたそこで見つけた素敵な飲み物を頼むんだろう。
だからそれは今が続くようにという祈りというよりも、友だちが言ったように、今への感謝であるのかもしれない。
その時そこでそういう風に生きて生かされていることを、コーヒーやお茶やフロートを飲みながら句点を打つように一差し針を入れるように、寿ぐことなのかも。
(あるいはお茶をするための言い訳)
普段一人ならあんまりお茶もしない。
せいぜいマックの100円コーヒー。
だからしぼりたてカラマンダリンジュース、森のミルクアイスフロートは、お使い帰りにひとりで飲むには贅沢すぎる。
だけどこの飲み物はただの飲み物ではないんだな。
「私はこれを飲む」という行為、をする。
天災も人災も戦争も疫病もあるいは個人的な災難もなく、この店が続いて、生活も続いて、こういうことができる世界、生活であってほしいって祈るように飲む。
儀式のように。
ルーレットのテーブルでこの世界線にチップを置き、こちらに賭けると意思表明する、象徴のように。
だからそのお金は飲み物代なんだけど、飲み物代じゃなくて、今の生活に投げ込む賽銭。
ちいさな祈り。