日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

春が来て

2022年04月14日 | 新しい日々

がんじがらめの束縛から


あの空のように軽いひとりの自由へ


重たい思い、諦め、怒り、フラストレーションから


明るく軽いよろこびへ


何も言い訳にせずに


自分を



ひかり


joy


よろこびで満たしたい











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今していること

2022年04月13日 | 自分の中へ

今そうあった方がいいかたち


それはこどものためにも


戦争のためにも


同じような気がしている


性急に結論を出して掴むようなやり方ではなく


自分の思う通りにコントロールしようとするやり方でもなく


(しかしただ放置したり見ないことではない)


非常に注意深く心を砕いて意識を寄せる


そして深く呼吸する








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動けないのは

2022年04月11日 | 自分の中へ

自分の中に浮かぶものを見ていた


「せっかくたくさんある時間をもっとうまく使いたい」

「そんなに活動したら疲れてしまう」


(休ませないと)

(守らないと)


自分から自分を守らないといけないと感じていたから動けなかったんだ


搾取されないようにかばっていたんだ


いつだって自分は自分だけは頓着せずにこきつかったから


いつでも休める

守りながら活動できると思えなかったから


動けないのはだからだよ


だから必要なのは


動かそうとすることではなくて


動かなくてもいいと本気で伝えること


少しずつわかってきた







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ニ十五、二十一 ショックのみなさまへ (感想文)

2022年04月09日 | 感想文/創作物
 娘を乗せた車を運転しながら「現在」のヒドが「海?そんなことあったっけ」と言ってから、SNSにはヒドの記憶喪失説や「彼」の死亡説が出回った。

 あんなに特別な夏を、特別な相手を忘れることなんかありえないはずなのに。死んだ以外に説明はつかない、と。


 どうしても私たちは「なんで別れたの?」と思う。不当である、認められない、許したくないと思ってしまう。


 20年も経ったら大概のことは忘れてるだろうし許せてもいるはずなのに。


 何故?と意識は納得のいく理由を要求するけど、これがそれですというひとつの答えが存在するわけでもない。


 ただそうなってしまった。お互いをとても愛してはいても、タイミングが合わずに別れてしまった。そんなことはよくあることだ。


 だいたい別れるというのはそんなに悪いことだろうか。別れというのは出会いを全うしたということでもある。出会った結果起きることが全て起こり、縁が邂逅のスパークを終えてまたそれぞれの旅へと還っていく。


 ああいう愛やこういう愛を、やってみなければ涙の別れもなかったかもしれないけど、それではヒドじゃない。


 私たちがこんなに一生懸命に応援したのは、決して何かのせいにはせずに自分で引き受けて進んでいく彼女の覚悟と勇気を愛したからじゃないか。


 そうしたら私たちは大きく拍手をして、少しだけ自分も彼女のように、と力をもらえばいいんだと思う。









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春のおでかけ

2022年04月08日 | 日記

きれいなところから


きれいなところを通り


きれいなところへ行ってきて


きれいなところを抜けて

きれいなところに帰りました



ひとりじめの桜




石楠花の大木
誰もいない枝垂れ桜の園



この世でいちばんきれいな色はピンク


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