あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

今日の「芭蕉」

2010-04-06 18:40:15 | 日記
言葉遊びのような句
当時、こんな句の作り方が「パターン」の一つだったのでしょうね。

そんな遊びが好きです。

芭蕉の罪は
俳句を高踏的な現実にしてしまったことですね。
「遊び」でよかったに・・・
でも先鋭化した川柳が台頭してきたのですね。

まあ、そんなことはどうでもよくて
楽しみましょう。

今日の「芭蕉」

2010-04-06 18:32:18 | 日記
芭蕉にもこのような句があったのか
そんな感じですね。
もちろん、感心しているのではありません。

でも「きどく」奇特というか「もの好き」にも
そんな意味だと思いますが、
五里六里と歩き回る元気な芭蕉を想像すると
羨ましくなりますね。

頑張らなくちゃ!

鉄橋の轟音かすかな桜森   あきオジ

2010-04-06 17:05:22 | 日記
青梅から出る奥多摩湖行きの電車が通る山岳地帯には
いろいろなことが現れる。
とてつもなく高い鉄橋
無人駅
急斜面にへばりつくような農家
どのようにして出てきたのかわからない
年寄りがバスなど通っていない道を歩いている

ただ、鉄橋を渡る電車の轟音だけが
人界とつながっている。
そんな気分は「よそ者」としては気持ちいい。
「異界」は好奇心をくすぐる。

「私」という文字消しながら桜散る  あきオジ

2010-04-06 16:56:44 | 日記
桜に魅せられた西行だけでなく
日本人は容易に桜に吸い込まれていく
少々過剰になり
「同期の桜」などと盛り上がったり
「紅匂う・・・」などの寮歌に陶酔したり
少々情けない。

でも、それだけ自然の力に従順であり
信仰になっている。
そんな力が働くのですね。

きっと、「桜の樹の下には・・・」
というわけではないですが
不思議な妖気があるのです。

そのように信じるのは自然な流れです。
私は、そう思っているのです。
西行のように「願わくば・・・」と
その気になることだってちっとも過剰な思い込みではない。
素敵なことではないですか。

また逢える安心もなく桜散る  あきオジ

2010-04-06 07:14:40 | 日記
川べりの満開の桜
もう散り始めている
待ち遠しい時間だけが長い

なのに横を向いている間に
散ってしまう。

それでいいような
物足りないような

きっと、来年まで元気でいたら
会えるだろうと思うけれど

自分が元気でいるだけでなく
周囲の人も元気でなければ
今の気分で待つことはできないでしょうね。

でも、同じっていうことはないですね。

春写すガラスにおさまる新社員  あきオジ

2010-04-06 06:58:26 | 日記
見ている春と
映された春と
同じようで同じではない。
きっと、そうなのでしょうね。

だから、映された春を撮ったところで
どうこうというわけでないのですね。

気分だけ伝わればそれでいい。
趣向の面白さなど本当はどうでみいいのでしょうが
素人はときにはそんなことをしたいのです。

お付き合いください。