あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

一つの遊びを心から楽しむ

2008-02-29 07:43:40 | 日記
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一日にたったひとつのことを楽しむ
年をとると一日が早いのです
それは誰もが言うことです
一年も過ぎるのが早いですね
そんな話を聞いたとき
「そうかな?」
それが最近、「そうだ」になりました。
やれやれ、ため息が出てしまいます

ですから、何かしなければならないことは
最近は、一日ひとつということになってしまいました。
以前なら昭和記念公園に行って
帰りに図書館により
先日オープンしたラーメン屋に寄って・・・
などと「せっかくだから」と欲張り
それでも足りない気分がしました。
そして十分楽しんだとき
疲労困憊です。

でも、最近は横浜に出かけて写真を撮って
食事をして昼過ぎには帰ろうかなと考えるのです。
そんな日は早い時間に出発し、2時間ほど歩き回って
適当な場所で昼食をとり
今から帰れば、2時ごろかな
2時だったHPの作業を今日中にすませることができる
そんな思いになるのです。
それで丁度いいと考えるようになるのです。

今日も確定申告に出かけました。
9時には税務署に着きました
すぐに作業が始まり30分くらいの事務手続きです。
親切な係員が次々作業手順を示してくれます。
ですから、瞬く間に終了です。
ですけど、もう、あの後が続きません。
気力が湧かないのです。
頭も疲れ
ガソリンのないエンジン状態です
ですから、帰り道
開店を待って、本屋に入り
新刊書の様子を眺め
DVDを一つ買って
家に帰ってしまいました。

それで十分です。
買ってきたDVDを二度見て
HPの更新をして
一日が終わりました。
外の人は知りませんが
私の一日はそんなものです。
だから、無駄なこと
世事に関心が薄くなるのです



河津櫻のニュースが流れると季節を感じます。

2008-02-29 07:21:48 | 日記

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河津櫻のニュースが流れてきました。
伊豆河津が関東では一番早く咲きます。
ですから、最近、春の訪れを知らせるニュースとしてしきりに流れます
「ああ、やっと春だな」という思いになるのです。

この気持ち東京マラソンのときと同じだなと気づきました。
選手がスタート地点から走り始めます。
応援している私たちはいつくるかいつくるかと
首を長くして待っています。
その気配があると敏感に反応します。
パトカーが先導しますが
その前に関係者の乗ったバスが走りますから
何となく気配を感じます。

そして、関係者の車の後
パトカーが通過し
白バイが左右に分かれて走るのが分ります。
応援する人は、その白バイのすぐ後に選手が走っているのが分ります。
ですから選手は見えなくても、見えたものとして応援のボルテージを
あげます。

あの気分ですね
待って待ってひたすら待って
やっと春が来た
これで間違いないという気分でしょうか

ああ、今年は新宿御苑もいいし
千鳥が淵もいい
それとも慈雲寺のバスツアーに参加しようか
写真を撮ろうか
そんなことをいっぱい考えるのですね
西行ファンの私もやっと西行の思いがなんとなく
分ってきた。そんなことなのですね。
人は本当にいつどんな状況の中で化けるか
そして脱皮するか分りませんね。
だから面白いのかもしれません。


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佛には櫻の花をたてまつれわがのちの世を人とぶらはば  

                     西 行

学校の帰り道が一番勉強をするところだった

2008-02-27 21:45:10 | 日記

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歩きながらの読書(昭和という時代)

今でもときどき見かけますが
あまり見られなくなったのは歩きながらの読書
道路へ座り込んでの読書ですね。
昭和という時代
戦後間もない頃
道路の舗装もまだまだで
自動車の数も少なく
道路には電柱が無造作に建てられており
気をつけなければならないのは
行商のおじさんが引くリヤカーであったり
ラッパを吹きながら売り歩く豆腐屋さんの自転車でした
子ども達は学校の帰り、道草をしながら家まで帰るのです。
それは、あちこちにある迷路であったり
物置であったり
塀で仕切られた空き家であったり
ときには饅頭屋であったりしました。
私が中学生の頃、昭和30年代
井上靖の「蒼き狼」「楼蘭」などがベストセラーとなっていました。
もちろん、漫画もありました。
中学校からの帰り道
本を読みながら歩きました。
今の時代、考えられないのですが
本を読みながら歩くのは当たり前のことでした。
転んだり、ぶつかったりした記憶はあまりありません。
私は漫画を読んだ記憶がありません。
「チボー家の人々」などを読んでいました。
「カラマーゾフの兄弟」を最初に読んだのもこの時代です。
「おそまつくん」「まるでためお」などの漫画がはやったのは
昭和40年代だったように記憶しており
文学書を中学生が読む時代でした。
授業中に読んだりしたのも思い出です。
私の家も文学好きな姉が多かったので
世界文学全集などが書棚に並んでいました。
米でさえ買えないような家庭でしたが、本だけはたくさんありました。
ですから、姉の影響で私もせっせと本を読んだものです。
特別、文学少年であったわけではなく
娯楽とは読書だったのです。
シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンは
次から次への読みました。
きっと姉達は「風と共に去りぬ」に夢中だったのでしょう。
今の時代の若い人はいっぱい音楽を聴きますし
映画もいっぱい見ます。
時代によって娯楽や時間の楽しみ方が違うのですね。

これでいいのかな世間の中でやっていくのはいつもそんな感じ

2008-02-26 07:18:38 | 日記

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年をとると周囲の人の何気ない言い方が気になり
言葉の端々にこだわり
失礼がなかったか
言いすぎはなかったか
そんなことが気になってきます
いつしか言葉に気を使い
しゃべることを控え
聞くほうに回ってしまい
そして、臆病になってしまうものです
それでいて
周囲の人に誘われて
言葉を引き出されたりすれば
ついつい
他人のことをあれこれ言ってしまったり
比較してものを言ったり
「言いたくないけど」などという言葉を添えて
あれこれ言ってしまう。
言った言葉はどこまでも突っ走ることを知りながら
油断してしまう
年寄りが孤独になるのはそんなことも背景にあるのでしょう
この埋めることができない寂しさを
意識したりすると余計、寂しくなる。
黙って一人でいることを楽しめるようにならなくては
いけないと思いながら
そんな年になってしまった。
これからももっと寂しくなるだろう。
そんな覚悟をしています。
数年経てば
歩きながら独り言したり
昨日の新聞を繰り返し読んだり
テレビに返事をするようになるのでしょう。

春はあと少し、櫻の写真を撮りに行きたい

2008-02-25 06:54:27 | 日記
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梅が咲きました。
梅が咲くと、「ようやく春が見えてきた」
そんな感じになります。
若く仕事に追われる日々にはなかったものです。
やっと、何が大切か
自分が愉しみにしているものが見えてきたのです
気がついてみれば
「当たり前のこと」
気にしないでもやってくるもの
そんなものが何よりも大切であるし
愉しみなのですね
よく分りませんか?
そうですね
健康であるとか
温かい日々とか
そんなものですよ

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「スカ」(昭和という時代)

近所には駄菓子屋がありました。
店の人はだいたいが家の奥にいて
玄関の扉が開く音で気づいたり
客の方が「ねー」と声を掛けたりしました。
確か「ねー」だけだったような気がします。
当然、地方によって違うのでしょうが
静岡県では「ねー」だったようです。
「三丁目の夕日」に出てくる「茶川商店」ですね。
店には所狭しと菓子、メンコ、凧、吹き矢などが並んでおり
第二は、平たい四角の薄い箱に菓子が種類ごとに並べられ
丸い腹をした透明なガラスの容器には
湿気を避けなければならない煎餅などが入れられていました。
どれもが、透明なガラスの蓋に覆われているのです。
いろいろな派手な着色された飴
何層にもなっており、舐めているうちに色が変わる「変わり玉」
イカを茹ですっぱくしたもの
いろいろな景品が糸で吊るされており
その糸が束ねられ、どの景品が当たるか分らないようなもの
四角い紙の箱がいくつもに仕切られており
中身が分らないように上から蓋がされており
その蓋を突き破って景品を受け取る
それがフィギアであったような気がします。
そのような景品以外は「はずれ」です。
また「スカ」と表示がありました。
あぶり出しにように舐めると「スカ」と浮かび出るものもありました。
語源はなんいでしょうか
どれが当たるか分らず、がっかりしたり喜んだり
その景品を交換することもありました。
子ども達はぞろぞろと店に入り込んで品定めをし
交換をしながらときを過ごしましたが
多くの駄菓子屋では、お好み焼き
おでんなども商っていました。
そこが子ども達のたまり場だったのです。
でも、当たり前の子達は楽しめましたが
そのような小遣いさえもらえなかった子は
店の前で友達がもどるのを待っていたのです。


横殴りの寒風むきになって逆らいながら歩く

2008-02-24 14:44:42 | 日記

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こもれびは囁くように
私の額の上を泳いでいます

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寒風吹く中
横浜女子駅伝大会
強風の中を女性選手が煽られながら走っていました。
出かけるつもりが寒いし
電車が遅れたこともあり
Uターンしてテレビ観戦しました
マラソンは走る人を応援しますが
応援する人と一体となる楽しみもあります。
それができる人は楽しみが倍増し
冷ややかに傍観する人は単なるニュースに過ぎない
最近、その差異が見えてきました。
楽しいとはその真ん中に位置することなのですね
結果はどうかもありますが
今日も胸がわくわくした
そんな満足が残ります。


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駅(昭和という時代)

戦争後の駅には今とは違った特別の意味もありました
復員してくる兵隊さんが駅に降りてくる場所だったのです。
ぼろぼろの服装でゲートルを巻いた足
何もかも疲れているのに喜びに満ちている。
なぜか、そんな風景を覚えています。
駅には、行商を始めた大きな籠を担いだおばさんたちに混じって
親戚の人が出迎えていました。
もんぺ姿で下駄履き
カーキ色に襟のついた服を着たおじさん
学生服に半ズボンの小学生などが迎えにきていました。
そこでどのような喜びのシーンがあったのか記憶にありません。
駅には改札口と出札口があるのは大きな駅でした。
駅の看板にはまだ昔のままでした。
木製の檻の様な箱に駅員が入り、挟のようなもので
切符に切り口を入れるのです。
カチカチと音を立てて軽快にリズムをとる姿は
小学生にとっては運転手と共に憧れでした。
私の記憶では、昭和30年ごろには復員の人もおらず
蒸気機関車と電車が入り混じったように覚えています。
あの蒸気電車での別れ、ホームで見送るのが歌謡曲の別れの風景でした
そういえば、沼津から東京に向かうとき
丹名トンネルという当時日本一長いトンネルがありました。
事情を知っている人はトンネルに入る前に窓を閉めたものです。
確か函南という駅を通過するとすぐに入りました。
蒸気機関車の煤が窓から入ってくるとたまったものではありません。
顔中真っ黒になってしまうのです。
それが遠足などで記者になるときの話題でした。
そういえば、私たちの年代の人間は「電車」ではなく「汽車」なのです。
国鉄一家といわれるように、東京電力、国鉄勤務者は、警察官と同じ程度に
憧れの仕事だったのですね。
親子三代の国鉄一家という人がけっこういましたね。

名刺と預金通帳は天国の入場券として使えない

2008-02-23 16:44:05 | 日記
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向こうとこちらを近づけるのが橋、当たり前でも違う

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陰口や悪口は控えても
怪しい情報にはけっこう群れたいのです
芸能ニュースと同じで、早くていかがわしいのよろしいようで
他では知ることができない「実は・・・」が商品価値があるようで・・・
なぜでしょう。
情報通はその怪しげな情報を商品のように扱います。
やり手といわれる人は、この武器を必ず使います。
その人は一生そのようなやり方で人を引き付けるのですね。
どっちもどっちの世界だけれど
お疲れ様

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「焼き芋屋」(昭和という時代)

昭和間もない頃、私の家の向かえは八百屋でした。
リヤカーに野菜を積んでお得意さんに売り歩くのです。
リヤカーいっぱいに荷物を積んで運ぶの相当に重労働でした。
無精ひげのおじさんはちびたタバコを咥えながら
肩からも帯をつけて黙々と引いていました。
商売はあまり上手ではありませんでした。
そこで、焼き芋の販売を始めました。
ドラム缶より大きめな窯を作り
その上に平たいフライパンを大きくしたような鉄板をのせました。
その上にサツマイモを平たく板状に切り
鉄板に隙間なく並べるのです。
そして窯に焚き木を突っ込み火をたくのです。
そのようにして芋を焼き上げるのです。
冬になると、その窯のところで暖をとったものです。
そして、遊び友達とたむろしていると
おじさんに叱られたものです。
ほどよく焼けるとおじさんはねじり鉢巻で大きな木製の蓋をとり
箸で芋を突いてやけ加減を確かめるのです。
焼きあがるとあら塩を上から降りかけるのです。
それなりにコツがあったようです。
あのときの薪を扱う薄汚れた手は
今の時代には馴染まないでしょう。
それで終わりだった思います。
ごま塩をかけていたかおぼえていません。
客は新聞紙でできた袋に入れてもらい
家に帰るのです。
当時、大きな壷状の窯に芋を丸ごと吊るして焼くのと
砂利をつめた窯に芋を丸ごと突っ込み焼くスタイルがありましたが
その焼き芋屋では芋を切っていました。
当時、それほど高価ではなく、庶民の食べ物で
上品な家庭では避けていた食べ物でした。
貧しい私の家族はそんなに頻繁に食べられなかったように記憶しています。
確か、芋を入れる袋を新聞紙で作って渡すと
お駄賃と称して、焼き芋をいただいた記憶があります。

大の字になって畳みの冬を知る  あきオジ

2008-02-22 13:42:41 | 日記
寒い日ですね。

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昭和の時代
といっても戦後の話
どこの家も貧しかった。
主が戦死した家も多かった
玄関先にそのような趣旨の張り紙があったような記憶がある
それぞれの家に説明できない事情があった
貧しいことは恥ずかしいことではなかった
でも「お互いさま」がそれぞれを支えていた
その貧しさを口にすることはなかった
貧しさと食べるものがないのとは別のものだった
日々の話題は食べるものがないこと
その食べるものを工面することだった。
米びつから五合枡で米を取り出すとき
「後、どれくらい残っている」
と家族が妙に意識していたのです。
ラジオで栃錦や吉葉山の相撲を聞いたり
ラジオ歌謡を聴きながら丸い卓袱台を囲んで夕食
いわし、秋刀魚は安かった
台所の外で焼いたのを覚えている。
鰺のヒラキは庶民の当たり前の食べ物だった。
豆の形が残った味噌汁
それはときとして田舎の親戚が送ってきたものだったりする
あるとき、漬物が贅沢だったりもした。
行商のおじさんがもってくる経木に包まれた納豆
昆布の佃煮
毒々しいピンクのデンブ
そして、黄色の塗り箸を思い出す。
真鍮の薬缶から湯をかけて
お茶漬けを食べた
そんな日々はみんな一緒だった
だから思い出も一緒になっている。
兄弟が集まるとき、必ずその話が出てくる
ほろ苦いけれど、それもそれでよかったという話になる
昔があるから現在を満足できる
でも現在の満足は当時の豊かさが抜けている。
そんな気がする

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最近「大の字になって寝る」という表現が消えてきたような気がします。

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山のしずけさは白い花(山頭火)

2008-02-21 13:53:48 | 日記

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熱烈なファンもいるけど悪臭のように嫌う人もいる。ああ山頭火

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家業を潰し
妻子に惨めな思いをさせ
善意の人の好意にとことん甘え
無心し
ときには、俳句で食べていた
そんなことでその人柄を嫌う人も多い
また、俳句も奇をてらったスタイルに眉をひそめる人もいる
そうだろうな
伝統教養になってしまった俳句には活力はないし
お茶、お花と同じような伝統芸能に収まっている。
でも、彼は俳句の世界の最後の光として残るだろう。
そんな気がします。

「あるようでないもの」と聞かれれば、それは、自信

2008-02-21 07:34:41 | 日記

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海のきらきらと
地底の泥泥が一緒なんて面白い
表の顔があれば裏の顔がある
見せたい顔と見せたくない顔
だからにこにこしていたい

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今日も早々に
やることやったし
テレビを・・・と思ったけれど
お笑い芸人のおばかさんを売りにしている番組しかない
それなりに好きなのだけれど・・・・
でも、結局は優先順位の低い東アジアサッカー選手権を見た
サッカーの試合をテレビで見たことがない。
だから、今日に限ってみるのが
何か変な感じ
それと、今日のサッカーの試合の様相は
スポーツというより
戦っている。
そんな感じ
緊張した選手の表情
負けたら、お前の子どもを殺すぞといわれる。
そんなこわばった悲壮感まである。
それもいいけど
そのぎとぎと感は好きでない。
みんなでトイレに走り出したいのを我慢している感じ
中国の応援団は国の威信を賭けて戦っている
そんな力むような話ではないような気がするが・・・・
みんなそう思い込んでいる様子
御苦労様
きっと、中国ではサッカー選手は勝ったら「英雄」なのだろう
その夢中さの後ろには何がある。
選手は、その落差をどのように考えているのだろうか
それともそのような思考回路は途絶えているのかも・・・
とても不思議
テレビを見なければそんなこと気づかないでいられた
見てしまったことをちょっと後悔している
テレビを見ていれば大きな出来事
見ていなければ
「それなに?」でおしまいになる。
今日は後半の戦いの途中でチャンネルを変えた。
見なければ気にならないし、中国人気質をあれこれいわないですむ
明日は、このサッカーの試合をこまごまと書いた記事は
きっと読まないだろう。
それと、そのような私の思いは記事のどこを探してもないだろう。