神代植物園
夏の始まりという準備段階の季節ですね。
これからは雨が増え、紫陽花が輝く日々になりそうですね。
雨傘の明るい色合いと
紫陽花の淡い色合いの組み合わせ
そして、大きな木々の深い緑が愉しみですね。
一つで自己主張する花もあれば
組み合わせでそれぞれが生きる花がある。
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裸身(はだかみ)に神うつりませ夏神楽 蕪村
夏に河原に神棚を準備し神を祭り、みそぎをすることだという解説を読みました。
今に伝わる伝統行事ですね。
伝統行事が失われると心配しますが
新しい行事も同時に生まれているのですね。
人も同じですね。
この句も自分が参加できない作者が愉しみであり、ちょっとだけ
口惜しい、そんな気分も乗せていますね。
俳句は写生だという説もあります。
そうなると自分が景色の中にいないことも多いですね。
それが刺激が欲しい自分には表現がモノ足りなのです。
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今日の新古今和歌集
ことしより花咲きそむる橘の いかで昔の香にほふらん 藤原定家
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夜のひとりごと
どうでもいいけど
神代植物園でおばさんたちが話しをしているのを聞いていて気づいたのですが
「うちのバラも、もう咲いたわよ」
「この花、家にもあるわ」
「この花、家にも植えようかしら」
自分がもっていることへの関心
所有を中心にした話題が多いですね。
こどもが近所の家を説明するとき
大きな家、犬がいるというようなのと
延長軸にあるのですね。
なるほどというか、ちょっと違う。
和歌の世界で自分の家に咲いているとか
いないとか、そんなことをほとんど話題にしていない。
美意識の違いと感性の成熟度なのかもしれません。
もう一つ
女性はバラをバックにして写真を撮りたがる。
必ず半身にしている。
バラをバックにした写真を撮りたがるのは
自分を引き立たせるため
それとも記念だから
アリバイ証明
なのに一人でバックなしで写真を撮ることを極度に嫌いますね。
どうしてでしょうか?
社会学者は研究すべき命題ですね。