あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

櫻に浮かれて右左

2008-03-30 16:27:05 | 日記

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昭和記念公園で桜が咲けば、いそいそ出かけ
神代植物園でチューリップが咲けば写真を撮りでかけ
多摩森林科学園で山桜が咲きひじめれば
手帳に丸印をつけて忘れないようにと思います。

まるで、これまで忘れ物をしてきたものを
懸命に拾い集めているような執念です。
花は私を待ってくれないのです。

でも、どれもこれも忘れてきたものは
その当時はいらなかったのですね。
今でなければ感じないことを今、感じているのです。
だから、今は一番の季節でです
今が丁度いいのですね。

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自分の命はどうなるのでしょうか

2008-03-30 05:36:53 | 日記

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今の時代、謙虚さが求められますが
いつの間にか、マニュアル化した
人工的な商売の技術として進化してしまいました。

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ある知人が亡くなりました。
長い闘病生活の末のことでした。

葬儀は密葬だったそうです。
闘病生活中、本人もご家族も、やつれ果てた姿を晒したくない
そのように言い続けたそうです。

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心のことで
解決できない問題はない
自分で解決できないから
鏡となる人の存在が必要となる

「こころの時代」で語られていた言葉

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「自分の命」

この世だけのもので、この世で消える
ずっと霊魂として生きていく
子どもに受け継がれていく
大きな命に溶け込んでいく

私の願いは、大きな命に包まれ、溶け込んでいくこと

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散る桜残る櫻も散る桜

2008-03-29 18:05:29 | 日記

新宿御苑の源平桃(一本の木に赤と白い花が咲いている)

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新宿御苑の櫻を見ようとする人が
新宿駅から行列していた。

明るい日差しの中
子連れ、恋人同士
夫婦、職場の仲間

みんな明るい表情をしている
会話の声も高い。

カメラを担いでいる人は
期待の表情で笑顔でプランを語り合っている

夫婦連れはデイバックを担ぎ
携帯カメラの操作を確かめ合っている。

親子は、待つ時間を苦にもせず
父親と、あるいは母親とのおしゃべりに興じている

櫻は姿が潔く
花弁は甘美な形を揺れしている
夢見るような色あいは
幼児の頬に似ている

総てを浄化し
封じてしまう。
それが櫻の魔力なのかもしれない。

そんなことを語り合っていたら
ある人が
「やはり、櫻は散るのが美しい」と声を強くして言った。
周囲の人は納得したように櫻の木に目をやった。

「駅」を観て泣きました

2008-03-27 18:10:58 | 日記
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「駅」を観て泣きました。
不器用な男がいて
過去をもつ女がいて
吹き溜まりのような場所で
行きどころのない冬を迎えている。

「駅」を観て泣きました
男には別れなければならない理由があり
女には許されてよいと思い込み
いつかその微妙さは駅でのさよならになり
待つ人のない大晦日を迎える

「駅」を観て泣きました。
男には仕事と離れられない宿縁が生まれ
女には男を捨てられないほどに孤独になり
二人は語らない過去の重さに耐えられず
初詣の朝を迎える。

「駅」を観て泣きました
男には栄光の日々が忘れられない母があり
女には離れられない腐れ縁の男がいる
ぶつぶつ切れてしまいそうな思いを結び付けようとしている
その場所でしか生きられない小さな人生があり
消えかかりそうな精一杯の糸が頼りない

その日はきのうと同じように見えるだけ
二人は、誰にも気づかれずにいる
それぞれに埋もれた記憶がある
淋しい港から続く海の色は深い
二人の姿は雪に埋もれていく


傘さして歩きたい

2008-03-27 16:34:34 | 日記
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傘さして
雨降る国道を歩いていたら
車の人が軽蔑を含んだ笑いをのせて
自分を一瞥して去っていった

雨の中を歩く人を気の毒がったり
金がない奴と同情するのはその人の勝手
でも、自分は傘さして歩きたい
歩いていることに感想など持たないで欲しい。
自分はただただ、傘さして歩きたいのです。

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理解とは理解不能な不思議の見つけることです

2008-03-26 16:01:54 | 日記

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カタクリが咲きました。
儚げな立ち姿と
うつむき加減がいいのですね。


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「理解できます」とは言わない。
決して言わない。
「分る気がします」
その程度で終わってしまう。

「理解できます」と言われて気が済むなら言ってもいいだろう。
でも保証のない約束のようなものだ。
ちょっと頼りない

理解するというなら
自分の偏狭さから
理解不能なことを否定してしまう
そんな貧しさから抜け出してからの話にしよう。

理解不能なことがいっぱいあることを知ること
その謙虚さが理解なのだ。
理解と分るとは違うのだ。

不気味な動物を飼うことを夫を
「馬鹿じゃないの」と叫ぶ妻
少女雑誌に夢中の男を
「変態じゃないの」と蔑む女
そのどれもが理解不能なことを否定し
軽蔑のゴミ箱に押し込む
それを正義のように扱う愚かさも瀰漫している。

理解不能だけれど、「夢中になる何かがある」のですね。
否定ではなく、「分らないけれど存在しいる。」
そんな受け入れが必要なのですね。
理解するとは切り捨てるのではなく
理解不能な存在があることを受け入れることなのだ。

理解しようとするのではなく
理解不能なことが一つ増えたと思えばいい。

自分の想像したり、受け入れることができないことがいっぱいある
私には分らないけれど、分からない状態から動かさない。
分らないことなど、無理して知ろうとすればするほどど
泥沼にはまる。未知の領域が増えてくる。
理解するとは、そんなことなのですね。

こと人のことについて
「理解しようとも思わないし」
「理解できた」などと決して言わない。

理解できなくても否定しないし
攻撃しない。
無理して理解しようとしない。


ねがわくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃

2008-03-25 06:55:46 | 日記
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春は福寿草、梅、カタクリ、シュンランなどで始まるなと思います。
桃、チューリップそしてさくらで本格的な春を感じます。
きっと、人工的なものに疲れる人は
きっと、そうだと思います。
春のもつ開放感、それもやけになっていない
緊張感もある。
入学式、フレッシュマンの輝きも新鮮だ!

若い頃はさくらを見ても、「そこにある」程度のことで
「きれいだ」と思うのも一瞬のことで
「さくらが咲いたね」と言われても
「あっそう」
それでおしまい。
花をめでる感性がひ弱に見えるのだろうか
妙に素っ気なくしていた。

「今年も見ることができたな・・・・・」
「後、何回見ることができるのだろうか?」
「あの人も見ているのだろうか?」

そんな人生の襞のあれこれを重ねてみることはありませんでした。
ところが、最近は・・・・・・

「このさくらは、自分がこの世から去っても残っているのだろうな」
「このシュンランを見る人は毎年、少しずつ変わっているだろうな」

そんな「しみじみ」が深くなりました。
自分の人生の折々のこころの機微を重ねることも大きくなりました。
そうしないと落ち着かないのですね。
その辺りのこと分りますよね。

ですから、西行の和歌などが一層身近になりました。

今週はちょっと余裕がありますから
あちこち櫻を求めて、出かけることにします。

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年寄りのわがまま

人と仲良くしたいのに
年をとっても仲たがいしたり
愚痴を言ったり、
非難したり
ときには詰るような言葉を吐いたりすることがあるのですね。

年をとると怖いもの知らず
わがまま
自分のわがままは許されると思う
そして相手が譲歩してくれると思う

人に配慮し
行動に気を使い
自分を押えて穏便に過ごそうとするのは
すごく疲れることだし
エネルギーを消耗する。
それにストレスになる。

どっちがいいとか悪いかの問題ではないけれど
年をとると人が丸くなるというのは嘘のような気がします。

もちろん、人によりけりだと注釈をつけなければいけませんがね。


柱の傷は成長の記録

2008-03-24 19:59:25 | 日記
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なぜ、文章を書くか
それは、その日、その場所で感じたことを
刻み込み、その刻みから自分の歩いた道を確かめるためです。

何もないと、あのときどのようなことを意識していたのか、
分らないでしょう。

自分が、どうだったのか覚えていないって寂しいのです。

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「一円玉のはなし」

家の裏にあるスーパーの店員さんといつしか仲良しになりました。
駅の改札口とは違って
ラッピングしたり地方発想する場所がありますが
その場所で勤務しているのは主任クラスの人なのでしょう。
そこでは、小口の買い物を扱います。
私は当然、小口の買い物しかしませんから
その場所を利用します。
そんなことで係りの人との顔を合わせることになります。
そんなことで会話するようになりました。
と言っても、買い物に行くと
「毎度」
「どうも」という会話でおしまいですが
何となく、気になるらしく
「今日は遅いですね」
「TSUTAYAに寄りましたね」
とときどき言葉を添えるようになり
「今日はお出かけの帰りですか」
「このケーキ、うちの娘も好きですよ」
というような個人的な会話が増えてきます。
その一人はおじさんですが
私がポイントカードを出さないと
じっと待っています。
私がカードケースから出すのを面倒がるので
「出していただけますか」と催促します。
細かい金があるのに財布から出さないと
「ちゃんとあるのみましたよ」と言います。
慇懃にして堂々と言います。
今日は、「小銭ありませんか4円なのですけれど・・・・」
と言われて、小銭入れを探したら3円しかありません。
「残念、3円しかないなあ」と言うと
おじさん自分のポケットから1円を出そうと探しています。
慌てて私もジャケットのポケットを探しました。
「あった。ありましたよ」と言って1円を渡しました。
おじさん「いつもあれこれお世話になっていますから、せめて1円だけでも・・」
と言いました。

1円以上のものを感じました。

私は人付き合いは、どちらかというと苦手です。
でも、私のようなものに心を寄せてくださる人がいるのだけでも
ありがたいことです。