あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

野の花もいいですね

2009-06-30 19:45:12 | 日記

神代植物園に咲く花

最近、管理された花もいいけど野の花も楽しみたい。
そんな思いが出てきました。
当分は、今のまま写真を撮りますが
そのうち恵まれた場所に咲く花にちょっと退屈するかもしれません。
人の気持ちは分からないものです。
でもそうはいっても

人はどんなことにも退屈する。

以前、「たこは退屈すると自分の足を食う」というような言葉に出会ったことがあります。消防署員の放火。この理不尽な関係はきっと理由があるのですね。

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今日の万葉集

春日野に 咲きたる萩は いまだふふめり 言な絶えそね

春日野に咲いている萩は、片一方の枝はまだ蕾のままでいます。言どいを絶やさないでください。まだ嫁がぬ妹娘をもつ親が男に贈った歌。

ちょっと分かりにくい解説ですが、娘の結婚のことを気にしている風で、どうぞ、まだ結婚していないでいる娘がいることを忘れないでくださいというような内容だと思います。たぶん、違ったらごめんなさい。
親とは娘のことに関しては普遍的な存在だということなのでしょう。

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今週の山頭火

曼殊沙華咲いてここがわたしの寝るところ

昭和7年九月二十日、其中庵に移る。わたしは、故郷のほとりに、庵をみつけて、そこに住むことができた。
行乞流転、はかない歩みを重ねてきた。ひとりでさびしかった。あてもなく歩き、はてもなくさまよって来たが、ひとりではなかったのだ。欲しかった寝床にめぐまれた。
一面の曼殊沙華の咲くところ、ここがきょうからのわたしの寝床である。終の臥所になるかもしれない。いかにもわたしにふさわしい場所だ。
(昭和7年 山頭火の日記)

このように日記と並べると俳句が見えてくる。
生き生きとした表情が見えるのが嬉しい。

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夕べの風

呼吸と同じ
表現するだけでも退屈
ためるだけでも退屈
ほどほどがいい。

それが今の自分のほどほど。
(ちょっとかっこよすぎるけれどね)

みどころもあれや野わきの後の菊  芭蕉

2009-06-30 06:27:44 | 日記

深大寺の山門

深大寺を訪ねるのは観光目的
蕎麦を食べに来る
植物園のついで
私のような写真を撮る。
そればかりではないでしょう。
お墓参り
法要
さまざまな思いで来ているのですね。
人の心の中は見えないまま
バスに乗り込んでいきます。

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今日の芭蕉

みどころもあれや野わきの後の菊  芭蕉

吹き荒れた野分の後、さすがに菊は吹き倒されて荒れた中にも、風情があるものだの意。

なるほどと思いますね。
できあがった景色では同じ。
絵葉書を見るようなもの。
そのときどきの気分を楽しみ
風景を心に刻む。
そうでなくちゃ
どんなことも面白くはない。

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風を感じる

言葉では伝わらないことがいっぱいあっても
風なら感じる。

だから、歩いていたい。

今日も一日過ぎました。無病息災。感謝です。

2009-06-29 18:45:12 | 日記

神代植物園の紫陽花です。

紫陽花もいいですね。
最近はがく紫陽花の新種も出ていろいろになりましたね。
いろいろあるのはいいことですね。
「選べる」いかにも現代人という感じですね。

ガーディニング。自然に模した人工的花壇ですよね。
それって何だろうね。
自然観察できるような雰囲気の動物園
同じだね。

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今日の万葉集

出でて行きし 日を数えつつ 今日今日(けふけふ)と 我を待たすらむ 父母らはも  一には「母が悲しさ」といふ

旅立った日を指折り数えながら、今日こそは今日こそはと私の帰りを待っておられるであろう父上母上は、ああ。(母上のいたわしさよ)

ちょっと過剰な解説のような気もしますが、このスタイルがこの本の解説者の死タイルなのですね。
でも、これくらいでないと理解できないこともありますからありがたいことです。

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夕べの風

「赤毛のアン」の結婚編

いかにもカナダ映画という感じでした。
でも、美しい故郷も大人になると
単に懐かしいままではおさまりません。
自分を引き取ってくれた夫婦は死んでしまい
住んでいた家は荒廃しています。
結婚したものの夫は医者
欧州での戦争に向かいます。
消息が分からない夫を探して単身フランスに向かうアン
あれこれあって夫と再会
故国に戻り
戦災孤児の少年と新しい生活を始める。
そんな内容です。
力強く前に向かう
それがアンであり
小説の魅力です。
頑張りすぎの映画ですがめでたしめでたしが見えるので
安心して見ました。
「若草物語」「赤毛のアン」は古典的ですが
頑張る女性を主人公にした夢物語ですね。

海士の顔先(まず)見らるるやけしの花  芭蕉

2009-06-29 05:50:39 | 日記
昭和記念公園の百合

百合は谷間の一輪がいい
「野の百合」
そんな映画がありました。
懐かしい。
何も起こらなくてもいい。
ちょっとだけ温まる。
そんな映画に戻りたい。

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今日の芭蕉

海士の顔先(まず)見らるるやけしの花  芭蕉

けしの花が咲く海辺の朝、早起きの漁夫の顔が先ずちらほらと見えそめる。

解説を読むと、どこか漁師まちの風景が目に浮かびます。「田舎に泊まろう」という無理やり番組がはやっていますが、突然に出会った景色は新鮮ですね。
芭蕉はいろいろな局面を示しますが、方向としては高踏的場所を目指しているのですね。
でもそれは、一人旅ですね。

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朝の風

朝の電車には年寄りはほとんでいません。
満員電車の混雑に耐えられる体力がないからです。
昼の時間帯に移動するのです。
ゆったりと、座席に座って・・・・
それが年寄りの流儀です。
人生はゆったりと居眠りをしながら
淡々と・・・・
けっこう贅沢なのです。

若いときは、時間は給料の一部なのですね。
ご苦労様です。

今日も午後から雨。池波正太郎で一日を過ごしました。

2009-06-28 16:34:09 | 日記

神代植物園の桔梗

茂みに咲く
桔梗は鉢植えとは違った強さがあります。
でも、桔梗はしっかりした活け方をしてあげないと
自分勝手な動きをする花のような気がします。
そんなこと感じませんか?

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今日の万葉集

今朝の朝明 雁が音寒く 聞きしなへ 野辺の浅茅ぞ 色づきにける

今朝の明け方、雁の声を寒々と聞いた時、ふと見れば野辺の浅茅もすっかり色づいていた。

このような解説がありました。万葉集に多い、気付かないうちに季節が変わってしまった。という歌ですね。いつのまにか、気付かぬ間にというのは、日常の些事に振りまわされているうちにという意味もあるでしょうし、感慨に浸っているうちにという意味もあるでしょう。二人で過ごした夜が明けという意味を背景にしたら深読みでしょうか。
それにしても明け方の景色や
思いは現代人が失ってしまったような気がしますね。
特に、河原や山里の朝

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今週の山頭火

うつむいて石ころばかり  

もう何年歩き続けただろうか。
何年も
さらに何年も歩きつづけてきた。
安住の地を求めて歩き続けてきた。
でも、心やすらぐところは、どこにもありはしない。
地面を見つめて歩く。
うつむいて歩く。
そこには石ころがある。ごろごろ、ごろごろ
何と多くの石がころがっているのだろう。
考えてみると
わたしもこの石ころのようなものだ。
何の役にも立たない。
クズのような石ころそれでもこうして存在しているのだ。
(昭和7年の日記)

ちょっとした青年のような日記文ですね。
でも、ちょっとだけ山頭火について知りたいですね。
ぼちぼちと。
それがいい。
山頭火の孤独は複雑多様ですが
根っこにあるのは私たちに共有したもののように思えるのです。

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夕べの風

夕方になると
妙に「わすれたこと」が気になります。
たぶん、大部分は明日で間に合うことなのでしょうが
段取りのいい過ごし方をした日に限って
そんな「気の利いた」ことを気にするのです。
心配したり、気にしないと
落ち着かない。
現代人の不安定な兆候ですね。

さざ波や風の香りの相拍子   芭蕉

2009-06-28 04:37:06 | 日記
神代植物園

花は歩きながら発見し
近づき
あちこちと花の周辺を周り
花が花らしく見える場所を見つける
カメラをもっていると
できあがりの写真を想定してみてしまう。
それがいいことかどうか・・・・・

花は見る人の心の持ち方でしか見えない。
だから、同じものを見ていても
同じではない。
ある人はきれいな花の前を素通りする。
「あの花は・・・」と声をかけても
「何?」と言って
全く気付かない人もいる。

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今日の芭蕉

さざ波や風の香りの相拍子   芭蕉

湖岸にひたひたと打ちよせるさざ波の音は、あたかも涼しく薫風に相拍子をうっているようである。能役者である主人に対する挨拶。

古典的教養と弟子に対する挨拶などを絡めた作品は
関係者や傍にいるもの、あるいか日記等で確認する人でなければ理解できない。
芭蕉の句の大部分はそのような特徴を持っていますね。
そのような探す楽しみ
裏を読む楽しみかもしれませんが
今の私にはめんどくさいが先にです。

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朝の風

見えないのにそれと感じる
朝の野原を吹き抜ける風のような・・・・

それがいい。

見えるって恥ずかしいことなのです。

ひとりものもいいものだ。楽しみもいろいろあるからね。

2009-06-27 18:03:59 | 日記

神代植物園

百合ですが、正式名称を覚えるのを忘れました。
でも、百合だとわかればそれでいい。
今日、百合は競争する相手の少ない花だなと思いました。
それだけに美しいというより、
野に咲く百合は、ちょっと生意気な雰囲気がありますね。
それは私だけの感想ですけれど。

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今日の万葉集

大伴坂上郎女

あしびきの 山にしをれば 風流(みやび)なみ 我がするわざをとがめたまふな

何しろ山住みの身の無粋者でございますから、都のみやびにうといままに私がいたしますこの振る舞いを、失礼だと御咎めくださいますね。

こんな解説がありました。恋の駆け引きですね。このようなやり取りはいいですね。万葉集の面白いところですね。私も万葉集の時代に生きていたら、しかも和歌になじんでいたとしたら、このような和歌を作るのだろうか。一人で想像して「無理だろうな」と思いながら、一人で照れていました。

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夕べの風

知人で私より若い人が亡くなっています。
最近も知人が亡くなった人のことを知りました。
職場の知り合いだったということもあり
その関係での付き合いしかありませんでした。
それにしても、残された奥さんとか子どもたちは
どうしているのでしょうか。
顔も知らないなら
痛みも少なくてすみますが
言葉を交わしたり
行事などで一緒だったすれば
気になりますね。
でも、大部分の人とは交流がないのです。
知らなければ気にならない。
知らない方がいいのでしょうね。

まあ、お互い様
順番ですね。
自分の番が必ず来るのです。
年をとると
そんな話ばかりです。

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水の奥氷室尋ねる柳哉  芭蕉

2009-06-27 06:00:12 | 日記

昭和記念公園の池

鵜が止まっていました。
どこからやってきたのでしょうか。
孤高という雰囲気
気位高そうな姿にちょっとおされぎみ

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水の奥氷室尋ねる柳哉  芭蕉

清水が流れている。その水源らしきところに
氷室があるらしい。
その目印に柳が植えてある。
そんな風景なのですね。
でも、どうもそれだけで詩情が感じられないのです。
そんな句もありますね。

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朝の風

振り返っても何もない。
前に顔を向けて
楽しい思い出をこれから作っていくのです。
最近、そんなことを思うのです。
年をとってからの思い出の方が
自分自身の思いに集中できて楽しいですね。

夜明けなりぽんと音立て桔梗咲き

2009-06-26 20:31:50 | 日記
昭和記念公園の桔梗

桔梗も石竹も今の時代にあっては地味な花
でも、万葉の時代には季節を代表する花なのですね。
時代と共に愛される花には変遷があるのですね。

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今日の万葉集

我がやどの なでしこの花 盛りなり 手折りて一目 見せむ子もがも 大伴家持

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夕べの風

沖縄
最近ブログを見て
行きたいなあ
そう思う。
でも遠い。
人がいっぱい
そう思うと
何もかもがとまってしまう。

でも季節外れに・・・
そんなことを考えています。

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「御宿かわせみ」を読みながら居眠り
八王子駅で隣の乗客の気配で目が覚めました。
こんなこと以前にはなかったなあ。
まあ、いいか!
年をとったらいろいろなことがある。
帰りに腰痛用の湿布を買って帰ろう。





野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉

2009-06-26 06:51:46 | 日記
昭和記念公園の百合

昔、シドニー・ポアチエ主演の「野のユリ」という映画がありました。
ノーテンキの修道女たちに頼りにされて
その気になって教会を作り上げる。
そんな内容だったような気がします。
主人公は旅の途中の青年
なんとなく立ち寄り
そして、去っていく
爽やかな映画でしたね。
百合を見るたびに思い出します。

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今日の芭蕉

野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉

行き倒れて髑髏になってもと覚悟をきめて旅に出かけると、ひとしお秋風が身にしみることだの意。
「野ざらし」とは捨てられた雨風にさらされた髑髏とのことです。
何か心が痛い。身体的な風を感じる句ですね。
人生の警句として大切にしています。

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朝の風

帽子脱ぎ一人で歩く猛暑かな  あきオジ