神代植物園に咲く花
最近、管理された花もいいけど野の花も楽しみたい。
そんな思いが出てきました。
当分は、今のまま写真を撮りますが
そのうち恵まれた場所に咲く花にちょっと退屈するかもしれません。
人の気持ちは分からないものです。
でもそうはいっても
人はどんなことにも退屈する。
以前、「たこは退屈すると自分の足を食う」というような言葉に出会ったことがあります。消防署員の放火。この理不尽な関係はきっと理由があるのですね。
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今日の万葉集
春日野に 咲きたる萩は いまだふふめり 言な絶えそね
春日野に咲いている萩は、片一方の枝はまだ蕾のままでいます。言どいを絶やさないでください。まだ嫁がぬ妹娘をもつ親が男に贈った歌。
ちょっと分かりにくい解説ですが、娘の結婚のことを気にしている風で、どうぞ、まだ結婚していないでいる娘がいることを忘れないでくださいというような内容だと思います。たぶん、違ったらごめんなさい。
親とは娘のことに関しては普遍的な存在だということなのでしょう。
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今週の山頭火
曼殊沙華咲いてここがわたしの寝るところ
昭和7年九月二十日、其中庵に移る。わたしは、故郷のほとりに、庵をみつけて、そこに住むことができた。
行乞流転、はかない歩みを重ねてきた。ひとりでさびしかった。あてもなく歩き、はてもなくさまよって来たが、ひとりではなかったのだ。欲しかった寝床にめぐまれた。
一面の曼殊沙華の咲くところ、ここがきょうからのわたしの寝床である。終の臥所になるかもしれない。いかにもわたしにふさわしい場所だ。
(昭和7年 山頭火の日記)
このように日記と並べると俳句が見えてくる。
生き生きとした表情が見えるのが嬉しい。
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夕べの風
呼吸と同じ
表現するだけでも退屈
ためるだけでも退屈
ほどほどがいい。
それが今の自分のほどほど。
(ちょっとかっこよすぎるけれどね)