「知を愉しむ」朝5時NHKの番組ですが
毎日、ブログ更新をしながら見ています。
その中に「オペラ偏愛主義」があります。
島田雅彦が担当しています。
オペラ、ミュージカル嫌いな私として
「どのようなところが好きなのか」か気になります。
オペラ好きな知人がおります。
まさに偏愛です。
仙台に住んでいるその人は、オペラ鑑賞のために
預金していました。
数万円するチケットを手に入れ
ホテルに宿泊しますから
往復旅費を加えると相当の出費ですが
注目すべきオペラ公演があると出かけます。
そんな魔力があるのですね。
島田雅彦の解説は偏愛と命名しているタイトルのように
その物語の多様性、社会性を指摘し
その美しさを賛美します。
どうも、よく分かりません。
彼には期待するような話の面白さがありませんね。
「オペラ偏愛」する人の独特の物語解釈があり
演奏や出演者の演技等を評論し続ける愉しみがあるようです。
私にはどうもなじめません。
なぜ「なじめないか」を知るために番組を見ているのですが
だめですね。
ちょっと、別のブログに利用した画像をアップしました。
いかにも、それらしい。そんな写真です。
雨の日は新古今和歌集を開きます。
雨のリズムはなぜか新古今和歌集なのです。
そんな人、きっと、どこかにいる。
ひょっとして石川啄木かもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・
星野富弘さんの新刊が出てました。
奥様が撮った写真とこれまでの詩が組み合わされていました。
人生の後半戦という境地への切り替えの時期なのですね。
一気に化ける。
そんな足踏みを感じました。
片倉城址でであった三人
どうみてもじいさん、じいさんの娘あるいは嫁、そして、その子
水車のところで
「危ないよ」
「そこでじっとしていて」
などとあれこれ孫に言ってました。
楽しそうにしていました。
私はその孫と手を振って別れました。
そして、細い路地の風景写真を撮って
別の道から戻ってきました。
そうしたら、じいちゃんの様子がおかしい
泥紛れのタオルで腕を拭いている。
ズボンの半分が泥紛れ
花菖蒲が棚田のように育てられています。
その棚田のような畦は不安定になっています。
きっと、滑って、転んで、花菖蒲の田に落ちたのです。
気の毒のような、微笑ましいような・・・・・
娘の反応が
「だから言ったでしょ」
とか「うーんもう」
というような親しそうな反応をしていないので
「おとうさん、大丈夫ですか」
「いや、たいしたことがない」
と言葉だけのやり取りのように見えたので
ひょっとして、遠くから来た嫁ではないかと思ったのです。
孫であろう女の子は、そんなトラブル意に介していない様子でした。
じいちゃんの一人芝居
そんな感じ
「大丈夫だいじょうぶ」と言っているような風景
土曜日の朝でした。
「阿弥陀堂だより」のうめさんのように
黙々と野菜を作り
山の上から夕陽を拝み
その夕日に手を合わせ
感謝しながら眠りにつく
そんな日々を想像しています。
・・・・・・・・・・・・・・・
朝から雨です。
「濡れてしまうから」・・・から
「濡れてもいいじゃないか」・・・に
そんは転換がいつかくるような気がします。
「もう、こんな季節なのですね」
そんな実感です。
一年が早い。
残された時間は少なくなる。
だから、なんだ・・・・
人は何かを残したいのです。
そして、自分が生きていた証が自分のために欲しいのです。
そんなこと年をとると気になります。
テレビで日本の仏像を紹介した番組を見ていました。
美しい仏像が次々紹介されていて興奮状態だったのに
なぜか、途中で居眠り・・・・・・・・・・
情けないやら、
悲しいやら・・・・
でも、次のステップに上がったという感じなら
それはそれでいい。
でも、仏像にも感動しました。
仏像をう守るために協力し合う寒村の人たち。
迫害があったと石棺をつくり仏像をその中に隠し、守ったとか
遠い地で暮らしていても忘れられず
死を前に一目でも仏像に逢いたいと
やってきた人
自分はこのような物語に弱いのです。
日本人の素朴な底力をしりました。
いいですね。
やはり、テレビに映らない人たちの心根は
日本人なのです。
美しい仏像が次々紹介されていて興奮状態だったのに
なぜか、途中で居眠り・・・・・・・・・・
情けないやら、
悲しいやら・・・・
でも、次のステップに上がったという感じなら
それはそれでいい。
でも、仏像にも感動しました。
仏像をう守るために協力し合う寒村の人たち。
迫害があったと石棺をつくり仏像をその中に隠し、守ったとか
遠い地で暮らしていても忘れられず
死を前に一目でも仏像に逢いたいと
やってきた人
自分はこのような物語に弱いのです。
日本人の素朴な底力をしりました。
いいですね。
やはり、テレビに映らない人たちの心根は
日本人なのです。