あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

人もなき流れに春が入り込み  あきオジ

2012-02-29 05:27:48 | 日記
だんだん春らしくなりましたね。
水にも春を感じる。
いかにも俳句でも作ってみようかな
そんな思いこみになっていますね。

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写真うつしたきりで夕風にわかれてしまつた  放哉

はかなさは灯明の油が煮える  放哉

血汐湧き出て雑念なし  放哉

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あら不思議そんな春になりにけり  あきオジ

行く春や一人遊びをならいけり  あきオジ

招きたるわけもなけれど梅が咲き  あきオジ

群れる人それぞれの春を楽しめる  あきオジ

(神代植物公園には福寿草と梅を目指して老人が集まっています。それぞれの春なのですね。)

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桜の追いかけをしましょう。
群れるのもいいですね。
みんなと一緒
それもいいじゃありませんか。

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マンサクの咲けば返事を書き始め  あきオジ

2012-02-29 05:06:42 | 日記
神代植物公園では白梅が咲き始め
マンサクも咲き始めました。

蝋梅も咲いていました。

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梅咲きて息吹き返すここちなり  あきオジ

これからもひとり生きぬ梅だより  あきオジ

今日もまた語る人なく日が暮れて  あきオジ

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茶の花のちるばかりとらしておく  山頭火

(いかにも山頭火的な世界ですね。そんな気がします。このような表現は山頭火のものですね。)

いちりん挿の椿いちりん  山頭火

それでよろしい落葉を掃く  山頭火

(自分で独り言を言って、自分で返事している。それを俳句にしている。それが山頭火なのですね。)

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これこそ俳句という俳句なら出つくしているでしょう。
もう、時代を掬うためには俳句の形式では十分ではないのでしょうかね。

福寿草景色を照らす星のごと  あきオジ

2012-02-29 04:52:02 | 日記
神代植物園も福寿草の季節ですね。
どこからともなく人が集まってきます。
ネットで開花状況を確認しているのですね。
現代の人の動きですね。

昨日は穏やかで温かい日でした。

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福寿草車椅子での願いごと  あきオジ

白梅に群れる人ことも語り草  あきオジ

深大寺弁当食べる日がのびる  あきオジ

雪降るをネットでみているあたりまえ  あきオジ

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正月の日記どうしても五行で足りるのであつて  碧梧桐

懐炉の灰をあけざまの靴でふみ人だつた  碧梧桐

弟よ日給のおあしはお前のものであつて夜桜  碧梧桐

(このような実験的な句があつて、次のスタイルが見えて来るのですね。素人にとって俳壇の歴史などには関心が向きませんが、それなりに伝統を護ろうとする結社と確信を目指す人たちの集まりがあったのでしょうね。)

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息苦しき世間に咲きし福寿草  あきオジ

2012-02-28 05:16:55 | 日記
ランの季節が終わり
梅が咲き
そして桜
今からわくわくしています。

待ち焦がれてたまらない。
そんな感じですかね。

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小学生裸足で歩く道長し  あきオジ

おでんくう話題はいつもどれが好き  あきオジ

春いちばんふけばふいたで身をちぢめ  あきオジ

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中なかにひとりあれば月を友  蕪村

綿つみやたばこの花を見て休む  蕪村

(最近は蕪村の句を読んでも刺激されません。このようにしてこのみはぐるぐる回るのですね。最近は芭蕉に手が回りません。)

うつくしや野分の後のとうがらし 蕪村

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葬式の前になすこと思う朝  あきオジ

2012-02-28 05:01:13 | 日記
夜が明けるのが早くなりましたね。
朝4時過ぎごろに起きたすのですが、テレビでは音楽と風景だけを流す番組を放映しています。
邪魔にならずいいですね。

日本の風景もお気に入りです、
今はラフマニノフのピアノ協奏曲が流れています。

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もりもりもりあがる雲へ進む  山頭火

(俳人の歴史を知りたがり、鑑賞と称てて、食い散らかして飽きる。そんなことにならないように深読みせず、のぞき趣味にならず、表の顔だけを静かにみせていただく。そんな程度にしておきましょう。素人には素人でいることの矜持があるのです。)

風のなか米もらいに行く  山頭火

むすめと母と蓮の花をさげてくる  山頭火

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きっと、山頭火の句と放哉の句を並べてどれがどちらの句か問われたら、ほとんど分からないでしょうね。そんなことはどうでみいいことです。「あっ」という発見がうちから湧いてくる。それでいいのです。

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福寿草咲いたら咲いたでおちつかず  あきオジ

何でもない蝋梅なれど会釈する  あきオジ

挨拶もなくなる雪のすれ違い  あきオジ

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退屈もなくて昼寝の時代劇  あきオジ

2012-02-28 04:40:05 | 日記
聖橋の風景です。

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俳句はラジオ体操のようなものです。
毎日、気分を爽快にするための生活習慣です。
それ以上の意味などありません。

だいたいが俳句だとは思っていません。
むしろ、頭を活性化するための道具ですね。

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今日もまたスタイツリー立つ春うらら  あきオジ

牛のごとく確定申告するお人よし  あきオジ

葬送は無伴奏チェロ決めた朝  あきオジ

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元日を初雪降るや二三寸  放哉

両手に清水をさげてくらい途を通る  放哉

(このような「くらい」と説明する放哉にはやるせないものがあったのでしょうね。このような説明的な言葉を排除することで新しい表現を見出してゆくのですね。)

父子で住んで言葉少なく朝顔が咲いて  放哉

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繰り返し読んでいるのは、「法句経」(原始仏典)「シラ書」(旧約聖書)です。
そして遠藤周作の「深い河」です。
どうしてそうなったのか分かりませんが
そのいずれかを毎日少しずつ読んでいます。
これもお参りのようなものですね。

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山々を跋渉するも春なれば  あきオジ

2012-02-27 05:29:53 | 日記
ラン展です。
そろそろ気分を切り替えたいですね。
でも、梅もまだまだです。
一年のうちでいちばじりじりする季節ですね。

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愁ひつつ岡にのぼれば花いばら  蕪村

かたつむりつるめば肉の食い入るや  永田耕衣

(現代作家で興味をもったのは永田耕衣ですね。なかなかまとまった本が見つかりません。まあ、そのうちといことでしょうか。性を題材にした俳句もなかなか面白いですね。擬人的でなくストレートがいいですが、難しいのでしょうかね。みかけませんね。)

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あるかなしか砂糖のかおり絞め殺す  あきオジ

キムチ鍋囲む四人は遠慮がち  あきオジ

もうすこしどうにかしたい春の朝  あきオジ

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今日は仕事です。
仕事があるだけで気分が重くなります。

そんな年代に入りました。
職人はいいですね。

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匂い立つ正太郎なり江戸の春  あきオジ

2012-02-27 05:12:46 | 日記
「あきオジの風景」というブログ名を思い出せませんでした。
そんな当たり前が落ちてしまう。
それがいいことにも思えますが
周囲の人に迷惑をかけるようになりますね。

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うそをついたやうな昼の月がある  放哉

考へ事して橋渡りきる  放哉

沈黙の池に亀一つ浮き上がる  放哉

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わらいだすきっかけとなる子のえくぼ  あきオジ

微妙なる夫婦をつなぐ子のえくぼ  あきオジ

消防車走り回る春真昼  あきオジ

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俳人という人がいるかどうか分かりませんが、俳句を作る人は、季語だとか、あれこれのしきたりを大切にし、節度をもって句を作りますから、素人には句に込めた思いは理解できません。そんな溝がありますね。

個性を発揮する場にするというより、生活のメモという程度にしておきます。
それがいい。




気取っても気持ちこめても梅一輪   あきオジ

2012-02-27 05:00:53 | 日記
聖橋です。
もう春もまじかですね。
そんな気配を感じるのはいいものですね。

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さりげなく辞書を開く俳句かな  あきオジ

しとしとと雨がおし出す名残雪  あきオジ

茶柱をみつけて語る夫婦なり  あきオジ

歳時記で春を探す嘘っぽさ  あきオジ

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うつりきてお彼岸花の花ざかり  山頭火

朝焼雨ふる大根まかう  山頭火

月夜 手土産は米だつたか  山頭火

凝視する虚ろ突き刺す阿弥陀像  あきオジ

2012-02-26 06:03:58 | 日記
ラン展が終われば桜待つ
「法華経」にでも出てきそうな
人の心のうつろいですね。

まあ、いいか。

幸せになる方法
そこそこ働き
そして、その疲れでぐっすり眠ること

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NHKの早朝番組「こころの時代」に登場する坊さん
どうしてあのような金襴緞子の法衣をつけたがるのですかね。
意味が分からないというより
目ざわり

それをみてチャンネルを変えるのも
大人げない。

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福寿草そだったところがさくところ  あきオジ

獅子舞や秋田の雪はただ深し  あきオジ

寡黙なる老人猫なでる  あきオジ

ひたすらに餌をついばむ鳥がいる  あきオジ

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ひとり来て一人を訪ふや秋のくれ  蕪村

(きっと蕪村のリアルの「ひとり」と、現代人が感じる「ひとり」は文字だけ似ているだけなのでしょうね。)