御嶽の風景
隠遁生活
悠々自適
きっと、こんな風景もあるのでしょうね。
毎日、夕陽が沈む光景を意識する。
そんな人はきっと、生かされている自分を感じるのだろうな。
・・・・・・・・・・・・
「誰でもよかった」殺人事件
「あってはならないことが・・・・」と驚くのは現実を見ていないあかし。
今の時代「あって当然」の事件ですね。
ネットを見ていると
自分の意思とは関係なく
あれゆる猥褻なもの
過激なもの
お互い知らない同士の不気味な関係が溢れているのが
よく分かります。
現実を絵空事が区別つかない。
あるいは混在する人がいて当たり前ですね。
街を歩いていても
「どうしてこんなことができるの」と驚くような
横断をするおじさん
店員を罵倒するおばさん
そして、妊婦まで肌むき出しのかっこうをしている。
総てが当たり前になってしまい
区分がなくなっているのですね。
それでいいのか悪いのか
前に進むしかないのが時代です。
何か「見たくないこと」をいっぱい見てしまい
「知りたくないこと」が耳に入ってくる。
体力のない私は正面から見ることができず
どうしたらいいかなど考えられない。
ただただ、小さくなって通り過ぎるのを待っているのです。
・・・・・・・・・・・・
「親を困らせる」
その思いは満たされたでしょう。
親は一生自分の育て方を悔い
そして息子達の犯罪を自分でも背負っていくでしょう。
先行き短いものは、その覚悟もできるでしょう。
でも、
「親を困らせる」ことに成功したら
目的は失われ
結果として残されたものを背負って生きるしかない。
そんな覚悟がでてこないとしても周囲は執拗に求めるでしょう。
言い訳に人生のすべてを費やすにしても
周囲はそれを許さないし
自分を責め続けることだけを求めるでしょう。
口とは裏腹に反省すること、そして、再生する道筋は期待していないのです。
反省の日々など、決して求めていないのです。
それにしても、彼らの人生は、あまりに先が長い。
A君の事件の被害者の両親も人生も怒りと怨み
そして、安定と緩しのはざまを行き来し、修羅の日々です。
加害者の親は上をむいて歩くことを許されず
笑顔を見えることを許されず
言い訳もさせてもらえない日々を送っている
残り少ない日々は、自分のためのものではなくなっているのです。
当然、A君は「平然としている」ことで人としての業を生きなければなりません。
自分を責めることで、深い淵をさまよい続けるのです。
営業の仕事をしたり
笑顔や言葉巧みに説明する仕事は許されないでしょう。
よくて職人、できたら過酷な重労働であれば
世間の批判を多少は和らげるでしょう。
でも、大学に通ったり
結婚するとなると
被害者の深い悲しみとの対比によって
否定的な態度に押しつぶされるでしょう。
人とは不可解です。
分ることは計算できること
数値に示されることだけです。
闇そのものです。