チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

新日本フィルハーモニー交響楽団の知ってる人!?(1974年)

2021-02-22 02:31:11 | 日本の音楽家

音楽之友社『教育音楽(中学版)』1974年10月号から新日本フィル演奏会の画像です。指揮は秋山和慶氏。
新日本フィルは1972年設立なので、再スタート2年目くらいの頃ですね。



この写真をながめていたら、指揮者のちょうどうしろに知っている人が写ってる!



↑ この、お休み中の人です。最近テレビで見た?それともどこかで会った!?

 


。。。思い出すのに丸一日かかりました。

小学館「音楽の図鑑」。1973年初版第1刷発行。



この図鑑の「オーケストラの楽器」の章に登場されていました。一番右のかた。

常光誠治さん(1937年広島県生まれ。2021年2月19日にお亡くなりになったそうです)。

 


この本には日本人演奏家の写真がたくさん載っており、お名前や所属している団体をなんとか自力で解明しようとしたのですが、手がかりがなく少し前にあきらめたばかりでした。

追記(2021年3月24日):上の画像の左のオーボー奏者は新松敬久さん。2019年の年末にお亡くなりになったそうです。

また、オーケストラ画像の1番オーボエは鈴木清三さん。コメントありがとうございました!



この人たちは、服装からしても新日本フィルの方々だと判断してもいいですよね? (そもそも図鑑には少しでもプレイヤーの紹介文を掲載してもらいたかったです)

(2015年9月3日の記事に情報を追加しました)


トスカニーニの指揮で第九を歌った日本人合唱団員(1939年)

2021-01-28 22:33:53 | 日本の音楽家

山野楽器店の音楽雑誌『月間楽譜』昭和15年(1940年)7月号です。

 

この号にトスカニーニの指揮で合唱団員として第九を歌った日本人女性の手記が載っています。

松岡宏子さん

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トスカニーニの指揮で歌ふ

          松岡宏子


ある晴れた朝でした。

合唱の何時ものような練習時間に、私達は「トスカニーニが学校を訪問される」という一大事件を耳にして、学校はひっくり返るような騒ぎになりました。

「私達の合唱を試験しにいらっしゃるんですよ、良ければカーネギーホールでベートーヴェンの第九を歌えるんですから皆さんしっかり歌ってください」との校長の話!!喜びと驚きとで生徒達の緊張ぶりと意気込みとは大したものでした。すぐに我々のバッハのロ短調ミサの練習が始まったのです。

ゆっくりと落ち付いてトスカニーニはやってきました。マネージャーらしい人と二人で。そして我々の合唱をじっと聞いていました。

私はこの偉大なる指揮者の一挙一動を見逃すまじと歌うのを忘れ、ただ夢中でじっと彼の姿をみつめておりました。勿論この小さな東洋人の存在なんて判る筈がありません。真っ白い特徴のあるピンとはね上がった髭を生やした背の低い風采の上がらないお爺さんが、そんな有名な、偉大なトスカニーニかと疑いたくなるくらいです。でも、あの物凄い人を射るような眼光、この人の人生を物語っているような額の皺、それらが彼の偉大さを物語っているようです。


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「トスカニーニの試験に及第したんですよ、我々が第九を歌うことになりました」
との発表があったのは数日後のことでした。

「トスカニーニの訪問」それだけでも我々にとっては大事件でした。その上第九を歌うことになったのです。生徒一同の感激は全くすごいものでした。それから第九の練習がはじまりました。毎日毎日コーラスの時間は全部そのために使われました。

校長の得意さと熱心さもまたすばらしいものでした。

12月1日(金)練習 午後4時~6時
12月2日(土)練習 午前10時~12時
12月2日(土)演奏 午後10時
(以上カーネギーホールに於て)

とのプログラムが発表されました。

いよいよ待望のニューヨーク行のバスは発車致しました。ニューヨーク着、ホテル行、予定通りの行動をとっていよいよ感激のトスカニーニの第一回リハーサルです。

はじめて見るカーネギーホールの大きさに膽(きも)を奪われているうちに、我々の席は決まりました。

オーケストラのメンバー達もぞくぞくと這り込んでまいりました。最後にトスカニーニは出てまいりました。彼の一挙一動も見逃すまいと身体が緊張でこわばっていくのが感じられます。彼は真っ黒いつめえりの服装で小刻みに出てまいりました。

ギーギー、プープーというメンバー達の調子を揃えている音も間もなくやんで、トスカニーニは壇の上に立ちました。あのものすごい眼光で一目見廻しますとあたりはしんとしてしまいました。

さあ、いよいよ練習です。

トスカニーニは眼前に立っております。そして我々は今、彼の指揮の下に歌おうとしているのです。全く夢としか思われない事実だったのでした。指揮棒は取り上げられて、最初のピアノのためのコーラス・ファンタジーがはじまりました。

無我夢中、ただ無我夢中でした。

その時のピアニストは女の人でした。とてもすばらしかったのです。実によく歌って、ものすごく音楽的なのです。中程からピアノのパートに来ますとトスカニーニはさも満足しているというように指揮棒を休めて、にこにこしながら聞いておりました。

ああ、トスカニーニにあんなに満足されるピアニストは何と何と幸福なことでしょう。ピアノと管弦楽の調和!!全く感激でした。

いよいよ第九です。

最初の一音から肺腑をえぐるベートーヴェンの感情が押し迫って来るのです。

私はあまりのすばらしさに身動きすら忘れて、ただ呆然として彼の姿を凝視しているばかりでした。手には汗が一杯滲んでまいります。

いよいよ我々の合唱すべき第四楽章にやってまいりました。


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ただただ夢中で歌いました。いつの間にか終わっていました。

この小さな存在の価値もない東洋人の女の子の感激は、ただ偉大さに打たれ、全く呆然自失!!そして溜息ばかりでるのです。そしていつまでもいつまでもあの雰囲気に浸っていたく物言うのさえ忘れ、人から言葉をかけられるのさえ癪にさわりました。これこそ、真の音楽、真の芸術、私は本当の音楽を知りました。

第二回目の練習。例のごとく感激、ただ感激の一語ではじまりました。

無事にピアノのためのコーラル・ファンタジーを済ませ、第九の練習がはじまりました。

 

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トスカニーニの合図をまって太鼓が這入りました。彼はもう少し弱くと注意致しました。再びやりなおし、わけのわからないイタリー語でトスカニーニはどなりはじめました。ゆでだこのように真っ赤になって、ああその時の顔、そして声、私達は全くちぢみ上がってしまったのです。五分間位、彼はものすごく、どなっていました。私達は言葉はわからないし、何だかものすごくこわくて、すっかり度膽を抜かれてしまいました。またやりなおし、今度は彼の気に入ったらしく、彼はにこっと笑いました。これで我々もやっと安心したわけです。第二回目の練習もどうやらこれで無事に済みました。

第一回目の時にも、そして今度も、練習が了えた時に、トスカニーニは丁重に「有難う」とこの我々合唱団にも心から云ってくれました。

世界一のトスカニーニから礼を云われた。それも感謝を込めて、何となく心の中に熱いものが湧いて来るようでした。


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演奏!!

この日のトスカニーニの出来栄えはそれは大したもので、練習の十数倍の良さ、全く想像におまかせします。あまりの感激で云う言葉を知りません。コーラスの一員として座っていて何遍も何遍も気が遠くなりそうでした。私のようなものには、ただ感激というより他に方法がないのが口惜しくなってきます。あの背の低い風采のあまり上らぬ彼が一度指揮棒を振ったら、全く人間技とは思われません。

その棒の先からほとばしり出る感情の泉、全くベートーヴェンの深刻な芸術上の悩みが押し迫って来ます。白人の云うWonderful、全くそうです。全くこのまま死んでも惜しくはない、私は全くあのまま死んでも悔いはしなかっただろうと思います。

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。。。松岡さんの感激が時空を超えて伝わってきました。

編集後記によると、このカーネギーホールでの第九コンサートは1939年の年末に開かれ、松岡宏子さんは翌年5月に日本に帰って来られたそうです。

松岡さんは東京の大井基督教会の牧師を父とし、かねてアメリカに留学、ウェストミンスター・クワイア・スクールに学ばれ、手記が書かれた頃は津川主一氏のシンフォニック・コーラスのメンバーとして活躍されていました。


物言わぬ少女提琴家:諏訪根自子インタビュー?(1934年)

2020-11-28 23:25:44 | 日本の音楽家

【2015年1月26日の記事に新しい画像を追加しました】

『レコード音楽』1934年1月号の「レコードアーティスト訪問」では美貌の天才少女ヴァイオリニスト・諏訪根自子(1920-2012)の目白の家を訪れています。

↑ 九州帝大のバルコニーにて。


根自子さんのインタビュー記事が読める!質問者は上須賀館夫氏。

しかしながら当時14歳の根自子さんは恐ろしく無口な少女で、お父さんの諏訪順次郎さんも冒頭から「どうも無口でして、何も物を言わぬので困るんですよ。先だっても文部大臣に招かれて行ったのですが、大臣が色々愛嬌よく話しかけて下さるのに、さっぱりこれは口をきかないので......」と漏らす始末。

結局、残念ですが順次郎氏が最初から最後までほとんどの質問に対して答えてしまっています。興味のあるところだけ抜粋します。

Q.(上須賀) 赤ちゃんの時分にはレコードをかければどんなに泣いていても泣きやんで静かに寝入られたそうですね。

A.(順次郎) そればかりは全く不思議でした。五歳の時にジンバリストを聴きに連れて行ったのもそんなわけでしたから、さあその晩が大変で身じろぎもせずに一晩中聴き惚れていた挙句「私もああいう人になるんだ」と帰りの電車での中では言い続ける、翌る日からはどうしてもヴァイオリンを弾くんだと云ってきかないのです。

→根自子さんにとって運命のコンサートになりましたね。


Q.その後(根自子の)ご病気(右手のリウマチ)のほうはすっかりおよろしいんでしょうか?

A.すっかり治りきるということはどうもこの病気には難しいということです。しかしこの春からすっかり元気になりました。やはり無理したのがいけなかったようです。リサイタルの後引続き先生(モギレフスキー)の会やら学校(帝国音楽学校)の会やらに出ましたが、その度に大きな曲を相当の時間練習せねばならなかったことが、子供にとっては余程の過労になったもののようです。

→順次郎氏はモギレフスキーとトラブルになったことがあり、やはりあまりよく思っていないことが窺われます。


このままずっとお父さんへのインタビューで終わってしまうのかと思ったら、最後の最後にとうとう根自子さん自身がしゃべりました。

Q.根自子さんのお好きなものは何ですか?

根自子 絵を描くことが好き。それから刺繍....

Q.いや、召し上がるもので.....

根自子 くだもの!くだものなら何でも。密柑、林檎、葡萄、無花果(イチジク)、柿、栗......

→ホント子供だったんですね!お父さんによると根自子さんはご飯のかわりにくだものを食べることが度々あったそうです。


ちなみに根自子さんが当時使用していたヴァイオリンは鈴木政吉(1859-1944、鈴木鎮一の父)の作品だったんですね。

(追記)

『少女クラブ』1949年6月号より

↑ 「根自子さんは小さい時から無口ではにかみやのため、とかくつめたい人のようにいわれますが、けっしてそうではありません」

野呂信次郎さん(1909-1987、音楽評論家)のコメント。


小澤征爾と江戸京子の結婚式(1962年)

2020-10-31 21:01:07 | 日本の音楽家

【2024年1月23日に江戸京子さんが、2週間後の2月6日に小澤征爾さんがご逝去されました】

『音楽の友』1962年3月号より小澤征爾さんと江戸京子さんの結婚披露宴のようすです。

1962年1月5日(金)、日比谷三井ビルディングにて。


↑ さすがの小澤さんも神妙そのもの。



↑ 媒酌は井上靖夫妻。

 


↑ 左は小澤さんのご両親、開作さんとさくらさん。

 


↑ 立食だったんですね。真ん中は当時の首相・池田勇人。祝辞で新婦の父、江戸英雄のオンチをバラした。

 


↑ 幸せそう!



↑ ご学友らに囲まれた京子さん。



↑ 旧友たちの合唱団を指揮する小澤さん。

 


↑ 新婦と井口基成氏、柴田南雄氏。

 


↑ 左は式の進行を買って出た黛敏郎氏。演出は浅利慶太氏でした。

豪華メンバーですなー!1966年にお二人は離婚してしまいますが小澤さんの『私の履歴書』(日経新聞)にはこうあります。「離婚後も江戸英雄さんは僕のことを『息子だ』と言って、亡くなるまでかわいがってくれ、京子ちゃんとも後に良い友人に戻れた。」

 

【追加:原宿のCアパートでの小澤夫妻。『藝術新潮』1962年9月号より】

小澤さんと京子さんは桐朋学園音楽科の同期で、他の同期生としてピアノの林秀光、本荘玲子、松岡三恵、水谷弥生、竹前聡子、ヴァイオリンの堀伝、オーボエの乃村和子がいるそうです(敬称略)。

 

【参考】

小澤征爾・入江美樹(ヴェラ・イリーナ)夫妻。FLASH誌1986年11月19日号より再掲


一堂に会した第一線女性アーティストたち(1951年)

2020-09-10 20:42:59 | 日本の音楽家

『婦人公論』1951年(昭和26年)4月号から、当時第一線の女性楽器奏者、声楽家たちが一堂に会した二つの画像です。

 

1.日本ビクター吹込所にて

左手前から時計まわりで
阿部よしゑ(ハープ、1904-1969)
関種子(ソプラノ、1907-1990)
柳兼子(アルト、1892-1984)
鈴木共子(ヴァイオリン、1920-2002)
安川加壽子(ピアノ、1922-1996)
諏訪晶子(ヴァイオリン、1928年生まれ。)
朝倉靖子(ピアノ、1921-2015 中山悌一夫人)
植野豊子(ヴァイオリン、1926年生まれ。旧姓服部)

 

↑ 柳兼子さんの弁。この時代から女性のほうが音楽の勉強をしやすかったんですね

 

↑ 諏訪根自子さんの妹、諏訪晶子さん(昭和3年6月5日生まれ)の画像は数少ないと思うので拡大しておきます。

 

 

2.1951年2月10日、日比谷公会堂にてオペラ・シンガーズ

前列着席3名左から
佐藤美子(1903-1982)
長門美保(1911-1994)
原信子(1893-1979)

後列左から
栗本尊子(1920-2019)
砂原美智子(1923-1987)
笹田和子(1921-2007)
大熊文子(1918-2003)
川崎静子(1919-1982)
辻輝子(山田耕筰夫人、1907-1973)
大谷洌子(1919-2012)
荒牧規子(1924年3月20日東京生まれ)

↑ 原信子さんのコメント。歌い手と聴き手ですがこれだけ大物が集まるのは珍しいことだったんですね

 

。。。情報を加えていきます