チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ヴァイオリニスト・江藤俊哉とご家族(1965年)

2017-11-03 22:54:17 | 日本の音楽家

日本が生んだ天才ヴァイオリニストかつ優れた教育者である江藤俊哉(1927-2008)さんの奥さまとお子さんたちです。 

↑ 左から夫人でヴァイオリニストの江藤アンジェラさん、江藤氏、マイケル君(当時8歳)、カーティス君(9歳)。

『婦人之友』1965年12月号より。

↑ 1979年の雑誌より


三浦環第一回リサイタルの広告(1939年、月刊楽譜)

2017-10-30 22:00:24 | 日本の音楽家

蝶々さんで有名な三浦環(みうらたまき、1884-1946)さんの「第一回独唱会」の広告が1939年の音楽雑誌に掲載されています。

↑ いつもカワイイ!1939年(昭和14年)11月16日木曜日、日比谷公会堂。日本初演4曲を含む全25曲。聴きたかった~

環さん一人に対してピアニストは3人がかり!

宇佐ダリオ、はいだ・うき、あかまつ・じろうさんに関しては調査中です。

 

三浦環さんはこの広告が打たれた時点で既に2000回(二百回でなく二千回)以上もお蝶夫人を演じているのに、日本でのリサイタルは初めてだったんですね。

普通に考えて、蝶々さんを歌うことにいい加減飽きていたとしても不思議ではない。。

 

↑ この三浦環さんの広告が載っていた『月刊楽譜』(銀座山野楽器発売)1939年10月号の表紙と裏表紙。キッタネーけど良い匂い

 

戦前の音楽雑誌の充実ぶりに接していつも感じるのは、もし日本が戦争に巻き込まれなかったら、もしくは勝っていたら現在の我が国のクラシック音楽界は良くも悪しくもどうなっていたんだろうかという怖れにも似た感情です。戦前・戦中と戦後の断絶ぶりがすさまじいので

(三浦環さんに関する情報はここに追加していきます)


東京音楽学校(現・東京芸術大学)1928年の女子卒業生

2017-09-03 01:26:37 | 日本の音楽家

週刊朝日1928(昭和3)年3月1日号に「今春東京音楽学校を出る人々」として3ページにわたって女性の卒業生が紹介されていました(敬称略)。

 

【1ページ目】

黒澤貞子(ソプラノ)

秋山種子(ソプラノ)1907-1990 関種子。

一藤幸子(ピアノ)

河原喜久恵(ソプラノ)1902-1997

澤崎秋子(ピアノ)1905-1984 井口基成と結婚。

 

 

【2ページ目】

東孝子(ピアノ)

古谷従子(ピアノ)

近藤沖子(ピアノ) 戦後は「小野田多江子」というお名前で活躍されたそうです。コメント参照(くまこさん様ありがとうございました)。

小山満寿子(ソプラノ)

 

 

【3ページ目】



宮川雪(メゾソプラノ)

杉山富美子(ピアノ)

富田三枝子(ピアノ)

鹿島縫子(ピアノ)

山越八重子(ピアノ) 仙波八重子。


。。。これらの方々はその後どんな人生を歩まれたんでしょうか。情報を追加していきます。


10歳のヴァイオリニスト・佐藤陽子さんとお母さん(1960年)、オペラ歌手への転身(1976年)

2017-09-03 00:09:37 | 日本の音楽家

『主婦の友』1960年2月号より、10歳のヴァイオリニスト佐藤陽子さんとお母さんの弘子(ひろこ)さんです。


↑ お母さんも音楽関係のお仕事をされていたのでしょうか?(調べます)

以下、記事です。
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少女バイオリニストの佐藤陽子ちゃん(10)は、子供とは思えないほど堂々と演奏するので評判。去る(1959年)11月6日、ソ連文化省から招かれて、お母さんといっしょにモスクワへ出発した。あちらでは、オイストラッフ、コーガンなど、世界的巨匠から直接指導を受けるという幸運に恵まれている。お母さんの弘子さんは、「コーガンさんからは、”陽子の音楽には心がある”とはげまされたのですが、みなさんの期待にこたえられるよう、一生懸命勉強させるつもりです」と、珍しい母子ぐるみ留学の決意を語っていた。
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↑ 可愛らしいけど10歳にしてはしっかりとした感じですね。彼女のこれからの波乱万丈な人生をいったい誰が予想...みんな予想してたりして(良い意味で)

 

↑ 1965年の帰国演奏会。ナウム・ワルテルはコーガンとよく一緒に演奏していたピアニスト。

 

↑ その9年後、高円寺の庭園にて

↑ なかなかの美女っぷりですね。(2枚の写真は『音楽の友』1974年1月号より)

そしてその2年後にはなんと、オペラ歌手に転身!

↑ マリア・カラスに弟子入り! 日本での初舞台は蝶々さん。『音楽現代』1976年6月号より。

ヴァイオリニストがオペラ歌手になるってあんまりないことなんでしょうね。こういう生き方、好きかも


【佐藤陽子さんは2022年7月19日に72歳でお亡くなりになりました】


皇紀2600年・作曲家へのお礼(1941年)

2017-08-13 23:39:30 | 日本の音楽家

【2014年11月11日の記事に新聞広告の画像を追加しました】

皇紀2600年(西暦1940年、昭和15年)12月26日、27日に大阪歌舞伎座で「紀元二千六百年奉祝楽曲発表大演奏会」が開催されました。

↑ 1940年12月20日大阪朝日新聞より。第2部ではイベールとヴェレシュ、第3部ではピツェッティとR.シュトラウスの作品が演奏されました。

 

曲を提供してくれた海外の作曲家には当然ながらお礼をしていたんですね。

↑ 「紀元二千六百年奉祝楽曲発表大演奏会」(1940年12月大阪歌舞伎座、松田正志氏撮影)

Wikipediaには「作曲者への返礼」として「スタジオ録音されたSPレコード、印刷された楽譜とともに作曲者に送られた。また、織物なども贈ったようであるが、積んだ船が撃沈されたらしく、結局届かなかったという。」とありますが、具体的には何の曲が録音されたレコード・楽譜だったんでしょう?

音楽新潮昭和16年2月号に答えがありました。

「皇紀2600年の奉祝曲を我が国に寄せた盟邦独逸のシュトラウス(皇紀二千六百年祝典曲)、伊太利のピツェッティ(交響曲イ長調)、仏蘭西のイベール(祝典序曲)、匈牙利のヴェレッシュ(交響曲)四作曲家に対し種々の答礼方法が考えられていたが、今回日本文化中央聯盟が作品による返礼を行うことになった。同聯盟は昨年催したる奉祝芸能祭に演奏した曲の中から制定曲北原白秋作詞、信時潔作曲の交声曲「海道東征」を最も適当なるものとして選択、(昭和16年1月??←書いていない)11日午前9時から上野の東京音楽学校で木下保氏指揮の同校管絃楽団及び男女並びに児童合唱団総員500余名がレコードに吹き込み。

このレコードと更に同聯盟が年四回発行する英文雑誌「カルチュラル・ニッポン」の春季号に同曲及び英訳歌詞を掲載し同時に寄贈することになった。同曲は演奏時間50分にわたる大曲で12吋盤で10面に及ぶものであり、かくの如き長時間の連続演奏吹込みも空前のこととされている。なお同聯盟ではこのレコード及び和文、英文両歌詞並びに曲を各国文化団体へも寄贈することになった。」

4ヶ国それぞれにレコードと雑誌を寄贈することになったのに、全部が全部、まとめて海に沈んでしまったんでしょうか?

もし届いていたとしたら、その時の反応・評判が気になります~(情報を追加していきます)

↑ 戦後の音楽雑誌に勝るとも劣らない、立派な誌面に驚かされます。

 

↑ 紀元二千六百年奉祝楽曲発表大演奏会の練習風景(『音楽世界』1940年12月号)