【じごく耳】基本的人権は~現在及び将来の国民に対し侵すことのできない永久の権利として信託されたものである

国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

相撲界の不祥事~異様な被害者側叩きにこの国の歪んだ構造を見た思いだ

2017年11月28日 | ☆ツブヤキ・つぶやき☆

 数週間前から、連日連夜「相撲界の暴行傷害事件」が報道されていますね。

暴行は「事実だ」と加害者も認めているこの問題は、調べなければならない事実関係とは全く違う方向に向かっています。

協会側の人達やその代弁者のようなコメンテーターは、連日マスコミに登場して被害者側の貴乃花親方の非難に終始しています。

加害者側の親方や加害者本人には、殆ど批判をしないのです。

加害者の暴力を咎める事より、被害者側の親方の「瑕疵」を重箱の隅を突くように探して非難しているさまは、異常です。

この異常ともいえる理不尽な状況に作為や意図、悪意が見て取れます。

協会側の人とその代弁者は、この暴行傷害の問題より被害者側の親方が巡業部長の責任として捜査機関に被害届を出す前に協会

に報告するべきと協会への報告義務を最優先課題のように問題視していますが、これは、法治国家として在り方を蔑ろにした発言で

す。

貴乃花親方を非難する協会の人達は、「協会の規則」を強調して「ルール違反だ」と騒いでいますが、警察から協会に聞き取りが

あった時点で、その事実を把握しているので、報告の有無に付いては何の問題も不都合もない筈です。

問題すらならない事に批判が集中しているさまに悪意さえ感じます。(この暴行傷害事件を刑事事件としてではなく被害者を懐柔し

て「穏便」に済ませたかったのに公になって怒っているのか?

こういう姿勢と異様な論調で固められている組織に「信頼」を置く事が出来るのでしょうか?私なら到底できません。

事実、協会側の池坊保子さんは、メディアで「こういう一つのことで人生を左右~日馬富士には横綱で頑張ってもらいたい」旨の意向

を言っていますから、この問題が刑事事件になった事への不満と加害者擁護を推察できます。

更に「日馬富士の処遇を決める為に被害者からの聞き取りが欠かせなく非常に困っている」とも述べていますが、事実関係を把握す

るプロの捜査機関が調べている最中に「事件を起こした人の処遇」を決められるわけがないのです。

捜査機関の結果を待たずに協会として急いで「処分」を決める整合性は、全くありません。

協会の決定した「処分」が罪の量刑と乖離している場合、処分の見直しでもするつもりなのでしょうか?

すでに警察が捜査しているのですから、協会が被害者の聞き取りをできない事への不満に合理的な理由はないのです。

被害者は、暴行を受けた上に理不尽なバッシングに晒されているのです。おかしいでしょう?

被害者は、身体だけでなく心も傷つけられていますよ。そういう状態の被害者を協会やメディアに引きずり出す必要がありますか?

この刑事事件が「大騒ぎになった」のは、加害者は勿論のこと、協会側に立つ人々の発言とそれを肯定的に流すメディアが原因なの

。被害者側ではありません。被害者も彼を支える親方もこの問題を捜査機関に委ねて「黙して語らず」だったのですから。

自ら騒ぎを拡大していった協会側とマスコミは、その原因を被害者側にあるような誘導的な報道をいまだにしています。

審議会のどなたかが、貴乃花親方の行動は「協会全体で進めることに対し、ぶち壊す動きをしている。みんな『疑念がある』『不可解

だ』」と怒っていますが、矛先が違っています。

怒る相手は、暴行事件を起こした者にです。ぶち壊しているのは、問題を起こした輩ですよ。

真っ当に考えれば、こういう誤った見解に同意できる筈がありません。

事件や問題が起きた時、被害者や弱者の側をバッシングするような「法や倫理観を蔑ろにする」昨今の風潮に危機感さえ覚えます。

病んでいる社会や組織に一石を投じた行為に余程の浅慮な人達以外は、賛同していますよ。

著名な知識人が、貴乃花親方の場所後の支援者への挨拶を聞いて、“”戦時中の青年将校の心に似ていて、その思想に危惧を

持っている“”ようですが、今回の刑事事件に対する彼の行動は、別問題。

違和感のある理不尽な被害者バッシングは、絶対容認してはならないと思います。

被害者の心身の回復と暴力を容認するような歪な論調がどうか無くなりますに。


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「自由と平和を愛し、文化をすすめる」文化の日*日本国憲法公布の日

2017年11月03日 | ☆ツブヤキ・つぶやき☆

 5月3日、11月3日、この日になると28年間に亘って、常に弱者に寄り添い憲法遵守の精神を広めてきた故蜷川虎三京都府知事の

言葉を記した「憲法を暮らしの中に生かそう」の垂れ幕を思い出します。

1978年4月の京都府知事選挙で、引退した虎さんの民主府政を継承しようとした候補の方が破れ、この年から京都は、様変わりしま

した。

府知事選の1週間後には、それまで府庁の建物前に掲げられていた「憲法を暮らしの中に生かそう」垂れ幕は、引きずり降ろさ

れ、『憲法前文』が記された掲示板も撤去されました。

対立候補の前自民党参議院議員の勝利で、権力者を縛ることができる『憲法』が引きずり降ろされ、憲法の精神を記した『前

文』は、捨てられたのです。 

日本国憲法前文 

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 

彼らにとって、権力の行使を難なくする為に権力を縛る『日本国憲法が、よほど邪魔だったのでしょう。

己達の思うがままの政策を断行したい権力者達にとって、『国民主権・基本的人権の尊重・戦争放棄』の精神は、邪魔で困る物なの

だという事です。

(主に9条)改憲を望む為政者は、政治家の仕事である近隣諸国との融和への構築を放棄して、それどころか(米国サマのご機嫌を

取る為に)わざわざ近隣国と摩擦を生じさせる言動をし、アレコレ尤もらしく屁理屈を声高に述べています。

国民がこのまま彼らの詭弁に騙され続けると、その内ドイツ・ナチスが行った手口、憲法を無効にする法『緊急事態条

項』を盛られて、国民は、主権者として生きることすら儘ならないでしょうね。

そうならない為に「国民の敵」が何なのか見極めたいものです。

*中日春秋(今の政治を見事に表しています)↓

 


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