【2018年5月25日】
シスレーやコロー、あるいはブーダンやトロワイヨン、もちろんモネなども含むが、そうした画家の風景画に限定するかぎり、心静かに眺めていることができる。そんな気がするのだが、クールベやセザンヌとなるとざわざわとする感情がわずかに生まれるようだ。それはクールベの写実性やセザンヌの筆致に顕在化しているエネルギーのようなものが伝わってくるからだろうと思う。それはそれで味わいがあるのだが、好みの問題で言えば(断言するにはいくぶんの逡巡があるものの)、私にとっての風景画のスタンダードは、アルフレッド・シスレーあたりらしい。
風景画というカテゴリーが成立するのはそれほど古い時代ではない。それは『ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生』という美術展などを見てもよくわかる。風景は、聖書や神話の物語の背景として描かれる時代が長く続いた。そこに描かれる風景は、絵が表象する物語性のために、シスレーの絵を眺めるようには心静かに眺めていることができない。というよりも、「物語」に心が向いてしまって「風景」が薄れてしまうのである。
この美術展も、神話や聖書のエピソードを主題とする絵から展示が始まる。
ニコラ・ランクレ《森のはずれの集い》1720年代後半、油彩、カンヴァス、64×79cm
(図録 [1]、p. 53)。
クロード・モネ《草上の昼食》1866年、油彩、カンヴァス、130×181cm(図録、p. 139)。
ニコラ・ランクレの《森のはずれの集い》は、けっして聖書や神話から主題をとったわけではないが、風俗画とでも呼ぶべき絵のなかに背景として風景が描かれている。図録解説では、この絵を「自然の中に身を置き、遊興に耽る貴族たちの様子」を描いた「雅宴画(フェト・ギャラント)」と見なしている(図録、p. 52)。
「雅宴画」がどのようにカテゴライズされているのか詳細を知らないが、ランクレの《森のはずれの集い》が雅宴画ならば、モネの《草上の昼食》もまた雅宴画ということにならないだろうか。もっとも、貴族の遊興は雅で新興ブルジョワの遊びは雅にあたらないなどということであれば別だが……。
絵をカテゴライズすることに鑑賞上の意味がそれほどあると思えないが、時代を越えて同じような主題の絵を鑑賞するのはそれなりに面白い。時代をもう少し新しくすれば、ジョルジュ・スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》もほぼ同じ主題といっていいだろうが、《草上の昼食》よりもずっと風景画らしさが弱まっている。
スーラよりもモネと同時代のエドワール・マネのその名も《草の上の食事》という作品を引き合いに出す方が面白いかもしれない。タイトルもほぼ同じ、森の中に敷物をひいてその上で男女が食事をしているという構図もまったく同等だが、女性の一人が全裸でこちらを見ているのである。マネの絵は、私にとっては明らかに「風景画」でも「雅宴画」でもないのだ。
マネの絵は問題含みである。ミシェル・フーコーは、「印象派を準備することができたものを越えて、クヮトロチェント以来の西洋絵画において基礎をなしていたもののすべてをひっくり返したのだということができる」 [2] とエドワール・マネの絵画を評している。マネの《草の上の食事》をランクレの《森のはずれの集い》やモネの《草上の昼食》と同じカテゴリーに属するとはとうてい思えないという私の印象も、フーコーが指摘したマネの絵の特質に由来しているのだろう。
ギュスターヴ・クールベ《山の小屋》1874年頃、油彩、カンヴァス、33×49cm(図録、p. 99)。
クールベの《山の小屋》の前に来た時、向井潤吉の妙高山や白馬岳、その山麓の藁屋根の農家を描いた絵を思い出した程度で、心静かに絵の前を離れたのだった。シスレーやコローの風景画とは異なって、クールベの風景画では写実の強靭さにいつも心惹かれるのだが、この絵ではなぜかさほどのこともなく通り過ぎてしまった。
《山の小屋》への感興は、東京からの帰りの新幹線のなかで図録解説を読んでいたときにじわりと湧き出してきた。解説には、パリ・コンミューンに加わったクールベが政府軍によってコンミューンが鎮圧されたため、やむなくスイスに亡命していたときの作品であると記されていた(図録、p. 98)。それを読んだとき、ふと思いついたのはフリードリッヒなどのドイツロマン派の風景画のことだった [3]。
かなり唐突に、クールベとフリードリッヒの風景画の対比がそのまま「ナチスが生まれるドイツ」と「ナチスに蹂躙されるフランス」という対比に飛躍するのだった。フリードリッヒの風景は、崇高な自然、完全なる神の造形として画家によって「創造」された風景である。自然は、いわば解読されるべき「神の言葉」として捉えられていた。そのような過剰な精神性、絶対性を求める思念の先に、自ら描いた絶対性から外れる存在を徹底的に排除、殲滅しようとするファシズムが生まれるのではないかと思ったのだった。
アルフレッド・シスレー《霜の降りる朝、ルーヴシエンヌ》1873年、油彩、カンヴァス、46×61cm
(図録、p. 159)。
ポール・セザンヌ《ポントワーズの道》1875-1877年、油彩、カンヴァス、58×71cm
(図録、p. 167)。
フランスの風景画ということで、当然のことだがシスレーもセザンヌも展示されている。私にとってシスレーは風景画のスタンダードだと書いたが、じつはシスレー、コロー、ピサロなどの風景画は、微妙に見分けがつかないことがある。
それに引き替え、《ポントワーズの道》もそうだが、会場では遠目でもセザンヌの絵はそれと判別できる。もちろん、それは色や筆致の個性的な使い方によるのだが、そうした特徴をうまく表現できない。セザンヌはセザンヌだと言ってしまえばいいのだろうが、敢えてそれを「色の深度」の違いとでも言えばいいのかもしれない。
アンリ・ルソー《馬を襲うジャガー》1910年、油彩、カンヴァス、90×116cm(図録、p. 216)。
展示作品にはマティスやヴラマンクの風景画まで包含されているが、中でもアンリ・ルソーの《馬を襲うジャガー》が目を惹いた。ルソーの風景は、風景そのものを超えてしまっている。フリードリッヒは自然の崇高さを際立たせるために風景そのものを「創造」したが、ルソーは美そのものために風景を「創造」しているのだろう。
この絵の前では、こちらを見つめているらしい馬に視線が釘付けになってしまう。《馬を襲うジャガー》ではなく《ジャガーにおそわれる馬》が正しい主題ではないかなどと考えてしまった。まっすぐこちらを向いている馬の異様な無表情に視線が捉われてしまったのである。
ジャン=ルイ・ドゥマルヌ《街道沿いの農場》1800年代、油彩、カンヴァス、49.3×59.5cm
(図録、p. 77)。
この展覧会に「旅するフランス風景画」というサブタイトルが付いていたことに気づいたのは、迂闊なことに図録を読んでいる時であった。『プーシキン美術館展』を見に行くと決めたときには、風景画の展示だと知っていたので、私の認識のなかでなぜか「旅」だけが消えていたのである。
ジャン=ルイ・ドゥマルヌの《街道沿いの農場》は、最初の「近代風景画の源流」のコーナーに展示されていた作品で、どちらかといえば農場の風俗に主眼が置かれた絵のように思える。
タイトルに含まれる「街道」という言葉に誘起されたこともあるが、旅人の私が田園の中の長い道を辿ってこの農場にさしかかった場面としてこの絵を眺めたのである。いわば、ヴァーチャルな風景として感情移入してしまったようなのだ。リアリティ溢れる想像のようであり、そのような旅への憧れのようでもあった。
20年近く前、私のもとで初めて博士号を取得してある大学で助教授になっていた教え子と、そのとき博士号を取得しようとしていた大学院生との3人で南ドイツの田舎道を歩いたことを思い出した。どこまで続くのだろうと不安になるような農地のなかのまっすぐな道の先に小さな森が見え出し、その森の端にある農場レストランで昼食をとった思い出である。
国際会議の合い間のささやかな観光だったが、その時も今も街道を歩きつづけるような旅に憧れているのである。皮肉なことに長いゆったりした時間が必要な旅は、体力がある若いときには仕事が支障になり、時間のたっぷりある現在では体力が支障になってとうてい無理なのだが……。
いずれにせよ、《街道沿いの農場》はヴァーチャル・リアリティの世界に引き込まれるような感受をした初めての絵のような気がする。絵の魅力がそうさせたのか、旅に憧れる私の心性がこの絵への没入を誘ったのかは判然としない。
[1]『プーシキン美術館展――旅するフランス風景画』(以下、図録)(朝日新聞社、2018年)。
[2] ミシェル・フーコー『マネの絵画』 (阿部崇訳) (筑摩書房、2006年) p. 7。
[3] 小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年)。
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