《2017年5月19日》
予想通りの、そして予定通りらしい強行採決だ。秘密保護法、安全保障関連法(戦争法)で強行採決したので、共謀罪法案で強行採決するだろうことは予想できたが、かつて二度の法案提出をしながら成立を諦めたことがあったので、自民党のなかから逡巡する声が上がる可能性をわずかながら期待する気分もあった。
自民党はかつての「保守」から「極右」政党に変わったことはこれまでも明らかだったが、党内にまったく異論がないまま国民監視法案が採決される有様は、「極右」政党から「ファシスト」政党にまで堕ちてしまったことの証左だろう。日本の政治状況は奈落へ真っ逆さまに落ち続けている(しかし、まだ奈落ではない)。
秘密保護法でも安保関連法でも共謀罪法案でも、政府は立法趣旨をほとんど説明していない。説明できる大臣は一人もいなかった。首相自ら説明に立つこともあったが、饒舌ではあっても日本語として成立していない。国会で言葉によるコミュニケーションが成立していないのだ。
最近、安倍首相や金田法相と野党議員の質疑応答を一言一句正確に文字起こしをして、その朗読会を開いて、国会におけるディスコミュニケーションの実態を明らかにするという試みがされているという。安倍首相の言葉は日本語のように聞こえながら、まったく言語としての意味が汲み取れない。日本語らしい音がする鳴き声のようなものにすぎないのだ。
言語が成立しない国会で何かを決議しようとすれば、立法趣旨に納得するチャンスがないのだから、どんな形であれ強行採決になるしかない。こうして、ファシズムによる独裁政権は成立する。いま、私は、私が生まれる前の歴史を追体験しているのかもしれない。
国連人権委員会のプライバシー権に関する特別報告者であるJoseph Cannatati氏が、共謀罪法案についての緊急警告の書簡を5月18日付で安倍首相に送ったということがネットで報告されている。
そのニュースを記したブログ記事から、次のような警告書簡の要約を引用しておく。
書簡では、法案の「計画」や「準備行為」の文言が抽象的であり恣意的な適用のおそれがあること、対象となる犯罪が幅広く、テロリズムや組織犯罪と無関係のものを含んでいることを指摘し、いかなる行為が処罰の対象となるかが不明確であり刑罰法規の明確性の原則に照らして問題があるとしています。
さらに、プライバシーを守るための仕組みが欠けているとして、次の5つの懸念事項を挙げています
1 創設される共謀罪を立証するためには監視を強めることが必要となるが、プライバシーを守るための適切な仕組みを設けることは想定されていない。
2 監視活動に対する令状主義の強化も予定されていないようである。
3 ナショナル・セキュリティのために行われる監視活動を事前に許可するための独立した機関を設置することが想定されていない
4 法執行機関や諜報機関の活動がプライバシーを不当に制約しないことの監督について懸念がある。例えば、警察がGPS捜査や電子機器の使用のモニタリングをするために裁判所の許可を求める際の司法の監督の質について懸念がある。
5 特に日本では、裁判所が令状発付請求を認める件数が圧倒的に多いとのことであり、新しい法案が、警察が情報収集のために令状を得る機会を広げることにより、プライバシーに与える影響を懸念する。
これらの懸念事項は国内でもずっと指摘されつづけた内容で、とくに目新しいわけではないが、少なくとも民主主義先進国にとってはごく常識的なことであって、日本でも法律の専門家の多くが懸念を示していたものである。
国連において、日本はいまだに第二次世界大戦の敗戦国という立場である。その日本が特別秘密保護法、安保法制という戦争法、そして共謀罪法案という警察国家を目指す法律によって、第二次世界大戦の敗戦前の国家を復元しようとしていることを国際社会はどう見るだろうか。
このような経過は、戦前、全権を委任された松岡洋右が国際連盟を脱退したことを思い出させる。いまや、敗戦国としてアメリカの属国となったままの日本がアメリカの意向に逆らって国連を脱退することは不可能に違いないが、政治思想的には孤立していくばかりだろう。それは、外交における劣勢ないしは敗北へと向かう道だ。そうして、日本はますますアメリカにしがみつくしかなくなり、ますます隷属度を強めるしかなくなるに違いない。
それにしても、ウィキペデイアで松岡洋右の項を読むと、彼が「僕は誰にも議論で負けたことがない」と語ったと書いてあり、笑ってしまった。現代日本の宰相も「僕は誰にも議論で負けたことがない」と思っているに違いないのだ。ぜったいに負けるはずがない。意味不明な鳴き声のような長広舌で、どんな人間とも議論が成立しないのだから、負けることは不可能だ。しかし、勝つことも不可能だということまでは、本人は知らないらしい。
《2017年5月26日》
脱原発デモのコールに共謀罪(テロ等準備罪)法案に反対する言葉が新しく加えられた。この法案は、たしかに日本の歴史を大きく歪めてしまった治安維持法の平成版というきわめて悪質な法案だ。しかも、ここまでに至る安倍自公政権の政治的言動もまたこれまでの戦後日本の政治には見られなかったような質の悪さである。
こうした低劣な政治ないしは政治手法を支えているのは、自公政権に加わる政治家たちの「万能感」なのではないかと思う。選挙に勝って(しかも大勝ちして)政治権力を握った者は、「何でもできる、何をしてもいい」という思い込みがあるようだ。
かつて民主党が選挙に勝って政権の座に就いた後、民主党の政治家もまた口を滑らして批判されることが増えて、民主党もまた慢心するのだということにかなりがっかりしたことを覚えている。しかし、その口説は大口をたたく程度に過ぎなかった。
ところが自民党の言説は、大口をたたくというのではない。まったくの嘘、まったくのでたらめを国会という場、記者会見という公的な場で数限りなく行っているのである。安倍首相が「ちゃんと辞書を調べたら「そもそも」というのは「基本的に」という意味だ」という趣旨のことを国会答弁で行ったが、どんな辞書にもそのような意味は記されていないことが明らかにされた。いま、そのことについての質問主意書にたいして「首相が自ら辞書を引いて意味を調べたものではない」という答弁書を閣議決定したというニュースがあった。つまり、何度も「辞書で調べた」と話したのは安倍首相の嘘だったことを閣議決定によって政府が認定し、オーソライズしたことになる。まったくのブラックジョークだが、国会答弁が虚偽だったことを反省するわけでも謝罪するわけでもない。全く平気なのだ。この例ばかりではない。国会で嘘を語ることは権力者の権利であるかのような言動がずっと続いているのである。
だから私には、自公政権は、選挙に勝ったことで神のごとき万能の力を与えられたと思い込んでいるとしか思えないのだ。しかし、ここで民主主義における多数決の意味などという民主主義の初歩の初歩、小学生レベルの話をするのはごめん蒙りたいし、代表制民主主義の仕組みなどという話もまた今さらという気がする。
最近、『人民とはなにか?』 [1] という本を読んだ。若いころ、「人民」とか「大衆」などという言葉を使うと、それはどのような主体なのか、どのような階級なのかなどという議論が沸き起こって、その左翼的生真面目な概念論議にうんざりした記憶があって、読まないでおこうかと躊躇ったのだが、アラン・バディウやピエール・ブルデュー、ジャック・ランシエールなどの論考を収めた本だったこと、なによりも『権力の心的な生』で主体創成の契機を論じたジュディス・バトラーも執筆者の一人だったことが決定的だった。
そのバトラーが代議制について次のように書いている。
選挙によって公職に就いているある種の議員が、多数によって選ばれたという理由で人民の主権を(より正確には「人民の意志」を)代表していると見なされるとしても、それによって人民主権が完全に選挙制度によって体現され、選挙が人民の主権を選出された代表者に移譲するということが帰結するのではない。人民は自らが選んだ人びととは区別され続けるのであり、自らが選んだ人びとの行動と同様に、選挙が実施された状況やその結果について異議を唱えることができるのだ。人民の主権は投票の際に選出された人びとにはっきりと委ねられ得るのだが、この移譲は決して完全には行なわれない。人民の主権のなかには移譲され得ない何かが残るのだ。人民主権が政治権力の議会制という形態を正当化するとしても、それは同様にこの権力の正当性を否定する力をも保持するのだ。議会制という権力形態が人民主権を支えとして必要としているとしても、この形態はそれを同様に怖れてもいる。というのも、この人民の主権のなかには、それが設立するあらゆる議会制の形態に対立し、越え出る部分が存在するからだ。(『人民とはなにか?』 p. 56)
選挙によって選ばれた政治家に人民主権が移譲され、それが国家主権の源泉となる。しかし、移譲された主権は一部にすぎない。憲法を含む法システムに許される範囲の主権というのは、人民主権のわずかな部分にすぎない。全権を与えられたと思い込み、あたかも万能の支配者のごとく振舞うのは、代議制民主主義をまったく理解していないということだ。
自民党のなかには、「天賦人権説」は間違いだ、と主張する政治家がたくさんいる。彼らは、国民の人権保護が施政に邪魔になるので認めたくないだけで、その点においては明らかに間違った主張だ。しかし、人権は神や天から人間に与えられたものという文字通りの意味で主張するなら、それは必ずしも間違いではない。
人間が社会を形成し、国家を創設するプロセスでその主権の一部を国家に法形式的に委譲する以上、人民主権の根源は個人としての人間存在そのものに由来する。逆の言い方をすれば、存在論的に根源的な人権を持つ人間が集団的行為として国家に主権を賦与(委譲)しているに過ぎない。移譲された主権のもとに国家統治に従事する政治家が、国民の人権を云々(デンデンではない)すること自体がおこがましいことだし、間違っているのである。
人権は、神(天)から賦与されたものではない。ましてや、国や政治家が国民に認めるものではない。私たち「人民」の本質的な属性である。そうでなければ、人民からの主権委譲は不可能で、国家自体が成立しないからである。
さて、私たちが自らを「人民」と称するのだが、この「人民」とは何か? バトラーは次のように主張する。
まず何よりも、「われわれ人民」という言葉を発することは、自己=指示的、自己=構成的行為であることは明らかだ。誰かが、別の誰かと同時に「われわれ」と言い、一つのグループ全体が「われわれ」と言うのであり、それによって彼らは「人民」として自らを構成しようとするのだ。このように一つの発話行為と見なされるなら、「われわれ人民」とはそれが名指す社会的複数性を出現させる言表なのだ。この言表はその複数性を記するのではなく、それを存在させるようとするのだ。(『人民とはなにか?』 p. 58)
私たちが「われわれ人民」と語り始めることは、きわめて行為遂行的(パフォーマティブ)な言表なのである。このパフォーマティブな言表から発して、人々が集まり、協同する政治的行動が始まり、そのプロセスで私たちは実質的な「われわれ人民」を構成することになる。そうして、ときには、人民の主権のなかに存在する「議会制の形態に対立し、越え出る部分」が委譲した主権をあらためて政府から剥奪し、新たな政治主権を創設することもあるのだ。
主権を委譲された政府は「われわれ人民」を畏れなければならない。驕り昂る政権というのは、政治論的には本質的誤謬なのだ。いや、だからこそ、安倍自公政権は、秘密保護法や「共謀罪」法案で「われわれ人民」の持つ根源的な主権を抑え込もうと必死なのだ。彼らの政治主権は剥奪されるに値することを自覚しているために必死なのだ。
せっかくなので、アラン・バディウの「人民」も引用しておく。
選挙制度によって定められる多数者の代表という解釈は、国家の正当性の法的手段による承認によって、人民の国家的惰性態に形態を与えるのだが、そうしたものの代わりに、また同様に、常に半ばコンセンサスにより、半ば強制による専制権力への服従の代わりに、われわれはひとつの前例のない政治の方向付けによって「人民」という語を動態化する、国家から切り離された少数者のグループを手に入れるのだ、と。「人民」という語は新たに、民族解放闘争のそれとはまったく異なったひとつのコンテクストにおいて、ある政治プ口セスの主体を意味することが出来るのだ。しかしそれは常に、自らが人民を代表しているなどということではなく、自らが、それ自身の惰性態を破壊し、政治的革新の身体となる限りでの人民そのものだと宣言する、少数者という形態においてなのである。(『人民とはなにか?』 pp. 15-6)
デモが少数であることなどまったく問題ないのである。バディウの理路をこう言い換えてもいいだろう。「われわれ人民」と言表する少数者としての私たちは、その言表と政治的行為遂行を通じて「われわれ人民」という社会的複数性を象徴する存在となって、「国家惰性態」と堕した代議制を破壊し、政治的革新の集合的身体となるのである。脱原発デモもまた、その政治的行為遂行の一つの形態なのである。
[1] アラン・バディウ他(市川崇訳)『人民とはなにか?』(以文社、2015年)。
[2] ジュディス・バトラー(佐藤嘉幸、清水知子訳)『権力の心的な生』(月曜社、2012年)。

街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)
日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫