かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(51)

2025年03月02日 | 脱原発

2017年7月14日

 本を読む。面白い本であれば、抜き書きをする。さらに興味が募った本については、抜き書きをベースにして読んだ思いを書き記しておく。書評などと称しているが、要するに感想である。そうするようになったのは、かなり重要な本だと思えるのに、読んだことを忘れてもう一冊買ってしまうということが一度ならずあったためだ。すっかり忘れているという事実はけっこうショックなのだ(二度買いしたことも口惜しいが)。読む、抜き書きする、書くという3段階を経ると、さすがに読んだ本のことは忘れなくなる。
 だが最近は、本を読んで抜き書きまでやっても書評を書くという段階にはなかなか進まなくなった。思考に粘りがなくなったというか、脳内CPU速度がだいぶ落ちてきている感じがする。書評を書いた方がよい、書いておくべきだ、そう思いながら手つかずのままかなり積み残している。
 昨日、今日と、どれかの書評に取りかかれないものかと抜き書きのファイルを次々と開いて読む作業を始めた。ところがどうだ。読んで抜き書きまでしていたのに、読んだことも抜き書きしたこともすっかり忘れていた本を発見した。『ポストフクシマの哲学』という本で、文字通りの哲学者から映画監督まで、原発に反対する立場の人たちが論考を寄せている本だ。抜き書きを終えた日付は2016年8月19日となっている。まだ1年も経っていないのだ。
 この本のことを忘れていたのは、抜き書きをしていながら書評を書くことを最初から断念していたためらしい。抜き書きの量がとても少ないのだ。たとえ大事なことが書かれていても、それが私の知っていること、容易に考え及ぶことであれば抜き書きする必要もないし、一生懸命考えて書評を書いておく必要もないのである。
 少ない抜き書きの量だが、抜き書きした部分はやはり抜き書きしただけの理由がある。エティエンヌ・タッサンの論考の中の「権力」と「原子力」についての次のような文章が抜き書きされていた。

 ところで、アウシュヴィッツが明らかにしたこと、それは全体主義的支配の唯一の出口は全体的な破壊だということだった。ヒロシマとナガサキという二つの分かちがたい罪が明らかにしたのは、原子力エネルギーのもつ致死的なまでの主権的な力であり、この主権的な力は全体権力という幻想(国家やそこに住む人々をコントロールするという幻想)から切り離せない、ということであった。チェルノブイリとフクシマが語っているのは次のような事態である。すなわち、こうした死をもたらす事故(アクシデント)は偶然(アクシデント)ではないということである。このことは、死が主権的な支配の企てに最初から織り込まれていたのと同じように、制御という企てそのものにすでに織り込み済みのことなのだ。原子力エネルギーの使用という企てに参与していく者は、自分にはこの企てがもたらしかねない破壊を予防することができないし、それがもたらす諸々の帰結を拒むことができないということを認めておかなければならないだろう。エティエンヌ・タッサン [1]

 そのうえで、私たちの脱原発運動も含まれるであろう「政治的な行為」の世界における意味、歴史における意味を次のように述べている。

 ヒロシマからフクシマへといたる連続性が、原子力のファンタスムが含みもつ世界の破壊可能性にあるとすれば、またフクシマが、原子力の権能の無能さ、その裏面、その否定性を証言しているのだとすれば、世界の原子力ロビーに対して行われるべき政治的な行為は、世界のための行為ということになるだろう。それは、単に諸々の称えるべき、重要な行為のうちの一つというのではなく決定的な行為であろう。というのも、それのみが、人間の自由のもろさおよび世界の貴重な異邦性に結びついた無世界性の危険に加え、異邦性の状況が含みもつ哲学的な争点を凝縮するものだからである。この意味で、フクシマという名は、自然的・技術的な災害を指すだけでなく、同時に、コスモポリティックな戦いの象徴ともなるのである。エティエンヌ・タッサン [2]

 反核、反原発の運動は、けっして大げさでもなんでもなく、「世界の破壊可能性」への反対の強い意思表示に他ならないのだ。

 7月4日付けの東京新聞WEB版に福島の農地汚染の記事があった。エティエンヌ・タッサンの言う「コスモポリティックな戦いの象徴」の現場の話である。

 福島県農民運動連合会(農民連)は、二〇一四年度から遠藤さんの畑の放射能表面濃度を測定し続けてきた。
 一四年度はセシウム134、同137を合わせて一平方メートル当たり四二万九六〇〇ベクレルだった。
 事故から六年が過ぎた今年五月にも、同二二万七六〇〇ベクレルもの値が検出された。
 原発や病院など放射線を扱う施設には、無用な被ばくを防ぐために立ち入り制限などをする「放射線管理区域」が設定される。この区域の設定基準は同四万ベクレル。遠藤さんの畑の数値は、実に放射線管理区域の五倍を超えている。
     〔中略〕
 県農民連では一六年四月と五月に、県内の果樹園百六十二カ所を計測した。このうち百六十一カ所で、同四万ベクレルを超える値が出たという。会長の根本敬さん(59)らは、こうしたデータを基に、何度も国に悲惨な現場の実態を訴えてきた。
 だが話はかみ合わない。
 厚生労働省の電離放射線労働者健康対策室によると、農業法人などに雇用された労働者の場合は、「除染電離放射能障害防止規則」(二〇一一年十二月発令)に従って、雇用主に定期的な健康診断や被ばく状況の届け出などの義務が生じる。
 しかし、福島県の農業生産者の99%を占める自営農家の場合、雇用者がいないので労働者と位置付けられず、厚労省の所管ではないという。
 「被ばく防止のためのガイドラインはあり、対策を提案していますが、誰がそれを実施するのかといえば、ご自分でやっていただくしかない」と同省の担当者。農林水産省の生産資材対策室の担当者も「ガイドラインを活用していただくしかない」。
 根本さんはこう話す。
 「事故で農地を汚されても、農民は自己責任で働くしかないという。こんなバカな話はない。国は、きめ細かな汚染マップ作りをし、農民の被ばくの実態を把握するべきだ。その上で、福島県が農業をする上で大きなハンディを背負う地域になったという事実を認め、救済策を探さなければいけない。事実を事実として認める。その覚悟が今、国に求められている」

「除染電離放射能障害防止規則」とは、広範な汚染地が発生した東電1F事故後に除染に従事する作業者の安全管理のために作られた法律で、正式には「東日本大震災により生じた放射性物質により汚染された土壌等を除染するための業務等に係る電離放射線障害防止規則」(「除染電離則」と略称される)のことである。
 この法律の基となっているのは、放射線を出す装置や放射性物質を扱う事業所(会社や公的機関など)における放射線作業従事者の安全を図るための「電離放射線障害防止規則」である。そこでは管理区域での作業における線量限度などが細かく定められている。
 しかし、もともと放射線を扱う事業所は、事業所境界における線量限度を1mSv/年以下になるように義務付けられている。福島を広く汚染した放射能物質は東京電力福島第1発電所という事業所が営利を目的として利用していたもので、東京電力は事業所外の福島のすべての地での線量限度を1mSv/年以下にする義務がある。そのような法律だったはずだ。
 東京電力が事業所(東電1F)外の福島のすべての地を1mSv/年以下にする能力も資力もないために国が肩代わりするしかないのだが、「雇用者がいないので労働者と位置付けられず」などという厚労省の解釈は従来の法の趣旨とは異なる。ここで言う「雇用者」は東京電力で、「労働者」は東京電力の社員または下請け労働者で、福島の農民は事業所外の1mSv/年以下が保証されるべき一般人である。
 この記事で描かれた現実は、明らかに立法府のサボタージュと行政府の悪意ある法の運用が福島の地を覆っているということだ。「世界の破壊可能性」を日本の立法府と行政府が福島の地で担っている姿をはっきりを見せているのだ。

 「おしどりマコ・ケン」さんの報告記事も、福島の農業が置かれているでたらめな現実を明らかにしている(「DAYS JAPAN」の記事)。 
 おしどりマコ・ケンさんは、福島県が避難指示区域の農家の方々を対象に2016年11月11日に福島県川俣町で開催した「農作業における放射線対策と健康講座」を取材している。講座の講師は、放射線医学総合研究所(放医研)、県の農業総合センター、日本原子力研究開発機構(JAEA)からの3人、受講者の農民は6人。講演の内容は益体もないものなので省略するが、講演後の質疑応答の異様さを次のように報告している。

さて、一番取材したかった質疑。これが凄かったのです。
60代男性:自宅や農地の周囲は除染されています。でも自宅から農地に行くまでの道、林道や山の脇の道がまだまだ汚染されていて線量が高い。ここを通るときに被曝するのですが、県としてどんな考えですか?
JAEAの方:そういう場合は走り抜けてください!
(えええ! ケンちゃんと顔を見合わせました!)

自宅や農地には長時間滞在しますが、道には滞在しません、できるだけ早く通過してください。あと、除染されていないところも確かにありますが、待っているだけではなく、草を刈るとか自分でできることもしてください。
(それもまた被曝するよね……)

70代男性:私は大々的に農業をやっているわけではなく、家庭菜園程度です。が、草を刈ったり土埃が舞ったりしてそれを吸い込めば、内部被曝すると思います。
放医研の方:そういう場合は、鼻をかんでください!
(また顔を見合わせました!)

土壌にセシウムがくっ付いて離れにくい状況になっており、確かに吸い込みますが、鼻の粘膜に微量付く程度です。できるだけ鼻をかむなりすればよいのです。あと、マスクをすることも有効です。
(現在でも福島県内の農家の方々はマスクするよう言われているんだよね。でも真夏の猛暑の中、マスクをすることなんてできないんだって)

講座が終わったあと、出席された地元の方々にインタビューすると、「これが安心・安全の中身ですよ。あなた、これで安心して戻れる? 俺たちはね、被曝前提で戻れって言われてんの」と話されました。

 日本で原子力に関わる行政や研究機関の役人が「世界の破壊可能性」を実行する末端の仕事をしていることが見えてくる。立法府のサボタージュや行政府の悪意ある法の運用、そして下部機関の役人(研究者)の実態をすべて総合すると、やはり福島では「棄民政策」が採られていると思わざるを得ない。

[1] エティエンヌ・タッサン(渡名喜庸哲訳)「フクシマは今――エコロジー的危機の政治哲学のための12の註記」、村上勝三編著『ポストフクシマの哲学——原発のない世界のために』(明石書店、2015年)pp. 54-5。


 

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