ミヒャエル・エンデの代表作「はてしない物語」は幻想世界「ファンタージエン」を滅亡させようとする「虚無」との戦いのお話。
また「いわゆるピーターパン」作品群では、妖精を信じないと消えてしまうと語るエピソードがある。どちらにも言えるのは「関心」という一種のエネルギーが自分に向けられることを要求しているということ。これが常に供給されていないと幻想世界やその住人たちは存在を維持できない、らしい。
<坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。)>(銀河鉄道の夜(最終形)より)
空想癖の強いジョバンニは、機関車(初期形3では「軽便鉄道」とも)になり切ることで、どうも面白くならない自分の生活を紛らわそうとする。それこそが未知の世界への渇望であり、それこそが幻想四次元とよばれる空間を走る銀河鉄道を起動させることにつながった。本来であればそれは夢だから醒めれば消えてしまう。それっきり思い出さなければ二度と銀河鉄道が走ることはない。でもこれは物語として紡がれたものであり、仄青くすきとおった幻想性を愛する人が後を絶たない。「銀河鉄道の夜」は、1924年(推定)から書き溜められたまま賢治が没し、発表されることなく埋没の危機にあった。しかし遺族による保護と整理の甲斐あって世に出る事ができた。それから今日にいたるまで「関心」という暖かいエネルギーを供給され続けている奇跡的な作品となった。
さて、「幻想」という特殊な天地で作品を展開してゆく上で、もっとも人の関心を引き付ける強力な手段がある。ある意味、反則技なのだけど、むしろ読む人を喜ばせる効果もある。それを簡単に説明するには「風の又三郎」が好都合だ。
御存知の通り、「風の又三郎」は謎の転校生が主人公のお話だ。転校生の背後には、東北地方などで言い伝えられてきた風の子「又三郎(または風の三郎とも)伝説」の存在が影のように伺える構成になっている。いっぽう「風野又三郎」という草稿もあり、そちらは明らかに風の子(妖精か)又三郎として登場する。いわずもがな、これを改作したのが「風の又三郎」だろうと推察される。どこが改作されたかというと、人ならぬ者・又三郎を人間の転校生・高田三郎に置き換えたことだ。やはりどこか風の子の属性を帯びており、それについて肯定も否定もしない。そして風の強い日(二百二十日)に彼は去ってゆく。転校生の正体はついに明かされないまま、ただ強い風だけが校舎の曇ったガラス窓をがたがた鳴らすばかり。読み手は当然、消化不良な気分になって読了することになるだろう。でもその後についてあれこれ空想しはじめる。この瞬間、幻想世界は無限に拡大してゆく。登場人物について作者の責任において説明しないのはある意味では無責任である。でもその匙加減(説明の引き算?)は作品をイオン化し、読み手の興味と空想を強烈に吸い寄せる。読み手は空想を楽しむことで作品を多角的に味わうことができる。賢治が晩年に獲得した「引き算」の表現力といってよい。
「銀河鉄道の夜」に話を戻そう。
幻想四次元の鉄道について、その成り立ちを科学的に説明しない(最終形で削ぎ落とした)、駅で別れる人々の行方を説明しない、カムパネルラがどこへ行ったのか説明しない、などなど、絶妙な匙加減がこの物語にも見て取れる。ブルカニロ博士および黒い帽子のおとなを削除したのも同じ匙加減だったかもしれない。いずれも幻想の感度を高めようと工夫したのだろう。この方法に正解はない。何度も足したり引いたりしたのが初期形から最終形への推移だろう。
< 「ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のことに居なかつただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。」 >(初期形3)
これはジョバンニにどこからともなくセロのような声が聞こえて幻想四次元の世界を説明した部分。物理学的な表現で、知的好奇心をくすぐるような意図を感じる。しかしこの部分は最終形で削除されてしまった。理由は多分、ブルカニロ博士を排除したからだろう。それとともに、説明的な表現で物語の幻想性が濁るのを(というか、読みにくくなるのだろうか?)嫌ったのかもしれない。この引き算が正しいのか正しくないのか正直わからない。じっさいこれまでも校本や全集の編集に当たり、物語の質を問う議論や、物理的な推敲過程の調査などと共に、「引き算」への評価も俎上に上がってきた。現在は「最終稿」という暫定的な結論が出てはいるが、まだまだ議論されるべき作品だと思っている。
小学5年の頃に出会ってから、今日に至るまで、あの本は常に手元にある。居所が替わっても、本棚の一番上に必ず鎮座している。もう表紙は折り目から擦り切れ、原型を留めていない。仕方なく表紙を自作し、そこに元表紙の紙片をはさんで保管している。
日常の忙しさにかまけて普段は本棚に飾られている。けれど乾いた秋風が吹くようになり、空も雲もどんどん高く見える季節には、また本を手に取り、心の中の無人停車場に行って、いつまでも読みふけっていたくなる。読み続けることで、幻想四次元の住人たちは枯れることなく生き生きと活動し続けるだろう。いつかはジョバンニのその後の消息も知れるかもしれない。彼は、いや彼らは、まことのみんなの幸いを見つけることができたのだろうか。 (了)
また「いわゆるピーターパン」作品群では、妖精を信じないと消えてしまうと語るエピソードがある。どちらにも言えるのは「関心」という一種のエネルギーが自分に向けられることを要求しているということ。これが常に供給されていないと幻想世界やその住人たちは存在を維持できない、らしい。
<坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。)>(銀河鉄道の夜(最終形)より)
空想癖の強いジョバンニは、機関車(初期形3では「軽便鉄道」とも)になり切ることで、どうも面白くならない自分の生活を紛らわそうとする。それこそが未知の世界への渇望であり、それこそが幻想四次元とよばれる空間を走る銀河鉄道を起動させることにつながった。本来であればそれは夢だから醒めれば消えてしまう。それっきり思い出さなければ二度と銀河鉄道が走ることはない。でもこれは物語として紡がれたものであり、仄青くすきとおった幻想性を愛する人が後を絶たない。「銀河鉄道の夜」は、1924年(推定)から書き溜められたまま賢治が没し、発表されることなく埋没の危機にあった。しかし遺族による保護と整理の甲斐あって世に出る事ができた。それから今日にいたるまで「関心」という暖かいエネルギーを供給され続けている奇跡的な作品となった。
さて、「幻想」という特殊な天地で作品を展開してゆく上で、もっとも人の関心を引き付ける強力な手段がある。ある意味、反則技なのだけど、むしろ読む人を喜ばせる効果もある。それを簡単に説明するには「風の又三郎」が好都合だ。
御存知の通り、「風の又三郎」は謎の転校生が主人公のお話だ。転校生の背後には、東北地方などで言い伝えられてきた風の子「又三郎(または風の三郎とも)伝説」の存在が影のように伺える構成になっている。いっぽう「風野又三郎」という草稿もあり、そちらは明らかに風の子(妖精か)又三郎として登場する。いわずもがな、これを改作したのが「風の又三郎」だろうと推察される。どこが改作されたかというと、人ならぬ者・又三郎を人間の転校生・高田三郎に置き換えたことだ。やはりどこか風の子の属性を帯びており、それについて肯定も否定もしない。そして風の強い日(二百二十日)に彼は去ってゆく。転校生の正体はついに明かされないまま、ただ強い風だけが校舎の曇ったガラス窓をがたがた鳴らすばかり。読み手は当然、消化不良な気分になって読了することになるだろう。でもその後についてあれこれ空想しはじめる。この瞬間、幻想世界は無限に拡大してゆく。登場人物について作者の責任において説明しないのはある意味では無責任である。でもその匙加減(説明の引き算?)は作品をイオン化し、読み手の興味と空想を強烈に吸い寄せる。読み手は空想を楽しむことで作品を多角的に味わうことができる。賢治が晩年に獲得した「引き算」の表現力といってよい。
「銀河鉄道の夜」に話を戻そう。
幻想四次元の鉄道について、その成り立ちを科学的に説明しない(最終形で削ぎ落とした)、駅で別れる人々の行方を説明しない、カムパネルラがどこへ行ったのか説明しない、などなど、絶妙な匙加減がこの物語にも見て取れる。ブルカニロ博士および黒い帽子のおとなを削除したのも同じ匙加減だったかもしれない。いずれも幻想の感度を高めようと工夫したのだろう。この方法に正解はない。何度も足したり引いたりしたのが初期形から最終形への推移だろう。
< 「ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のことに居なかつただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。」 >(初期形3)
これはジョバンニにどこからともなくセロのような声が聞こえて幻想四次元の世界を説明した部分。物理学的な表現で、知的好奇心をくすぐるような意図を感じる。しかしこの部分は最終形で削除されてしまった。理由は多分、ブルカニロ博士を排除したからだろう。それとともに、説明的な表現で物語の幻想性が濁るのを(というか、読みにくくなるのだろうか?)嫌ったのかもしれない。この引き算が正しいのか正しくないのか正直わからない。じっさいこれまでも校本や全集の編集に当たり、物語の質を問う議論や、物理的な推敲過程の調査などと共に、「引き算」への評価も俎上に上がってきた。現在は「最終稿」という暫定的な結論が出てはいるが、まだまだ議論されるべき作品だと思っている。
小学5年の頃に出会ってから、今日に至るまで、あの本は常に手元にある。居所が替わっても、本棚の一番上に必ず鎮座している。もう表紙は折り目から擦り切れ、原型を留めていない。仕方なく表紙を自作し、そこに元表紙の紙片をはさんで保管している。
日常の忙しさにかまけて普段は本棚に飾られている。けれど乾いた秋風が吹くようになり、空も雲もどんどん高く見える季節には、また本を手に取り、心の中の無人停車場に行って、いつまでも読みふけっていたくなる。読み続けることで、幻想四次元の住人たちは枯れることなく生き生きと活動し続けるだろう。いつかはジョバンニのその後の消息も知れるかもしれない。彼は、いや彼らは、まことのみんなの幸いを見つけることができたのだろうか。 (了)