放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

時計台と運河紀行3

2022年11月06日 01時30分12秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 明るいところに出ると、緑の照り返しが眩しい。
 見れば、外壁のメロン色が夏の日差しを柔らかく受け止めている。これがエナメル質の白い塗装ならば、陽の光もひときわ鋭く感じただろう。森の中にある博物館は、その存在自体が奇跡的なのは言うまでもないが、その美しさにおいても奇跡的だと思う。
 美しさの要素として、この洋館が木造であることも特筆すべきである。外壁は横板が重なって段々畑のようになっている(横板の下の部分がせり出すようにして、その下にさらに横板を滑り込ませるように嵌められている)いわゆる「下見板張」と言う工法。かと思うと横板をフラットに嵌めている部分もある。なんか目的が違うのかな?それとも装飾的な意味?

 素朴なギモン。
 どのくらいの厚みのある板なのかわからないが、よく北海道の厳しい風雪に耐えるものだ。なぜ石やモルタルではなく木材で建物を造ったのだろう?
 このギモンは、旅の後もしばらく頭の片隅にくすぶることになる。

 博物館の背後にも歴史的建造物が控えている。いずれも木造建築。ゆっくりと歩をすすめ、一棟ずつ見て回る。中に入れないのが残念。

 足元に見たことないような大きなマツボックリが落ちている。エゾマツだろうか。エゾマツったって3種類くらいあるようだが、申し訳ない、マツボックリでは標札がないから見分けがつかない。とにかく大きい。クリスマスの飾りみたい(ってか、そのまんま)。
 お、木の根本で何か動いた?
 建物群の後では緑が密集していて陽も差さない。奥からせせらぎの音がする。
 その陽が差すか差さないかの境界をするするっと動くものがいる。

 エゾリス?

 尻尾にやや硬そうな黒い毛が混じって見える。
 エゾリスだ。写真でしか見たことないけど内地のリスとは明らかに違う。
 次の瞬間、小さく芝草を揺らして森の奥へ消えていった。

 ホントにここは2百万人都市なのかい?大自然そのまんまだよ?
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時計台と運河紀行2

2022年10月31日 01時00分43秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 北海道大学植物園には重要文化財となっている建物が複数軒ある。複数棟と言ったほうがいいか。
 その筆頭が国内最古の博物館建築である本館。竣工は明治15年(1882)。
 当初から北海道開拓使の博物場(後に札幌農学校の博物館)として使われており、今も現役の博物館。
 木造建築ながら、アメリカ開拓時代の教会を彷彿とさせる立派な洋風建築。
 外壁は板張り。なぜかメロン色に塗られている(この言い方でいいのか?)。屋根は鉄板葺の亜鉛塗装。銀色に輝く屋根とメロン色の壁。これが夏の緑に映えてなかなかいい。まるで宮沢賢治のお話に出てきそうな博物館。
 中に足を踏み入れると、板張りの床に靴音がゴヅン・・と響く。
 ゴヅン・・ゴヅン・・。しばらく音を楽しむようにゆっくりと歩いてみた。
 洋風建築なのにどうしてこうも懐かしい気持ちになるのか、不思議で仕方がない。
 次男坊はもうとっくに陳列ケースの迷宮の奥。BELAちゃんも先に行っている。僕はやっと剥製ヒグマの前。
 ゴヅン・・ゴヅン・・

 剥製ってやつは微かに死臭が残っている。毛がある個体ならなおさら消しようがない。そして星霜を経た陳列ケースもまた独特の匂いがある。古いペンキ独特の、かすかに酸っぱい匂い。これらの匂いが混ざると不思議な雰囲気を場に醸す。子供の頃、どこかで嗅いだこの匂い。やはり博物館と名のつく施設で嗅いだように記憶している。いちばん古い記憶は上野の科学博物館(旧館)か。そういえば恐竜の博士になるのが子供の頃の夢だったっけ。
 博物学という見知らぬ知の世界への憧れが、この匂いにはあるように思う。木製の陳列ケースだけでも十分博物学へ誘う魔力があるが、そこに陳列されるモノによって魔力はいっそう増幅される。あいにく基礎学力が追いついていないから恐竜の博士にはなれなかったが、それでも知的好奇心を失ったわけではない。何歳になっても好奇心が掻き立てられる瞬間が、確かにあるのだ。ここならば、そういう瞬間を思い出すことが許されているような気がした。
 賢治の話に出てくる博物局十六等官・レオーノ=キュステなどは、こういうところに勤めていたにちがいない。そこまで考えて、なぜ自分が木造の洋風建築に懐かしさを感じるのか思い出した。
 ゴヅン・・ゴヅン・・
 この靴音も僕の記憶を蘇らせる助けになった。
 この音は、かつて父の職場で聞いた靴音だ。東京にあった蚕糸の研究機関。
 あそこは古い建物がいっぱいあった。いまも残っていれば富岡製糸工場並の文化財群だったのではないか。そこの廊下がやっぱり靴音の響くところだった。
 ゴヅン・・ゴヅン・・
 
 目の前にエゾオオカミの剥製と頭骨がある。頭骨もまた微かな死臭を帯びている。
 オオカミとイヌの違いは眉間の出っ張りにあるという。確かにエゾオオカミの頭骨には出っ張りがない。でもオオカミとイヌの区別はもっと社会的なものだったはず。それと眉間の出っ張りはどう連動するのだろう。ずっと前に抱いた疑問を思い出した。恐らくまだ解明されていないのではないか。謎が解ければよし。謎が解けなくても空想の翼は無限の荒野に答えを求めて旅をする。これが博物学の醍醐味ではないか。

 ゴヅン・・ゴヅン・・
 やっと一周。小ぶりな展示室ながらすごい充実ぶり。旅先にて更に旅をした気分。二階にも行きたいが、残念ながら立ち入ることが出来ない。その先にも旅が続いているはずだが・・・。
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時計台と運河紀行

2022年10月21日 23時52分31秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました


 2022年8月21日(日曜日)、僕たちは北海道の小樽運河沿いにあるバル(酒場)にいた。
 重厚な一枚板の大きなテーブルに重厚な木の椅子。革張りのクッションはツヤツヤとカブトムシ色-黒ずんだ赤茶色-が年季を感じさせる。
 ホールの柱や梁はエゾマツか。ずいぶん太い。そして高い。その中央に、大きなポットスチル(蒸留器)、いや蒸留器はウイスキーだからコレはきっと別の機器だろう。恐らくビールの貯酒タンクか。
 そう。小樽でバルとくれば小樽ビールの出番だ。
 外は夕闇の静寂に運河も染まり、ガス灯が柔らかい光を空に掲げている。
 つまりロケーションも時刻も完璧。さぞ気分も盛り上がり、数段ウマいビールが飲めるはず。

 すこし説明が足りなかったか。
 順を追って話そう。
 僕たちは札幌と小樽を2泊3日で移動する計画を立てた。
 というより、小樽で捜し物をする、というのが元々の目的であったが。
 小樽での捜し物は人との約束だった。責任を伴う約束である。
 ところが2022年の夏は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)第7波の流行ピークがやってくるぞと予測されていた頃。そして予測どおり第7波は現実のものとなった。
 さらに今、政治も経済も大混乱である。戦争も起きた。某政治家も殺された。
 どうにも落ち着かない状況で札幌・小樽行きの日を迎えた。いまさら中止はない。捜し物、いや捜し事は決行である。
 
 2022年8月20日(土曜日)出発。
 仙台から千歳空港は所要時間も短く便数も多い。正午を待たずにもう北の大地へ着いてしまった。
 まずは札幌。
 目的地は小樽なので、札幌に興味津々な次男坊(なんで?)のための途中下車である(というか一泊するけど)。ひたすら歩くことになるだろうな、とは思っていた。
 札幌で、まず行ってみようと相談していたのが北大。北海道大学。しかし前日になって植物園にヒグマの剥製があることが判明。同じ北海道大学であるが、こちらは札幌駅を挟んで反対側(南)。まぁ、やっぱし歩くことになるのね・・・。
 札幌は大都市。高架線下の通りはまるで東京の品川あたりでも歩いてるみたい(あ、夏だからか?)に人通りが多い。
 道順に従って碁盤の目のような街並みを進む。
 途中、「六花亭」の看板を発見し大騒ぎしたりしながら進むと、古めかしい塀がぐるっと囲んでいる敷地に行きあった。
 花崗岩の重厚な基壇と金属塀、その奥には深い深い緑が広がっている。
 ここが北海道大学植物園。都市のど真ん中だというのに信じられないくらい広大な緑地が確保されている。
 本州で広大な緑地といえば城址か大名のお屋敷くらいだろう。つまり庭園のようなもの。仙台には庭園すらないけど。
 
 入り口にまわり、入館料を払い中へ。その先は時空を超えたように北の大地の森林が広がっている。
 早速出迎えてくれるのは幹の太い巨きなエゾマツ。幹の太さがハンパない。

 北海道の樹木は一言で言えば巨大。荒々しくて枝まで太い。その太い枝が不自然なくらいに低く垂れ下がりその先がぐいっと上を向いている。何がそうさせるかは一目瞭然。冬の風や雪だ。この幹が太いのは、寒い冬に幹の芯まで凍って破裂してしまわないように、枝が垂れ下がるのは雪の重みのせい。
 寒冷地の生物は巨大化するという。氷河期のマンモスのように。きっと極寒の世界で生きてゆくためだ。
 きっと君も長い時間を耐えてきたんだろう? 巨きな幹を見上げながらいろいろな空想をした。

 左の森でひどくカラスが啼いている。少し警戒音に近い。こういうときには近寄らない方がいい。
 まだ営巣しているのか。少なくとも歓迎はされていないようだ。頭を突っつかれるくらいなら離れるのがいい。

 そうやって森と森の間を真っ直ぐ突っ切ってゆくとその奥に建物が見えてくる。
 まるでアメリカ開拓地にある教会のような建物。緑色に塗られた板壁。
 率直に美しいと思った。
 これが北海道大学植物園の中にある博物館本館(重要文化財)。
 建物の奥にヒグマの剥製が見えた。

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雨の角館

2022年09月24日 03時13分37秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 ビールを愉しんでから数十分後、もう角館駅にいました。
 雨はだんだん強くなっています。
 お目当ての和菓子屋さんまでいけるかなぁ。
 まずは比較的駅から近い「新潮社記念文学館」へ行きましょう。
 
 ちょっと入り口間違えちゃって仙北市総合情報センターの方から入りました。
 エントランスには自習用デスクがソーシャルディスタンス確保しながら設置されており、学生さんが自習していました。
 邪魔しないように足音も少し抑え気味にそっと通り過ぎます。お、あっちは図書館だね。
 脇の連絡通路を通って新潮社記念文学館へ。
 受付で入館の申込み。するとカウンターに復刻版「橡の木の話」(富木友治・作、勝平得之・画)がありました。
 この本は秋田の誇る美術品と言っても良いのではないかと思います。角館の昔話を題材としており、秋田魁新報に掲載されたものです。のちに味わい深い版画が挿絵として装丁されて版行されました。作者の富木は角館出身。版画家の勝平は秋田市出身です。
 角館の文学・美術については平福穂庵・百穂親子が欠かせない存在ですが、「橡の木の話」のように豊かな文学風土があることも角館の自慢としてよいのではないでしょうか。
 そして新潮社を生んだ創業者・佐藤義亮もまた角館の出身です。
 
 雨の日は、本に囲まれるのも悪くない。
 少しカビ臭くて、インク匂いの染みた紙を繰って知らない世界に潜り込むのがまた良い。
 そう、新潮文庫の古い本はそんな匂いがしていた。 
 創業者・佐藤は、出版社で本を刊行する度に必ずこの記念文学館に寄贈していたそうです。
 その中には、今となっては大変貴重な書籍も含まれているのです。
 多くの書籍が新潮文庫として世に出ていく中で、ここ新潮社記念文学館は同じものを蔵し続けているのです。まるで砂時計のように。またはタイムカプセルのように。
 
 タイムカプセルからそっと降りて、元の連絡通路を戻ります。
 折角だから図書館の方も見てみたい。あ、仙北市民じゃないと閲覧できないかな?
 いやいや、そんなことないみたいですよ。
 早速「銀河鉄道の父」を速読。実感としては賢治の死後も賢治の顕彰と高村光太郎への支援を惜しまなかった姿も描いてほしかった。
 BELAちゃんも何か調べ物。ちょっと司書さんにコピーをお願いしたりしていました。

 雨の日に、お互いに本の世界を愉しみました。さあ、そろそろ角館ともお別れです。
 弾丸ながら楽しい旅でした。
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「護られなかった者たちへ」読了

2022年02月23日 01時12分44秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 本作はもともと地元の新聞に連載されていたのをポツポツと読んでいたが、映画化されるのを知り、あらためて興味が湧いた。で、書店で見つけたのを機に買って読み直そうと思った次第。

 これは刑事モノというジャンルでいいんでしょうか?
 仙台市のとあるボロアパートの一室で、身体を拘束され餓死した遺体が発見されるところから物語はスタートします。手足を縛り餓死するまで放置するという殺人方法に並ならぬ憎悪を感じ、ベテラン刑事が事件解決に挑む。やがて二人目の犠牲者が発見されて・・・。悲しくて、切ない話が仙台や周辺の地域で展開される。

 まぁず、仙台在住としましては、場面設定がリアルすぎてイタイくらい。
 登場人物の職場も実在するものに酷似しすぎ。あんまり悪く書かれると気の毒になります。

 特に注目すべき点 - この物語は、最後のセーフティネットと呼ばれる生活保護制度を土俵にして展開していること。
 護りたかった人
 護られなかった人
 護ることを忘れた人
 生活保護という制度の厳しい現状を生々しく描き出していて、寒気をおぼえるくらい。
 
 護るべきは何なのか。
 人それぞれだけど、誰かの大事なものを察する感度は持ち続けていたい。
 失いそうになったら、一緒に声を上げてみたい。
 それを偽善と嗤う人もいるけど、誰かが聞いてくれるならそれでもいいや。

 オトナになると、求めることが何かを奪うことになったり、
  我慢することが為にならないことだったり、
   助けることが貶めることだったり、
   助けないことがリスペクトすることだったり、複雑すぎるんだけど、
 何も気が付かないでいることが一番残酷だってことはよくわかった。
 
 「気持ち」的解釈をすれば、日本の福祉ってやつは、どうも「気づかないでいたこと」をひっくり返す人がいて少しずつ多様化していったようだ。
 多様化して複雑に展開していわゆる「セーフティネット」と呼ばれる形態に進化しつつある。だから財源と人材さえあればどこの国よりも高度なものが作れたはずだった。
 年金制度の破綻が世情を不安定にし、バブルを壊し、未だに世情不安から開放されない。だから心身に歪みを抱える人達が世の中を揺さぶり続けている。パッチを当てるが如く支援を試みるが、こっちも多様化しすぎてセフティネットではカバーしきれないでいる。これが今の現状。そのうち直接コミュニケーションを取るのが危険なくらいに誰しもが多様化しまくるのではないだろうか。そうなったとしても果たして誰かの大事なものを察する気持ちを持ち続けられるだろうか。

 「護られなかった者たちへ」は今タイムリーだけど、そのうち時代が進んで、理解出来ない話になってしまわないか、そう思うほどに今、世の中が怖い。
 

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鳥取➖松江➖出雲の旅#6(20191103出雲そばと四手拍)

2020年01月12日 20時44分26秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 2019年11月3日(日曜日)出雲のビジネスホテルにて起床。
 今日も晴れ。三日間天気には恵まれた。
 ホテルの朝食といえばバイキング。でもこれが一番地方の特色が出るということを今回の旅で知った。
 1階に降りると、食堂とロビーを一体化させたバイキング食堂が展開されていた。
 今日は何にしようか、おっと出雲そばだ。
 これはうれしい。昨日はソバ食べていないから、ここで食べないとこのまま仙台行って泣くところだった。
 
 まず温かいソバを一杯。天かすとネギを乗せて七味をパラリ。
 ははは、バイキングとは思えないほど本格的。
 出雲の郷土料理だろうか、煮物や煮魚がいっぱいある。今日は焼きサバ。
 気の所為か日本海のサバは脂キツくない。いや青身魚の脂キツいやつも好きなんだけど、今日のサバはすごく上品。
 なんでだろ。餌が違うの?
 それにしても山陰来てからホントにお肉食べていない。もっぱらサカナだけ。
 でもソバもっと食べたい。
 今度は冷たいの。丸い器にソバ盛って、そこへ直接ツユを入れる。今度は大根おろしを乗せてみた。
 いいねぇ、コレ。ホントにバイキング?

 やはり地方のビジネスホテルが地方色をしっかり押し出しているのって、大事なことかもしれない。
 宿泊客は夫婦も多かったけど、稼ぎにきた感じの人、または出張という雰囲気の人が確実にいた。今日どの都市に出向したか、昨日はどこか、覚えきれないスケジュールで仕事をしている人もいるかもしれない。そんな時に、朝、地方色豊かな郷土料理に出会えれば、それは小さな思い出になるだろう。日本全国のビジネスホテル、どこ行ったって同じモンしか出されない、というのでは悲しすぎる。朝からソバ食えるのはソバ好きにとったら幸せの一言。なんか論点ズレたな・・・。そろそろご馳走さましようか。


 数十分後、僕たちはJR出雲市駅前にいた。正面には大社造りを模した大屋根が大きく構えている。
 出雲空港行きのバス停留所をさがしつつ、すこしブラついてみる。
 JR出雲市駅前は寒かった。少し湿度のある風。秋用のコートでは少し足りないくらい。
 駅の脇の小さなアーケードでおばちゃんたちが朝市の支度をしている。アジ、サバ、そしてノドグロ。一夜干しがどんどん並べられてゆく。しかも安くない? これお目当てにきてもいいくらい。
 「おっとその前に、出雲大社の方角は?」
 「えーと、あ、地図だとこの方角かな。」
 駅前の案内表示板を見て大体の方角を割り出す。
 「こっちね。」
 「そうそう。」
 僕たちは二人揃って、大社の方角に四回お辞儀をして四回柏手を打った。「四手拍(しではく)」という。出雲の参拝作法だ。
 コイツら、何をしているんだ、と往来する人々が怪訝そうにこちらを見ていた。
 何を隠そう、ここまで来ていながら出雲大社にお参りする時間がない。結婚25周年の報告をすべきところだが、できない。バチ当たりもいいところだ。
 10:25に仙台空港行きの飛行機が出雲空港から出る。それを逃すと、もう今日の仙台便はない。
 ちゃんとお参りして出雲から羽田に行けばいいじゃん、そこからゆっくり帰ればいいじゃん、という考え方もしてみたが、2泊3日も子供たちに家の留守番をさせている。そろそろ罪悪感でおヘソのあたりがぞわぞわしてくる。罪悪感って、こじれると食事の味もわからなくなるし、どんな絶景にも感動しなくなる。
 そうなる前に仙台帰ろ、と僕が訴え、BELAちゃんも承諾してくれた。
 切ないことを言えば、仙台便をもう一便増やしてほしい。そりゃちゃんと出雲大社を参拝してから帰りたかったもの。

 午前9:00。バスが来た。「出雲縁結び空港行き」と書いてある。数人、ほんの数人だけが乗り込んだ。みんなこの時間だと仙台かしら?
 これが出雲の見納め。次は十年後かしら。そのころ元気に歩き回れるだろうか。
 
 バスはしばらく歴史の趣ある市街地を走り、それから郊外に出た。ほどなく大きな橋を渡る。橋の欄干に「斐伊川」と書かれている。そうか、ここがヤマタノオロチ伝説の川だ。確かに赤っぽい。緋色の川。川岸の泥まで赤い。やはり鉄分が多いのだろうか。川岸のアシが薙ぎ倒されている。すこし荒れている感じ。いまも雨が降ると暴れる川なのだろうか。須佐之男命や大國主命(別名・葦原醜男)は、治水でもって暴れ川を制した強力な統治者だったのだろう。この川と川岸の赤い泥こそが、昔も今も変わらない出雲の原風景のような気がした。
 
 出雲空港が見えてきた。もう旅も終わりである。
 詳しくは書かなかったが、素敵な出会いがいっぱいあった。勉強になったし、いろいろな繋がりが見えてきた。東北が東北だけで成り立っていないことも、少し実感できた。
 あと一週間、時間を貰えれば、行きたいところはいっぱいあった。そのまま山口の萩まで足を延ばしてみたかった。
 すべては、もっといっぱい仕事をして、その責務が終わるまでお預けということか。
 
 忘れていた。このあと、地べたを這うものの憂鬱が待っているんだった。 
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鳥取➖松江➖出雲の旅#5(20191102グー無しジャンケン)

2019年12月30日 02時00分26秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました

 出雲市駅に着いた頃はもうすっかり日も落ちていた。
 今更ながら時刻表を見ると、ほんのちょっとの差でもう後続の特急列車が出雲市駅に到着する。この特急、松江の発車時間は先発より20分も遅いくせに到着は5分くらいしか違わない。判っていればもう少し宍道湖を眺める時間が作れたかもしれない。ちょっと勿体なかったか。でも旅先で後悔と迷いは少ないほうがいい。考えるのやーめたっ。
 このままビジネスホテルに直行。カードキーを受け取り、部屋へ上がる。
 今日もお夕飯は居酒屋です。

 出雲市の街へ。ぐるりと廻ってお目当ての居酒屋さんに到着。
 魚料理がメインのチェーン店。戸をガラリと開けると、昨日とは違い、派手目の店内。予約していたのですぐ個室に通された。

 今日もビールは割愛して日本酒。二合ばかりの冷酒をコップに注いで飲もうと注文したけどイマイチ伝わっていないようだ。大丈夫か?もうコップだったら何でもいいよ。
 魚食べたい。焼き魚がいいかな。と思ったら、
 「今日、鯛の解体ショーやりますよ」と店員さん。
 た、鯛?また随分とかわいいサイズの解体ショーだね。

 隣の個室がやけに騒がしい。ただ呑んで騒いでいるだけに聞こえない。テレビ点けてる?居酒屋なのに?
 ああ、今日はラグビーワールドカップ2019の決勝戦だ。

 今年はすっかりラグビー「にわかファン」だった。
 おもしろかった。感動した。
 それが今日終わってしまう。
 さっき頼んだ焼き魚(ノドグロ)が来た。お酒もきた。何コレ、「もっきり」じゃん!やっぱり伝わっていなかったみたい。まあ飲も飲も。
 すっかりノドグロ気に入ってしまった。
 白身魚だからサバほど脂がキツくないし、かといって魚の味はしっかりしている。
 なんか山陰地方にきてから肉ほとんど食べていない。魚肉ばかり。だけど全然飽きない。
 ご飯おいしい。お酒おいしい。お魚おいしい。来てよかった。

 「まもなく解体ショーはじまります」
 せっかく店員さんに誘われたからね、そっち行きますか。

 のそのそと個室を出て広いところに行く。
 僕たちを含め四組くらいのお客さんが台の上の大きな俎板囲む。俎板の上には、ガーゼにくるまれたものが乗っかっている。結構デカい?

 ガーゼを取ると、そこには大きな鯛が載っていた。デカいなぁ。魚屋さんでこんなのよぅ見んで。
 「8キロ超えの鯛です。ふつう養殖やと2キロ超えたら水揚げしてしまうんで。こんなんは養殖あらしません。漁師さんの網にかかった紛れもない天然モノですワ。」
 顔ゴツい。ヒレでかい。高級魚というよりギャングフィッシュちゃうか。
 島根の沖合では隣国の漁船も来ている。日本の漁師さん、よくこんな大物を持ってきてくれたと感謝すべきなんだろう。

 「では解体ショー始めます。」
 板前サン、柳包丁を取り出し、鯛のエラからずぶりと突き刺して捌き始めた。
 首の付根に包丁を廻し、脛骨を切り離す。これでお頭部分が切り離された。このお頭を唇から包丁を差し込み、キレイに真っ二つにする。
 次に身を中骨からキレイに剥がす。正確には包丁を水平にして中骨ギリギリのところを切り分けているのだけれど、まるで剥がすように正確に分けられてゆく。こうしてお頭二つ、身も二つの合計4つに切り分けられた。
 「さあ、こちらを皆さんでジャンケンして分けてもらいます。1番2番さんにはカマ焼きを。3番4番さんには身をお造りにします。」
 あ、そういうこと?
 「どっちジャンケンする?」
 とBELAちゃん。
 「キミ行きなよ。」
 「えー、負けたらイヤだー。」
 「大丈夫」
 勝つ気なら、大丈夫。逆なら難しいけど。
 4組からそれぞれ一人ずつ、4人が輪になる。
 「どうしよどうしよ。どうしたらいい?」
  絶対グー出しちゃダメだよ。
 「え、なんでなんで?」
 「それではいーですかー? ジャーンケン、ポイ!」
 BELAちゃんチョキだしたから三つ巴になり、アイコでショ!
 ・・・ほら勝った。
 ありがたい事に皆さんがグー出してくれて、パー出したBELAちゃんが一人勝ち抜けした。
 ね、グー出さなければ勝てるでしょ。

 裏を返せば、みなさんが潜在的に遠慮したということなのだ。
 突然鯛の解体ショーに集められた。まぁ見るだけ付き合いましょかという心持ち。
 え、捌いた部位を呉れる? どうしよう。別に無理にほしいわけでもないんだけどな・・・。
 っていう心理が皆さんにグーを出させてしまう。遠慮しつつ出す手はグーなのだ。
 もちろんジャンケンだから時の運。チョキ出す人もパー出す人もいないとは断言できない。
 けれどグーを出す確率はこの場合有意に高い。
 
 というわけで、鯛のカマ(頭)焼きゲット!
 やっぱりデカいな!

 

 というわけで早速箸をつける。
 テレビではラグビーワールドカップにおいて南アフリカが優勝した旨伝えていた。おめでとー。

 まず頬っぺたの肉。
 おおー醤油いらないくらい味が濃い。
 それから首の肉、目の周りの肉。おいしー。
 焼き加減もちょうどいい。中まで火が通っているのに肉汁がいっぱい残っている。
 とにかくバラす。バラす。バラしまくって本当に骨だけにした。
 日本海サイコー。大和堆サイコー。鯛もサイコー。

 本当に山陰来てから三食とも海産物ばかり食べている。塩分は多めだけど、幸せも多め。
 いやぁ。食べた食べた。さて、明日はもう仙台。

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鳥取➖松江➖出雲の旅#4(20191102神々の黄昏)

2019年12月19日 02時06分26秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました

 月照寺の山門を出る。
 もう随分と日が翳ってきていた。
 やがて宍道湖の向こうに日が沈む。「神々の黄昏」が始まっていた。
 北欧神話のラグナ・レクと違い、神々は滅びない。宇宙樹も枯れない。宍道湖の向こうに夕日が沈む。宍道湖の向こうには出雲大社。祀神は大国主命。根の堅州国(死者の国)の王でもある。その出雲大社に向かって夕日が神々しく沈んでゆくのである。日没と日の出を入滅と再生になぞらえるという意味ではラグナ・レクと根源は近しいものがあるかも。25年前の今ころ、僕たちは宍道湖の岸辺にいた。そこで4枚の写真を撮った。一枚目は二人で宍道湖に向かい座っているところを背後からタイマーセットして撮った。二枚目もほぼ同じポーズ。三枚目で振り返り、四枚目は誰もいない宍道湖を撮った。もう少し茜色であったならば、かなりいい感じの夕湘景だったと想う。
 松江市内にはいくつか「神々の黄昏」を拝めるポイントというのがあって、今回狙っていたのが島根県立美術館の庭園だった。また時刻とポイントさえ合えば、JR山陰本線からも拝めるのではないか、などど考えていたが、現在居るところはそのどちらでもない。月照寺の山門だ。

 どうやって戻ろう? ってかどっちに行くの?

 いろいろ迷って、JR松江駅に戻ることにした。エキナカで和菓子も買いたいし、そもそも今日は夕方6時過ぎにはJR出雲市駅ちかくのお宿に入っていなければならない。
 循環バスだと到着時間が読めないからやっぱりタクシーを呼ぶことにした。
 ところが・・・。
 なかなか来ない。そのうち循環バスが一本通過していった。なんかこういうのって妙にアセる。
 どんどん日が翳ってきたぞ。そんなに日没早いの?
 ってかもっと空が夕日の染まってもいいはず・・・、はず。
 はず? あ、タクシーきた。

 どうも空の様子がおかしい。
 日が翳っているのは、曇ってきたんでないかい?
 宍道湖を渡る橋の上から西の空を見る。雲多いな。お日様すっかり隠れている。
 太陽の下半分が雲から覗いていて、まるで漏れているかのような日照がぼんやりと雲に滲んでいる。光が弱くて空がぜんぜん茜色に染まっていない。これはキビしいぞ。

 松江駅に着くと、すぐにエキナカで松江の和菓子を爆買いしてJR山陰本線に飛び乗った。せめて移動しながら「神々の黄昏」を拝みたい。
 25年前、僕たちは5時頃まで松江に居て、それから一畑電鉄で出雲に行った。一畑電鉄は宍道湖の北側を回るので当然夕日は拝めない。山陰本線ならば宍道湖の南側なので運が良ければ夕湘景が拝めるだろうか。
 ところが、宍道湖がよく見える側の席には座れなかった。そんでもって意外と混んでいて、ゆっくり景色を拝める状況にない。折角在来線を選んだのに・・・。こんなことならもう少し松江にいて特急に乗ればよかった。
 相変わらず雲が厚い。夕日はまるで雑炊に沈む玉子のよう。白身が邪魔で輪郭さえよくわからない。ほんの少しだけ夕日が湖面を照らしていたが、やけに遠く感じられた。
 こりゃやられたね。まいったまいった。

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鳥取➖松江➖出雲の旅#4(20191102贔屓は引き倒してはダメ,ってなんのこっちゃ)

2019年12月10日 23時27分21秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました

 ビジネスホテルに戻り、預かってもらっていた荷物を受け取る。もう鳥取を離れる時刻が迫っていた。
 昨日買った二日間周遊券は、JR山陰本線の特急(自由席)でも在来線でも乗り降り自由な切符。今日の予定は、松江で途中下車し、その後出雲市まで行こうというもの。昨日「みどりの窓口」で教えてもらった周遊券のお陰で随分資金が浮いた。
 もう午後1時はとっくに過ぎた。松江に着く頃はもう夕暮れだろう。だから鳥取駅で駅弁を買うことにした。山陰鳥取といえば「かにめし」が全国的に有名だが、あらかた売り切れでお目にかかれず、「かに寿司」のほうを選択した。BELAちゃんは「かに幕の内」。
 急いでプラットホームに上がる。すると、お客さんが一箇所に集まっている。なんでここだけ?
 ぶら下がっている車両番号などの札をよく見ると、山陰本線の特急車両が2両編成となっている。しかも1両目は指定席、2両目が自由席だ。で、そこにお客さんの列ができている。半信半疑で列の後ろに並んだ。気のせいか、お客さんの半分はやはり半信半疑な顔している。ま、ここが始発だからね。席にあぶれることも無いでしょう。とりあえず人の居るところが無難かな。そういうふうに札に書いてあるんだし。

 列車が来た。「スーパーおき」。ホントに2両編成。

何だか、かわいい。
 取り急ぎ自由席を確保する。どの席も進行方向を向いている。お、車両にトイレも付いている。確かに特急列車だね。
 おそらく、ローカル線っぽい特急列車というコンセプトではないだろうか。同様に2両編成の観光特急「天地(あめつち)」も向こうに停車していた。こちらは少し神がかったコンセプト? こういう列車に周遊券で乗れるというのだから、お得感はしっかりある。お得感は旅を楽しくする。
 2両編成は乗客数から割り出した車両数なのかとも思ったが、それだけではないだろう。高齢者の足代わりという典型的なローカル線とはちがい、学生さんが一定以上乗っている。子供連れの女性もいる。要するにそこそこ賑やかなのだ。けっして寂れていない。

 僕たちは早々に駅弁を平らげて、窓の景色に見入っていた。
 海が見える。日本海だ。
 真冬の日本海とちがい、それほど荒れていないように見える。小さな漁村、寿司屋の看板、山を差し挟んで、次の瞬間また海原が広がる。遠くの岬、松林。ふと鳥取で出会った人の言葉が蘇る。
 - 昔、ここが日本のオモテでした。玄関でした。-
 秋津島で小さなクニが出来つつあった頃、大陸では魏の司馬懿仲達が遼東半島の大虐殺を行っていた。
 大陸の凄まじい強欲と殺気を恐れた小さなクニたちは連合国家を作ることを思い立つ。鳥取は大陸の殺気に晒されやすいので、王たちは瀬戸内海の最奥である難波、そして大和盆地へ拠点を移し始める・・・。
 ・・・ってな感じで妄想するのにぴったりなのが日本海の海原と青い空。
 少し眠くなってきた。

 今日はお宿を出雲市に取っている。しかし、その前に松江にちょっと寄りたい。
 松江は25年前の旅でも、とても印象深い地だった。
 松江藩第7代目藩主・松平治郷公(不昧公=茶道不昧流祖)によって松江はお茶処となった。お茶といえば菓子。そう和菓子。
 そして宍道湖七珍と小泉八雲。
 そして25年前に見た宍道湖の夕日。このときは夕日が傾いたぐらいで一畑電鉄に乗って出雲へ移動してしまったので、まあ不完全といったところか。
 今回は島根県立美術館の庭から宍道湖に映える夕日を見てみたい。という計画であった。当初はね。

 松江駅に着く頃にはもう午後の3時を廻っていた。11月ともなれば夕暮れは釣瓶落しの如く、である。のんびりしていられない。
 当初は大急ぎで和菓子屋さんを巡ろうと思ったが、当たり前だけど時間が足りない。
 でも、エキナカの売り場がすごく充実していて助かった。知っている和菓子屋さんはほぼ揃っているし、宍道湖の水産物もたくさんある。じゃあ、美術館に行った後にお土産屋さんを攻めようか。 
 すると、BELAちゃん「月照寺に行きたい」。
 「月照寺?」
 「うん、美術館も行きたいけど、月照寺。大事な処だから。」
 月照寺かぁ。時間は出来たのは確かだけど、夕暮れには松江駅に戻りたい。微妙だぞ。
 「松江にはお城とか小泉八雲旧居とか寄りたいとこたくさんあるけど、やっぱり月照寺。どこか1箇所しか寄れないなら他は考えられない。」
 わかった。思い切ってタクシーを拾おう。これしかないよね。
 
 月照寺の山門に着いた時には、何となく日も陰り、あたりに人影はなかった。
 お参り前に庫裡へ。時間ギリギリだったけどお抹茶をお願いした。
 座敷に上がると先客がいた。僕はお構いなしに縁側へ向かう。ここなら庭園が見渡せる。
 「ちょっとちょっと」
 BELAちゃんに袖を引かれた。「だめでしょココは。ちゃんと毛氈の上に座らなきゃ。」
 そお?10年前に子どもたちと来た時には縁側OKだったよ。
 「あれはまだ暑い頃で、涼めるように配慮してもらったんでしょっ」
 ずるずると後ろに引っ張られた。
 お菓子が運ばれてきた。「路芝」だ。青々とした色彩が季節的には合っていないが、それでも月照寺といえば風月堂の「路芝」。
 ひさしぶり。この素朴な甘さがいい。そしてお薄(抹茶)。ああ松江に来たな、と思えるのが月照寺でお茶をいただく瞬間だ。BELAちゃんがここへ来たかったのも頷ける。
 何を隠そう、ここは松江藩主家の墓所である。実は鳥取でも鳥取藩主家の墓所に伺っていた。鳥取藩主・池田家の墓所は山沿いにありながら、日当たりがよくさっぱりしていた。いっぽう松江藩主・松平家の墓所はすこし鬱としている。こころなしか地面も多分に水分を含んでいる。まるで水脈の上に立っているような感覚。鳥取藩主墓所を山のお宮になぞらえるならば、松江藩主墓所は水のお宮だろうか。
 月照寺には不思議なものがある。それは墓所の奥のほう、古びた門を潜った先の左手にある。巨木が脚をむくむくと広げている間に巨大な亀(のような怪物)が。これまた巨大な石碑を背負っている。松江藩六代藩主を寿ぐ寿蔵碑である。俗に「月照寺の大亀」と呼ばれ、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン1850-1904)の妻セツがこの大亀を、夜な夜な街に出て人を食う怪物として語った逸話がある。
 大亀そのまんまであるが実は亀ではない。龍の子供だという。名を「贔屓(ひき)」という。詳しい説話はインターネットに散見できたが、長くなるので省略する。
 実は鳥取藩主の墓所では、墓石全てがこの寿蔵碑のように贔屓サンの背に竿石を立てている。こういう石碑を亀趺とも言う。鳥取藩と松江藩。隣の藩同士、共通する何かがあったのだろうか。ナゾは深い・・・。

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鳥取➖松江➖出雲の旅#4(20191102民藝)

2019年11月27日 02時06分57秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました

 日付が変わって11月2日(土)朝
 朝風呂浴びようかとも思ったが、今日もそんなに時間に余裕がない。
 ある程度荷物をまとめてから早めにバイキング朝食へ向かう。
 昨日から気がついていたが、ここは外国からの滞在客が多い。特にアジア系、アフリカ系。バイキング朝食ならいろいろあるから食べるものに困ることはないのだろう。多分・・・。
 さあ、て、何を食べよう。見渡すとバイキングで好物なウインナーやスクランブルエッグがない。これはちょっとショック。その代わりサバの切り身(焼)、煮物、豆など、かなり純和風がなものが揃っている。さっきの外国人、食べられるものあるだろうか? ああサバの切り身がおいしい。なんか鳥取来てから何食べてもおいしいなぁ。京都、姫路、出雲などの交差点である鳥取には、美味しいものが沢山留まり豊富な食文化が生まれたのだろう。ここは豊かだ。
食後にコーヒーを飲み、ごちそうさまをした。

 程なくチェックアウト。でも鳥取でまだ寄るところがあるので大きな荷物は預かって貰うことにした。
 移動途中、鳥取城を拝む。山全体を幾重にも郭(くるわ)がとぐろを巻いている。まるで中世の山城。積層型の連郭城塞である。
 仙台城もなかなかの山城であるが、鳥取城は標高も規模もまるで違う。ここも和製マチュピチュの一つだね。

 ビジネスホテルに荷物を取りに戻るまえに、ちょっと寄り道をした。
 
 「鳥取民藝美術館」と併設する「たくみ工芸店」。
 民藝美術館の脇には、何やら八角柱の不思議な建物が。入り口には鉄柵があり中は薄暗いが、どうもお地蔵さんが安置されているように見える。それもかなりの数。
 なんだろ、これ。
 脇の看板には「童子地蔵堂」と書いてあった。
 子供の墓として作られたものだというが、無縁仏になり鳥取周辺に放棄されていたという。
 ちょっと異様な雰囲気だが、きっとこれは良いことなのだろう。野晒しの仏様を保養しつつ供養しているのだから。
 で、民藝美術館へ目を遣ると、まず階段に目が行く。ざっと十段はある。しかもけっこう急な勾配でないかい? 
 少し風化した石段に歳月を感じる。たどり着いた扉は木組みの引き戸。
 レールの上をきしむ音、そこへかすかに塩ビ材質のよじれる音と、嵌めガラスが鳴る音が交じる。
 それは幼い頃そこら辺でよく聞いていた音。サッシ戸では絶対出ない音。

 「吉田璋也」(1898-1972)という、医師にして民藝運動家という文化人が主宰となり建てられた。やはり若い頃に柳宗悦、河井寛次郎と親交があった。現在の建物は鳥取大火の後、昭和32年(1957)に改築されたもの。石倉造り。やや風化した花崗岩の肌がいい感じ。
 中に入ると重厚な箪笥。まるで刀箪笥のよう。そして年季を感じさせる棚がずらりと並んでいて、さまざまな器を並べている。半世紀くらい時間を遡ったような錯覚をおぼえた。

 民藝運動がどのようなものなのか、現在の感覚でこれを説明するのは難しい。簡単に言ってしまえば芸術家の美ではなく、日常にある美を再発見しようというもの。
 手作りの日用雑貨ならではの実用性・機能美・そしてささやかな装飾美。それが「民藝」。一部の芸術家ではなく、技術力のある職人ならば幅広く生み出すことができるもの。これがモノづくりに対する誇りを呼び起こし、民藝はいよいよデザイン性、整合性において進化し続けた。
 大量生産とバブル崩壊によって、モノづくりに対するモラルとクオリティは貧しさの一途だが、それゆえに「民藝」という考え方は古き良き日本のノスタルジーすら背負ってしまった。「民藝」の持つ重厚さのようなものが、次第にとても得難いものとなってゆき、今では美術館か高級デパートでしか見られない。そう。結局「民藝」は骨董美術品になってしまった。濱田さんの器、芹沢さんの染め物、もう手に触れることも使いこなすことも許されない。「民藝運動」を知る上で重要な資料であると同時に、これらはもう現役の「民藝品」ではない。きっと「民藝」は、次々と新しい作家さんたちによって継承されながら生み出されてゆく瑞々しい日用雑貨にことを言うのではないだろうか。願わくば、材質を天才的に活かしつつ、飽きさせないデザイン性を保ちながら、人々の手に手に渡りながら愛玩されるもの。またはそういうモノづくりの運動であってほしい。
 隣の「たくみ工芸店」でいろいろ作家さんの作品を見て回り、BELAちゃんは和紙雛などお土産に数点買った。

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