鳥取に着いてから、まだご飯を食べていない!
こんだけ食べてまだ食べるんかい!と言わんでほしい。さんざん地元のお酒を呑んで、魚食べて、郷土料理を食べて、それでご飯だけ食べへんいうのは無礼やと思う。
そもそも、お昼は羽田空港でソバ。だからぜんぜんお米食うてない。
ちら、と店内を見渡すと、お品書きに「へしこの出汁茶漬け」とある。
お店の人に「『へしこ』て何ですか」と訊くと、「サバです」と返ってきた。
「あ、じゃあ、へしこのお茶漬けください」
「はい」
実はこれには若干の説明が必要だ。
訊いた当初は「へしこ=サバ」という理解をしたが、これは間違い。サバをヌカ漬けにしたものを「さばへしこ」と言うらしい。さぞやご飯の大親友なのだろう。
いつのまにか隣で呑んでいた土木関係のおっちゃん二人組は帰ってしまった。ぱぱっと呑んで、すぅっと帰る。関西弁やったけど何や「ちゃきちゃき」しとったな。
へしこの茶漬け、きたでぇ。ご親切にも小鉢をつけて取り分けられるようにしてくれはった。
お米がおいしい。やっぱり「へしこ」がよく合う。へしこ一切れで何杯でもいけそう。ホンマご飯の大親友や。
一気に食べた。おでんもお魚もお酒も完食・完飲。
うわぁお腹きっつい(あ、こりゃ東北弁かな)。
「ごちそうさまでした。」
まるで井○五郎が二人来たみたい。
お宿に戻ってお風呂に入ることにした。大浴場が待っている。
やはり大浴場は欠かせないだろう。無いと泣きそうになる。客室のユニットバスではシャワーくらいしか使えない。お湯を張ってもせいぜいお腹が浸るくらい。
一昨年、大浴場ナシのホテルに6日間カンヅメになった。あれも11月だった。11月といえば温かいものが恋しい頃。それなのにお腹までしか湯に浸せない。ユニットバス内でしんしんと冷えてゆく背中。あれは泣いた。と言うか哭いた。以後、ビジネスホテルと言えども大浴場は絶対欲しいと思うようになった。あとランドリーも外せない。
大浴場はジャグジーまでついていて豪華。最近のビジネスホテルって何てゼータクなんだ。
身体を洗ってからお湯の中へ。首まで浸かり思う存分足を伸ばす。あ゛ー・・・思わず声が出る。
一階のロビーでマンガ本を貸し出していたので一冊借りてくる。明日の朝食バイキングが楽しみ。
鳥取の夜はとても静か。ビジネスホテルだからだろうか、夜遅く騒ぐ人もいない。
今日はとても素敵な出会いがいっぱいあった。生きている人にも、そうでない人にも、とても良くしてもらえた。
明日は松江へ行く。いい出会いがあるといいな。
実は今回の旅はBELAちゃんの仕事がメイン。
「結婚25周年旅行中!(はあとまーく)」と叫ぶ前に、鳥取に行かなきゃならない事情があったのだ。
それゆえに旅行の計画は全てが急で、BELAちゃんは泊まる宿の確保にも空路便の確保にも苦労をした。
ここ「鳥取砂丘コナン空港」でも、観光設備を愛でる余裕なんぞあろうはずもなく(喫茶ポワロにも寄らず、物陰に潜む怪盗キッドにも気づかず)、ただひたすら発車を呼びかけている鳥取駅行の循環バスに飛び乗った。
・・・。なワケで。
ここから先の行程については、僕らの勝手では済まないので伏せておく。諸事すませて鳥取駅前のお宿に辿りついた時にはもうすっかり日が暮れていた。
本日のお泊りはビジネスホテル。ただし大浴場あり。ここ大事なポイント。
BELAちゃんが苦労して大浴場のあるビジネスホテルを捜してくれたのだ。
とりあえず、カードキーを受け取り、客室へ。荷物を置いたらすぐに街へ出た。今日はお店を予約しているのだ。
鳥取駅前で明日乗る列車の時間を確認。乗車券を買い求めに「みどりの窓口」へ。いろいろ仙台にいてもJR西日本の特急券が買える予約アプリがあるのは案内ポスターで分かったけど、せっかく窓口来ているんだから、直接訊いて買えばいいということに。で、二日間乗り放題乗車券を買えば、特急の自由席にも乗れておトクだと教えてもらった。さすが「みどりの窓口」。予約サイトだけの情報じゃあ分からないことって結構あるよね。
明日の切符も買えて安心した。ご飯食べにいこっ。
鳥取駅前は繁華街の様相はしっかりとあるものの、せかせかしていなくてイイ。人通りはあるのだが、どこかゆったりしているから雑踏にイライラしなくて済む。
お店はちょっと迷ったけど、すぐに分かった。さっぱりとしたお店。居酒屋だが、郷土料理もある。こういうお店は好き。
お通しを頂いて、地酒飲み比べ、刺し身盛り合わせ、郷土料理盛り合わせを注文。荒っぽい注文だったけど、これが美味しかった。
刺し身を口にすれば、旨くてふ、ふ、ふ、と笑みが漏れる。
郷土料理のらっきょう、ホタルイカなど、これまた、ふ、ふ、ふ。
地酒を含み、また刺し身で、ふ、ふ、ふ。しばらくお互いニヤニヤしながら箸を動かしていた。不気味だったかも?
僕らも魚が美味いと言われる県から来たのだが、山陰の近海魚も美味いと思った。魚が美味いということは、お酒も美味しく呑めるということ。日置桜、鷹勇、諏訪泉に辨天娘。出羽上越下越の地酒は硬度があるが、同じ日本海でも山陰の地酒はそれほど硬度を感じない。フォッサマグナを境にして、水の味が違うのではないかというのが個人的な見解だが、これはこれで呑みやすい。自然と箸もお皿に伸びてゆく
ところが一つだけ困ったことがある。
箸を運べば運ぶほどお皿の上が寂しくなってゆくのである。これはどうしたことだろう。
隣の席にもお客さんが座った。土木関係者のようだ。飯場の話をしている。
さて、と。お皿の上がどんどん寂しくなってくる。おでん行っとこか。あれ、本日の焼き魚はノドグロか。
さっそく、おでんとノドグロを注文。お酒も日置桜を追加。と思ったらもう在庫がカラのようで、鷹勇にする。
おでん来た来た。大根軟らかそう。おでんで正解。二人で手際よく二等分して口へと運ぶ。そこへノドグロが運ばれてきた。
大きめのアジと同じくらいのサイズ。でも焼き魚を箸でつつくと雪のような白身である。とても上品な味。高級魚だと聞いていたが納得。
東北地方の沿岸部でも「どんこ(エゾアイナメ)」という白身魚がいるが、こちらは見た目はともかく、味は上品と言える。でも姿があまり上品ではないので姿焼きにはなりにくい。ノドグロは姿焼きOKだから、こっちのほうが有利かな。
美味しいお魚は、首の付根の肉がごちそう。それから頬の肉、目玉の周りのゼラチン。怖がらずに召し上がれ。よく動かす部位の肉は発達しているからなのか確かに美味い。頭骨も完全に分解してキレイに食べた。
ここではた、と気がついた。
鳥取でまだご飯、食べていない。
空から見ると、鳥取砂丘はこんなにも小さかった。
機内のアナウンスでは東西16kmとのことであったが、とてもそんなに大きいとは思えない。
防砂林を展開して砂が広がらないようにしているのかもしれない。
機体はどんどん高度を下げて砂丘の向こうへ移動してゆく。この先に鳥取砂丘コナン空港がある。
鳥取は仙台と直接のアクセス便がない。僕たちは仙台から新幹線で東京へと出てきて、羽田空港から鳥取へと向かったのだ。日にちは2019年すなわち令和元年の11月1日。他の地域では神無月(旧暦)だが、山陰とくに出雲地方に近づくと「神在月」と呼び習わす。
思えば25年前の今頃、やはり僕たちは鳥取空港(旧称)に降り立っていた。羽田からはなんとレシプロ(プロペラ)機のフライト。途中エアポケットの恐怖にも遭遇した。手の平は冷や汗でべっとり。首尾よく着陸してタラップを降り、アスファルトの上を歩きはじめて、何気に膝に力が入らないのがわかった。その時改めて陸にへばりつく生き物の在り様を思い知った。つまり、「もう落ちない」ということがこんなに幸せなことなんだと初めて知ったのだ。
実にこれが25年前の山陰旅行の皮切りであった。山陰旅行は、僕らの新婚旅行だった。迂闊にも神無月に神前結婚なんぞ企画したために、その後、わざわざ神在月たる出雲大社へと結婚の報告を奏上しに罷り越した。しかしあの時、鳥取に着いて最初にやったのは、砂丘でラクダに乗ることであった。真っ先に出雲の大社にて四手拍を打つべきところを、まずラクダで砂丘を逍遥し、記念撮影をした。バカバカしく聞こえるかもしれないが、それが一生忘れえぬ旅のはじまりであった。
奇しくもあれから25年。不思議な縁でふたたび山陰の旅がはじまろうとしていた。
「鳥取砂丘コナン空港」と名称が変わったのは、いつからなのだろう。飛行機が車輪を出して、滑走路がどんどん近づいてくるのを機内から眺めつつ、ぼんやりと考えていた。もちろん考えたって手元に情報はない。通信機器も入電できないし、添乗員さんに訊ける話でもない。ただ、飛行機が高度を下げるたびにひどく揺れたり上下にすぅっと振れたりすると、内臓の血流が逆流しそうになる(飛行機の操縦で一番難しいのは離陸よりも着陸だそうだ)。つまり今、なにか気を紛らわせるものが必要なのだ。つらつら考えているうちに、ゴツンと足下に衝撃があたり、次に機首がガクンと下がり、エンジンの物凄い轟音とともに前方に向かって身体が引っ張られた。
そうだった。鳥取の空港では必ず逆噴射がある。
窓の外では翼のエアブレーキが全開になっているのが見える。わかりやすく言うと、滑走路が短いから飛行機は着陸と同時に急ブレーキをかけないとオーバーランしてしまうのだ。
とりあえず無事到着。あらためて我ら陸にへばりつく生き物の歓喜の歌を聴いた気がした。
花巻楽しかった。けど、もう離れなければならない。
午後を廻っている。暗くなる前に仙台に戻りたい。
とか言いながら、相変わらず高速(東北道)には乗らず県道をひたすら南下する。
みんな何となく迷っていた。
まっすぐ仙台に帰るとその分早く休日は終わってしまう。家に着けばいつもの日常が始まるだけ。それは何だか勿体無いような気がする。
どっか寄ってく?
長男が「えさし藤原の郷は?」と提案。そこは前回訪れたものの時間切れでお土産屋さんしか見ていない所。
「んー、どうかなぁ。」
すかさず次男も提案。
「花巻に引き返そう!」
「なんでやねん!」即却下。
「あのお」「何?」「行きたいところがあるんだけど」実はさっきから思っているところがある。そこは夏にしか見れない、聴けないところ。
「どこ?」
すばやく地形を見る。ここは岩手の県道13号線。南下中だから左手に東北道と国道4号線が並走しているはず。道路案内表示はこの道が江釣子に向かっていることを示している。
「JR水沢駅。」
「へぇ?」みんな不思議そうな顔をする。
それは今しか聴けない音。夏にしか聴けない。
「今しか聴けないものって、何?」
「風鈴。」
「風鈴、って・・・。」
風鈴のために「えさし藤原の郷」案を排除すんのかよ、と信じられない顔の長男。
BELAちゃんが言い添えてくれた。
「南部鉄器だよね?」
「そうそう。」
すごいんだよ。何がって、数が!
県道をくねくね南進する。時々国道に出くわしたり、また脇道いったり。途中、旧仙台藩の領地に入ったらしく、一里塚も残っていた。
やがてJR水沢駅に到着。げげ、有料駐車場しかない。しかも駅の裏側。地下道をくぐるしかないか。
その時、かすかだけど風鈴の音が聞こえてきた。
せわしく激しく鳴っている。煌めきながらぶつかり合いながら、キラキラキラキラ鳴り響いている。
30年くらい昔、学生だった僕は各駅停車の車窓から風鈴を聴いている。
たしか盛岡から仙台に帰る途中だっと思う。お金がない時分、おそらく青春18きっぷでも買ったか、そうでなくても途中まで電車賃を浮かすために各駅車両に乗ったか、今となっては思い出せないけれど、盛岡駅をはじめ他の駅でも南部鉄器の風鈴が激しく激しく煌めくようなするどい音でいっぱいだったのを覚えている。
この激しさは、鬼剣舞そのものだ。
剣を打ち鳴らしまたは切り結び、鼓舞し鼓舞し鼓舞し続ける。
底には火山の国でもある激しい情緒が脈打っていて、なれなれしく近付こうものならたちまち全身剣で刻まれる。その音は荒々しく、熱く、重い。
南部鉄器の風鈴一つだけならば、むしろ涼やかで、透きとおった音をだす。それが無数に集まるとこうも荒々しくなるものかと不思議である。
地下道をくぐって、駅の表側に出る。改札口に入場きっぷを持っていくと、駅員さんに不思議な顔をされた。
「どちらまで?」
「どちらにも行きません。ただ風鈴を聴きに来ました。」
すまして答えると、駅員さんは訝るような目をして、それでも黙って切符にハサミを入れてくれた。
構内に出るときは、まるで大海へ泳ぎだすような気持ちだった。無限の音の大海へ。
見上げれば半畳ほどの編み棚に風鈴をこれでもかとぶら下げて、それが構内のあちこちに設置されている。相当な数である。
駅のホームに風鈴を吊るすなんて、よく考えたなぁ。
なぜって? それはホラ、あれ見て。
列車がホームに入ってくる時、どうっと風も入ってくる。すると風鈴は一斉に激しくキラキラキラキラ鳴り響く。そして短冊もまるで花吹雪のようにちらちらと激しく舞うのである。
もとを質せば金属のぶつかる音である。それが純度の高い鉄だから高音域がすごい。のびやかで強い響き。空気の波動があたりいちめんに乱反射している。
まさしく天然のハイレゾ音域。それこそ「半端ない」。
音も一つ一つの風鈴で違う。
松傘風鈴の錆びたような高音から、お鈴を想わせるような凜とした音まで、さまざま。作家さんの制作方法の違いだけではなく、きっと個性もあるのだろう。音の洪水に浸るのもいいが、一つ一つ音色を聞き分けながら歩くのも楽しい。
ついでに渡り廊下を登り、向こうのホームへと渡った。
こちらも剣舞の嵐。会話に支障が出るくらいに激しく鋭く音がぶつかりあう。
また列車がきた。
風がホームいっぱいに吹き込み、風鈴は激しく激しく鳴り響く。
ふと遠くの改札口の駅員さんと目があった。
だいじょうぶ、列車には乗らないよ(これは銀河ステーションには行かないのだろう?)。
けれど、そろそろ行かなきゃ。
旅の最後に風鈴を聞けてよかった。まだ耳朶にしびれるような音が残っている。
もう東北道に乗ってしまおう。楽しかったよ。
雨もあがり、また猛暑の日差しにもどりつつあった。
高村光太郎記念館をよたよたと退出する。
はた目にはまっすぐ歩いているようにしていたが、実際は背中と腰をなるべく動かさないように歩いていた。
少しでも身体をひねると腰に激痛が走る。なんとか歩けているのは、ギックリ腰になってすぐに背中の乳酸を散らしたから。乳酸を散らさず放置すると、歩けなくなるほど重症化していただろう。
少し日差しが出て、思い出したようにセミが鳴いている。
耕地と耕地の間を小川が流れている。連日雨降っているのに水が綺麗。小さな橋がかかっていて、晴れた日に夕涼みすれば蛍に逢えそうな風景。
美しいと、思った。山荘の暮らしは過酷だったんだろうけれど、それでも光太郎翁にとって、安らぎの日々は確かにあったんだと、思う。
さて、と・・・。
車上の人となり、一路「宮沢賢治童話村」を目指す。
ここはどうやら次男坊にとって聖地らしい。あいにく今日も雨のなか入園となった。
傘をさしつつ園内を一周。あー腰いてー。
駆け足で済ませて(というか、腰イタくてほんとんどおぼえていない)、今度はまた市街地へ。
12時までに予約していた店に行かなければならない(ホント花巻エリアをぐるぐる廻っている・・・)。
お店の名前は「モン・パリ」。洋食屋さん。
BELAちゃんの知人からの紹介。いまのご時勢、「洋食へのあこがれ」というものを理解してくれる人がどのくらいいらっしゃるか分からないけど、それでも濃いデミグラスソースがかかったハンバーグとか、炒めたてのナポリタンが無性に食べたくなることありませんか?
店内に入ると、少し油の匂い。バターを炒めたときの香り。またはオリーブオイルを熱した香り。白壁にオシャレな小窓。だけど油を使っている匂い。実はこれが昔ながらの美味しい洋食屋さんの証明なんです。油の匂いはほんの挨拶がわり。だから期待値急上昇。
なんだかもー、思いつくのは一通り頼んだかなー。
厚切りトーストに魚介とホワイトソースをたっぷり盛った「エクラン・ド・モンパリ」。
そば粉のクレープ「ギャレット」。
それから外せないのは自家製デミグラスソースがとろりとかかったハンバーグ。
パスタ、グラタン、ピザ、ポタージュ、なぜかシメはふわふわの「モン・サン・ミッシェル風オムレツ」。
昔は仙台にもこういう洋食屋さん多かったんだけどなー。コックさんの高齢化かなぁ。
いやいや、洋食屋さん、堪能しましたよ。ありがとう花巻!
山口の空は、どんよりと重い。
靴もずっしりと重い。すっかり水を吸ってしまった。靴下が冷たい。
高村山荘を出て、いま歩いているのは小さな畑のそば。ここは当時からあったようだ。むこうに白亜の建物・高村光太郎記念館がある。
べちゃ、べちゃ、とまるで妖怪のような足音を立ててようやく建物にたどりついた。
高村光太郎や父・光雲のブロンズがならぶなか、やはり書籍や展示キャプションなど資料関連を読み込んでしまう。
「三畝ばかりの畑を使はしてもらつて、此処にいろいろの畑作をやつてゐる」と高村光太郎は随筆「開墾」で書いている。きっとさっき見た畑のことだろう。
彫刻を肉体労働と言い切るくらいだから、体力には自信があったのかもしれない。しかし慣れない農作業はその手のひらに無数の血豆と膿を発生させてしまったそうだ。ここまで来ると隠居というより苦行である。
それでも彼は東京に帰ろうとしなかった。なぜ?
随想や詩篇から読み取れるのは、彼が都会の雑音を嫌い、進んで流通や交通の不便な生活を求めていたということ。世間の雑音から開放されて、透き通った器官で亡き妻智恵子の気配を捜すために。
霧の空や、スズランの露に。
森の翳や、カッコウの谺(こだま)に。
ススキのざわめき。
霜の砕ける音。
破れ寺の読経。
・・・・・
光太郎は、ここで余生を使い切っていいと思っていたのではないだろうか。最期の制作をするために東京に行ったが、それでも身体が動くならば、また太田村の山口に戻りたいと思っていたのではないか。
記念館の窓から雨模様の外を眺める。農地や林や遠くの山もまるで青白く、それはただ静かに巨匠の帰還を待っているかのようだった。
どうして高村山荘は二重の套屋で保護されているのだろう。
古い套屋が朽ちたならば、新しい立派な建物を建てればいい。けれどもそうはしなかった。
そもそも第1の套屋は、光太郎を敬慕する太田村山口の人々の気持ちの表れである。
套屋は、主の去った山荘をそのまま包み、魂だけでも還る場を守ろうとしたのだろう。
第2の套屋は、その気持を守るために建てられている。やさしく、やさしく包み込む、その気持こそが、愛すべき花巻の観光資源そのものだと知った。
ひとり資料を見終わって書籍のことろで詩集を読み耽っていたが、みんなも一通り見て戻ってきた。
BELAちゃん、いいところ教えてくれてありがと、そう言おうとして立ち上がった瞬間、腰に激痛が走った。
あわてて窓辺の棚にしがみつく。
腰やったか。よりによってここでかよ。
拳をぐりぐりと背中にねじ込む。
異変に気づき子どもたちも寄ってくる。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。自分を落ち着かせるようにつぶやきながら背筋に充満した乳酸を拳でぐりぐりと散らしてゆく。やべー、立ち上がったぐらいで腰痛かよ。
空想とはいえ、ナマイキなことを論じたからバチがあたったか。すみません、太田村のみなさん。
翌朝、8月6日(月)。
寝苦しいということもなく気持ちよく目が覚めた。
昨晩は特に異変はなかったということでいいかな? 金縛りも、天井から異音も、窓を誰かが叩くということもなかったし、快眠できた、よね?
一同異議なし。
ということで、とても良く休めました。
朝食も隣の広間貸し切り。それにしても、階段だらけの建物だから、お膳やら布団やら運ぶのは相当大変なんじゃないかと思われる。
「慣れましたよ」
と仲居さん。
いや・・・、慣れたといってもヒザ軋んできたり、相当大変なはず。山肌にそってひな壇のように階を積み上げて出来ている建物だからエレベーターなんて技術的にムリ。100%足で運ぶしかない筈ですよ。でもそれ以上は何を訊いてもニコニコしているばかり。
そうこうするうちに、お宿を出発する時間になった。幸い雨はやんでいる。荷物を車に積み込む。外から見上げると、やっぱりすごい。重厚でしかも細工が繊細。
おせわになりました。
お宿の方に見送られながら台温泉を出発。県道へ向かう。
さて・・・と、宮沢賢治童話村に直行でいいのかな?
「高村山荘もいいところだよ」とBELAちゃん。
「高山山荘行きたい」と長男。
「あ、お昼ご飯食べるトコロには12時で予約しているからね。遅れないでよ」
なるほど・・・、今日も花巻をぐるぐる巡ることになるようだ。
まずは県道を南下。
どこまでもどこまでも南下。大沢温泉入り口も素通りしてまたまた南下。森の中を走るから心地よい。雨も大したことなくてよかった。
突然、森の一本橋にさしかかる。「高村橋」と書いてある。いよいよーな雰囲気。
ここで少し読みかじったことを拙くも整理してみる。
高村山荘とは、高村光太郎が住んだからその名がある。
高村光太郎(1883-1956)は彫刻家にして詩人。多くの文化人との交流のあった彼の元を大正15年(昭和元年)に宮沢賢治も訪ねている。しかし多忙であった光太郎は賢治に「明日の午後明るい中に来ていただくやう」お願いし、賢治も「次にまた来る」と応じて別れた。これが一期一会の邂逅となってしまった。
光太郎は賢治の死後、賢治を追悼する稿を寄せている。それらは実に草野心平らの賢治評価運動とも連動し、昭和9年刊行の「宮沢賢治全集」には光太郎も編者として名を寄せ、初版本(文圓堂版)では題字も光太郎が揮毫している。「全集」の編者には賢治の弟・清六もいて、その縁で宮沢家と光太郎は交流があったようだ。
昭和20年に光太郎は東京のアトリエを空襲で焼かれてしまい、花巻の医師・佐藤隆房の勧めで宮沢家を頼ることになる。佐藤隆房医師は、賢治の最期を看取った人。そして初めて賢治の伝記を書き、その後の全集の編纂にも光太郎とともに協力した人。
光太郎は花巻でつかの間の穏やかな生活を送ることになる。しかし、その宮沢家も花巻空襲で焼かれてしまった。賢治の遺稿も柳行李一つ残して他は灰燼となった。
高村光太郎はしばらく佐藤隆房の家に厄介になっていたが、そのうち花巻より西にある太田村山口に粗末な小屋を建てて独居自炊の生活を営んだという。実に光太郎62歳であった。独居自炊の生活は7年に及び。その間、地元の小学校とも交流を重ねたという。
仕事の依頼を受けて一旦東京に戻るが、そのまま花巻に帰ることなく73歳で没した。没する直前まで「宮沢賢治全集」の新しい装丁について練っていたという。
山口にはぽつんと小屋が残り、そこには当時の光太郎の生活と創作の痕跡がそのまま残っている。
大雑把だが、これが現在「高村山荘」と呼ばれる建物である。
その「高村山荘」の案内板をたよりにゆっくり進む。
一本道の奥に駐車場と受付の小屋。その後ろには防風林と小さな農園、そして建物群。
なだらかにくねる広い農地と防風林のような灌木、向こうに蒼く鎮まる森たち。これが青空の下だったなら、それが僕らのイーハトーボ(思い出)になったかもしれない。でもここで雨が降り出してきた。やっぱり雨か。しつこいな雨。
やがて、白樺並木の向こうに、それらしき建物が見えてきた。少し軒の高い、まるでお里の分教場のような建物。近づくと、それが蓑屋と呼ばれる套屋(うわや)であることが判る。
それなりに歳月は経っているだろう。風雪に耐えた柱、屋根、壁・・・。重い板戸をごろごろと開ける。夏なのになぜか雪ぼこりの匂いがする。そこにはもう一つの套屋があった。そう。高村山荘は二重の套屋で包まれている。やや細い材。土漆喰の壁、煤けたガラスの向こうに、まるで映画のセットのような土間と上がり框が見えた。これが高村山荘だ。
すごいね、ここ。
雪ぼこりのような匂いは、木材が朽けてぽろぽろになるときの匂いだと気づいた。
もとは硫黄鉱山のバラック小屋だったという。それを山口のひっそりとしたところを選んで移築したそうだ
ここは、完全に時間が止まっている。少なくとも見るものにそう思わせてしまうくらいに、よく保存されている。決してあたたかそうには見えない。むしろ高齢者が暮らすには過酷すぎる環境ではないだろうか。
疑問が頭をもたげる。
なぜ高村光太郎という芸術家は戦後、花巻のひっそりとした山裾にバラック小屋を建てたのか。
なぜ戦後、東京に帰らなかったのか。
なぜ亡き妻の眠る地に行かなかったのか。
なぜ、苦行とも言える生活を敢えてしたのか。
「智恵子抄」をじっくり読む必要があるようだ。
贅沢な材を用いて、御殿のような建物を建てようとすれば、それは広い広間や、長い廊下のような空間を演出しようとするだろう。そうすれば、風通しの良い、垢抜けた、それでいて簡素な― 材の存在感を際立たせるために ―美しい建造物がそこにはある筈だ。
しかし台温泉は山の中である。どの建物も岩山の傾斜を利用して建てられている。平地を確保しづらいのだろう。中嶋旅館も他のお宿と同様に岩肌に沿うようにして建てられた四階建ての建物である。築80年以上経っている、かな? その構造は平屋でないから相当フクザツである。はっきり言えば階段だらけ。しかも階段は複数あり、中には中3階へと至る階段が独自にあったりする。その眺めは、垢抜けているとは言い難いが、それでも岩手の花巻らしいというか、湯治場らしいレトロな懐かしさが味わえる。ここもきっとザシキワラシがいるかもしれない。
そのレトロな階段をトントン降りて、浴室へ向かう。浴室は渡り廊下のようなところをどんどん下に降りてゆくところにある。この浴室もかなり独特。地底を刳(えぐ)るように掘り下げた底が温泉槽になっている。刳った底だから浴槽も深い。立ったまま入る。お子様要注意。酔った人も要注意。
夏の温泉だから男たちはあまり長湯しなかったが(女性はそうでもない)、冬ならば温泉もご馳走である。で、食べるご馳走がこのあと絢爛豪華に展開することになる。
すごいんだコレがまた。
なんと隣のお広間に御膳を用意してもらった。お広間貸し切り。凄すぎ。
鮎おいしかった。頭から背骨も尻尾もバリバリ食べた。ビールと合いすぎるっ!
ごちそうさまでした。
雨が降り止まない。でもなんだかこのまま寝てしまうのも勿体無い気がして少しだけ館内を散歩。
我々が泊まる階の上にもう一つ部屋がある。最上階の特別室「翁(おきな)」だ。
覗けるものなら覗いてみたかったが、階段から上はなぜか明かりが点いていない。事実上の立入禁止。
なんか階段を上がってゆくと、その無礼を「翁」の主(ヌシ)が許さないような気がして、下から覗くだけで諦めた。
今日もたくさん移動した。雫石から花巻をぐるぐる。特に羅須地人協会は文芸学部の長男にとっては感慨深いところであったようだ。
あしたも多分ぐるぐる。だからゆっくり休んでおかなきゃ。オヤスミ。
道を間違えて、右の方へ行ってしまったはずなのに、なぜ本日のお宿に到着できたのか、しばらく解らなかった。てっきり山中で立ち往生しちゃうかと思っていたのに・・・。この謎は、あとで分かった。要するに一本道なのだ。花巻温泉郷から伸びる山道は、Y字に分かれているが、それはどちらから行ってももう一方の道にたどり着くだけ。台温泉をぐるりと回る輪のような道なのだ。
雨がひどくなってきた。
この日も昨日と同じ。夕方になってから本降りになった。
中嶋旅館前で路駐して荷物をおろす。旅館の人も手伝いに出てきてくれた。あんまり広い道ではないので路駐していて不安。荷物をおろしてから旅館脇の駐車場へ車を廻す。雨はかなり大粒で、車のドアを開けただけで流れ込んできそう。しまった。カサはトランクルームだ。
決心して飛び出す。とたんにシャワーのように雫を浴びる。トランクルームからカサを取り出してやっとさす。カサなしでどこへもいけないようだ。っても隣の建物なんだけどね。
雨だったのでゆっくり建物の外観を眺める余裕がない。急いで玄関に飛び込む。
玄関から中をみて驚いた。
こりゃすげー。
口で行っても伝わりにくいので、画像をどうぞ。
白無垢材それも柾目のいいところをふんだんに使っている。ところどころ材が入り組んでいて、丸木をそのまま使っていたり、黒光りする希少材木も(もしかして埋れ木か?)ある。階段もすごい。肉厚の手すり。擬宝珠つきの欄干。
宮大工が高級木材をこれでもかとばかりに駆使して、贅沢に贅沢に造った建造物であることがよくわかる。
圧倒されすぎてため息しか出てこない。
案内されたのは3階の「蓬莱」というお部屋。
入り口の引き戸がまた・・・、なんとも。これは「雪紋」だろうか。
中に入ると、八畳敷の座敷とその奥にも一室。広い。四人で泊まるには贅沢すぎる。
欄間には透かし彫りの彫刻。奥の部屋はなんと漆喰を彫刻のように盛り上げた青海波模様。これ気仙大工の「鏝絵」とよばれる技法じゃないかしら。
奥の一室は東と南にに広い窓を備えているから建物を上から展望するためのものだろう。あいにくの雨だが・・・。
はた、と気づき、座敷の中央で正座する。みんなも並んで正座した。
「一晩ご厄介になります。よろしくお願いします。」
部屋の「主(ヌシ)」へご挨拶。これが僕らの儀式なのだ。
宮沢賢治が羅須地人協会を創設し願ったことは、ただ純粋に職業・産業の貴賤を取り払い、ほんとうの尊厳と自由と芸術文化の奔流を世の隅々まで流し込むことであったと思いたい。けれどその活動は思いのほか短く。女性問題や地域の誤解と本人の得病によって断絶せざるを得なかった。賢治亡きあと、その願いはその後の経済至上主義の中でどんどん閉塞し、窒息してゆく。しかし災害や何かのきっかけで、僕たちは誰かのことを想い、その尊厳と自由を応援したいと願うことがある。誰でもふとしたことで身勝手から一転して他者を慮るようになる。そういうところまで僕らは「尊厳」というものを理解できている。その瞬間、賢治の願いはささやかに結実している。確かに結実しているんだと思う。
その賢治の願いと活動を記憶する建物「羅須地人協会館」。いまは花巻農業高校の一角にある。ここはかつて賢治が教鞭を執った花巻農学校の後身である。
ここへ来るのはこれが2回め。待ち構えたように雨は小降りになる。
初回は1995年。間もなく賢治生誕100年になるという祝祭の前年だったと思う。
ここへは電車で来て、タクシーで廻った。たしか胡四王山の施設をすべて見て回って、羅須地人協会の建物を外から眺め、最後に墓所を参拝して駅へ戻ったと思う。今となっては、どんなコースで巡ったのか、よく思い出せない。
ここは県立高校だけど、羅須地人協会を訪れる人のために駐車場が用意されている。岩手県って、なんて親切。で案内板を読むと、当然のことながら公開時間はとっくに終了。そりゃそーだ。しかも今日は日曜日。延長はありえない(平日もダメでしょフツー)。未練たらしく建物周辺をウロウロしたが、何も収穫はなく、結局そのまま退散するしかなかった。
で、また移動。
空港滑走路の下をくぐり(すべてナビの指示です)、市街地を西へ突っ切る。山沿いの県道に出たら、花巻温泉郷は意外と近かった。目指す台温泉はこの奥。
温泉街を抜けたら急に人気のない山道になる。付き合ってくれるのは電柱を渡り歩く電線だけ。Y字路に差し掛かったとき、左折するべきところを右に行ってしまい、さらに寂しい道になる。どうしよう、コレどこかでやり直す? 決心がつかないまま走らせていると、正面にトンネルが見えてきた。車一台分の小さな小さなトンネル。まるで坑道のよう。対向車来たら間違いなく接触する。雨はとうとう本降りになった。山肌を流れ下る泥水が怖い。トンネルの向こうはカーブの続く下り坂。と、そのさきに廃墟となったお宿が見えてきた。渡り廊下橋を潜る。と、その先に、お迎え提灯を掲げた古そうなお宿があった。あ、ここだ。今日お世話になる「中嶋旅館」。