放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

Love Forever2

2010年09月17日 14時30分22秒 | 肝苦りぃさ
 9月10日金曜日
 真新しいシーツが出されました。
 その日のうちに大型犬の骸は檻から出され、シーツにくるまれて火葬場へ運ばれて行ったのです。

 お義父さんは「遺骨はどうするか」と訊かれたそうです。
 「いらない」と答えたそうです。
 
 あんなにかわいがっていたのに、どうして? と訊きましたら

 「なに?もって帰ったって置くところがねぇべ? 仏壇サ上げるわけにもいかねぇべし、墓に入れるわけにもいかねぇ。結局、川サ流すか山に埋めるかしかねぇんだど。」との答え。
 「猟師のヤツラなんて死んだらたぁだ山に活ける(埋める)だけなんだぞ。オレは火葬にした分だけまだマシだ。」

 それでも檻には花器がありキクが挿してありました。
 僕らもキキョウを挿しました。

 きっとあの子はお義父さんと一緒に帰ってきたのです。見えないけどどこへも行っていないのです。だから骨は、いらないのです。

 それにしても、この1年は「命」について考えさせられることが多いです。子供たちも、ずいぶん考えさせられたようです。
 キキョウをあげよう、と言い出したのは子供たちです。あの子の手綱を引いてあるいたからこそ、そういう気持ちになるのでしょう。

 がらんとした、それでもなつかしいケモノの臭いが残る檻に向かって、「いつまでもここにいていいんだからな」とつぶやいて僕たちは手を合わせました。 
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Love Forever

2010年09月17日 12時53分19秒 | 肝苦りぃさ
 先週の金曜日、BELAちゃんの実家で犬が死にました。
 メスのシェパードです。11歳でした。
 まあ長生きをした方でしょう。けどみんな淋しさで心をいっぱいにして1週間をすごしました。

 もともとは腰痛持ちのお義父さんの足慣らしのパートナーとして飼われてきた犬です。
 お義父さんが大好きだったから、散歩のときもグイグイ引っ張るようなことは決してせず、いつも寄り添うようにして並んで歩いていました。

 大きな身体、大きな剣歯、大きな爪。
 「慣れてきたとしてもチクショウだからな、気をつけろよ」とよくお義父さんは孫たちに言っていました。けれども「チクショウ」と呼ぶにはあまりに勿体ないほどやさしいやさしい気持ちを持ったシェパードでした。

 仔犬のころは、そりゃー暴れん坊で、クサリでつないでいても重石のブロック(三段重ね!)をぐいぐい引っ張って母屋へ寄ってくるほど力持ちでした。それでもお義父さんには絶対の忠誠を示し、お義父さんもそんなあの子がかわいかったようです。
 
 はばかりながら、僕も好かれていたようで、駆け寄ってきて僕のお腹やら胸やらミミズ腫れで一杯になるほどかきむしっていきます(その後、必ずお義父さんに折檻されていました)。
 みんなが大好きだったのです。

 お義父さんが入院するという時、散歩ができなくなって、あの子は檻のなかでしょんぼりしていました。エサも摂らず便もせずにずっと我慢していたそうです。
 そこでお義母さんが「いいんだよ。檻のなかでもしていいんだよ。」というと、やっと便を出したそうです。

 きっとお義父さんのいうことしか聞かないだろうなと思っていたのですが、そうではなく、家族同様にお義父さんの闘病生活を支えようとしていたのです。そのことに気が付いたのは僕らではなく近所のおばさんでした。
 「この子ねぇ、いい子なんだよ。ほら」
 といっていきなり檻をあけてずかずかと中にはいったおばさんは、大きなシェパードのせなかにブラシを入れているではなりませんか。そのときのあの子のトロけそうな顔といったら・・・。
 「ね、ほら。おとなしいでしょ。ブラシで身体掻いてほしかったのよ。」
 なさけないことに僕らはあっけにとられていただけでした。
 それからはお義母さんが散歩につれて行けるようになりました。
 やはり力まかせに綱をひっぱるようなことは絶対しなかったといいます。
 あの子はあの子なりに誰にも迷惑を掛けないようにしようとしていたのです。

 お義父さんもこの話にはびっくりしていました。自分が倒れたときに、あの大型犬の始末はどうしようか・・・と真剣に悩んでいたからです。

 やがてお義父さんが退院すると、今度は孫が散歩に同行するようになりました。飛びつくようなことは絶対しません。それどころか、6歳の孫が綱を握っても平気だったのです。ときどき後ろからひょこひょことあるくお義父さんを気遣い、孫を気遣い、ゆっくり歩いたのです。(なんと孫が綱を取り落としても、拾いなおすまでじっとそばにいたそうです)

 やがてお義父さんも犬も歩きがさらにゆっくりになってきました。お義父さんの衰えに合わせるようにしてあの子のだんだん歳をとっていったのです。左の耳のあたりが腫れていました。「癌でねぇか」とお義父さんはいいました。やがてそれも赤黒く破裂し、顔に大きな穴が出来ました。

 そうして、今年の夏がやってきました。

 例年にない酷暑。
 ケモノにとっても命を削られるような季節だったのです。
 
 あの子はだんだん立てなくなりました。
 散歩のときはよろよろと立ちますが、それも家のまわりをちょっと歩くだけ。用便を済ませるとすぐに帰ってきてしまいます。そうしてごろりと横になり、へ、へ、と苦しそうに息をつくのです。

 最後の三日間、あの子はつらそうに鳴いていたといいます。
 夜中に檻の中でないていたのです。それをお義父さんは布団のなかで聞きました。
 そうして金曜日の朝、あの子は動かなくなっていました。

 
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泣き出しそうなお空のかなたに・・・

2010年04月15日 23時35分34秒 | 肝苦りぃさ
 あのいたたまれないお別れは、いまも僕らに灰色の影をかげかけている。

 子の死は切ない。切なすぎる。
 いまごろは残されたお父さん・お母さんもぽっかりと空いた家族の席を痛々しく眺めているのだろうか。
 くやしさとさびしさに耐え続けているのだろうか。
 
 お通夜に伺ったときに聴いた読経がときどき心によみがえる。
 
 ふしぎと朗々とひびく、まるで歌のようなお経だった。


  西のかなたに大安心がまっている
   そこには善知識がみなあつまっていて
    おまえのことも拒んだりはしない

  遠大な砂漠と紺碧の空のかなた
   神聖と清浄とやすらぎと再生
    おまえならすぐにたどりつくだろう

  ひとつ小さな道標をおいておいた
   砂漠につけた一つのくぼみ
    オアシスの陰の一本のタマリスク
     遺跡の天頂のひとにぎりの砂
  
  そんなものは本来必要ないのだが
   それでも心が迷ったら
    さがしてみるといい

  自分の旅路に終路があることを思い出すだろう

  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
   大きく広げるだけでいい
    それは翼となって
     青い天空をすべってゆくだろう

  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
   有無の境涯がおまえを本当の自由にするだろう

  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
   光と虚無へ
    とくと参れ


 読経のきれぎれの単語から勝手につづりあわせたものだが、坊さんがこのようなことを言っていたように僕には思えた。
 そして、砂漠のはるか上空を、優雅に滑空してゆくような幻想さえ思い浮かべていた。

 棺のなかにあるのは、機能を停止したユニット。
 たしかに気の毒な結果になってしまったが、あの子はもうここにはいない。
 あの子にはもう新しい何かが始まっている。

 僕たちも歩き出さなければならない。
 新しいなにかに出会うために。
 とりあえず精一杯生きつづけなければならない。

 それが生きているものの務めなのだから。       
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肝苦りぃ・・・。

2010年04月12日 10時51分53秒 | 肝苦りぃさ
日曜日、夕方、僕たちはとあるマンションの入り口付近に集まっていました。

手に手に小さな花束をかかえて。
黒い服の人。
ハンカチをにぎりしめている人。
みんなうつむいて、黙りこくって並んでいました。

空はどんよりとしていて、今にも泣き出しそう。
ときどき薄らさむい風が吹きます。

係りの人がキャスター付のストレッチャー(担架)をエレベーター前に運んできました。

待つこと10分くらい・・・
マンションの上の階で声が聞こえました。
子供の声かな?
やがて祖父母と思われる人、親戚、そしてちいちゃな女の子が礼服を着て降りてきました。

それから、しばらくして、ご両親がまぶたを真っ赤にして降りてきました。
エレベータに近いところからすすり泣きが聞こえてきます。

やがてキャスターのきしむ音、それから黒い服の人に添われて、白い布団に寝かされた女の子が運ばれてきました。

長いまつげ、うっすらと頬に紅をさし、口元に微笑をたたえたお顔。
まるでお人形さんのようにきれい。

すすり泣きがいっそう広がります。
肝苦(ちむぐ)りぃ、肝苦りぃさ。
なんともやりきれないひと時でした。

あっという間でした。
大人なら、数日安静にしていればすぐ治る病気。
子供でさえ、早い対応と、医療機関の正しい診断があればなんとかなる病気。
どうして―・・・。

明日も続くと信じていた娘の呼吸、いつかは戻ると信じていた元気な姿。
突然絶たれた幸せに、呆然とたちつくす両親。
肝苦りぃ、肝苦りぃさなぁ。

おなじ子を持つ親として、他人事ではないのです。ましてや同じ子供会。レクリエーションなども一緒だったようだし。
ここにあつまった人たちも、このどうにもいたたまれない気持ちをどうしてよいかわからずに、それでもお顔を見れば気持ちの整理がつくか、またはここでみんなで泣くことで楽になれるのかと、どうにも落ち着かない心持ちをかかえているにちがいないのです。

肝苦りぃ、肝苦りぃさなぁ。
泣き出しそうな空のした、黒い車の扉がゆっくり閉まりました。

そして長いクラクション。
やがて車はゆっくりと動き出し、ポプラ並木を遠ざかっていくのでした。


お別れのつらいついらいひと時でした。
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すきとおる風と、永遠の「はらっぱ」

2010年01月06日 23時45分22秒 | 肝苦りぃさ
 今日も冷たい風がふいて、ガラスのような冬空に 何もかも運び去ってしまったようだ。

年があけました。
大切な人も去りました。

永い永い闘病生活でした。
 怖い目にも逢い、いろんなものを乗り越えて、そして
 あきらめないことを
 憧れつづけることを
 忘れずに、笑いながら人生を貫いたひとでした。


僕を見つけてくれた人でした。
 電子世界の混沌から、雑踏から、埃垢のそこから
 僕の知らない僕を見つけてきて、
 「大切にしなさい」って・・・。


最後にあったのは去年の秋。
 ほんの二ヶ月まえのこと。
 最後の書き込みはクリスマスのちょっと前

 なぜか僕は年の暮れからバイオリズムが崩れていて
 どんな話題を聞いても、気を削がれるような心持ちだったんだけど、
 いま思えば悲しいニュースを受け入れまいと霊的に拒んでいたのかもしれない。


あしたも晴れるのだろうか
 すきとおる風は、「ことばのはらっぱ」をふきぬけて
 みちのはてのほしぞらへと舞い上がるのだろうか

 いつかわたるあちらにも
 きっとガラス細工のようなひろいはらっぱがあって
 すきとおった草ずれがして
 雲母のような陽がこぼれて
 いちめんいちめんきらきらしているのだろうか


いつも元気で、力づよい人でした。
 いつもあかるくて、みんなもいっしょににこにこしちゃう人でした。
 やさしくて、家族想いのひとでした。
 かわいらしさを忘れないひとでした。
 最後まで「自身への尊厳」と共に在ったひとでした。
    
     
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はらっぱへ届け・・・!

2008年01月20日 12時01分26秒 | 肝苦りぃさ
 一昨日、BELAちゃんのケータイに大切な人からメールが届いた。
 「連絡できなくてごめんね、
 ・・・びっくりしないでね。肺から骨に転移していて、療養が必要です。ダメだったら緩和ケアに入るからね・・・。」

 BELAちゃんは、目を真っ赤にしてケータイの画面を僕に向けた。
 僕も頭が真っ白になった。
 
 どうして、どうしてこんな・・・。
 それまでにもいろいろつらいこと、悲しいことがあっぱいあって、それでも明るさを失わなかった人。
 これからもっともっと幸せになっていい人。
 それなのに・・・。

 「私、手紙をかく。メールじゃなくて、ペンで書く。いっぱいいっぱい書く。」
 「じゃあ、オレはちいさく絵を描こう。」

 何の足しになるかはわからない。でも闘病のあえぎの中で、ほんの一服の清涼にでもなれるなら・・・。
 サイト「放菴」を見つけてくれた人。僕たちを広い世界へ誘ってくれた人。日当たりのよいはらっぱのような人へ、今、僕たちの気持ちを届けたい。
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