放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

月夜の松島

2020年11月02日 00時11分16秒 | Weblog
 令和2年10月31日は満月でした。
 その日僕は松島に居ました。
 昨今、故あってほぼ毎週のように松島に行っています。

 午後5時。瑞巌寺の鐘の音が聞こえます。同時に「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」とジングルが杉木立の間を流れてゆきます。もうすっかり暗くなっていました。雲ひとつない空には一等星や惑星などまたたき始めています。
 そしていちめん藍色の澄みわたるその空間に、岩山と草木の間から、そうっと月があがっていたのです。
 満月の時は午後6時にならないと月はお出ましにならないものと思っていたので、もう東北東の空に見ることが出来たのは意外でした。

 ちょうど帰路だったので車で国道45号線に出て、南へ向かいました。
 左手には松島の海。
 出たての月は少し大きく見えて、またほんのりと赤いのです。
 その月明かりに照らされて、大小の島々がコバルト色に浮かび上がっています。
 松島は霊場なのです。

 仙台に住む僕から見た松島は、ただの観光地です。これまで霊場だとは思ったことはありませんでした。
 観光地も観光地、すぐに行ける観光地。他県の人ほど珍しいとも思っていない。
 たとえ行っても、瑞巌寺、観瀾亭、五大堂、そしてお土産屋さん。つまり45号線沿いを歩くだけで事足りてしまう。ある意味とても狭い観光地でした。
 ところが「松島4大観」を知らない。
 松島の裏街道にある温泉を知らない。
 45号線ではない旧道から見る松島を知らない。
 そして、松島の月を知らない。
 知らないことだらけだったのです。

 松島が霊場、つまり浄土感(観)の影をもつ地である、と思ったのは、鎌倉の「やぐら」を知ってからです。
 「やぐら」とは行者たちがそこで修行し、またはそこで入定した岩屋のこと。鎌倉もまたリアス地形であるので、旧市街地は岩山だらけ。その岩肌を穿ち、浅い洞穴を掘ります(やぐらと呼ばれています)。そこを栖(すみか)として行者は行を積むのです。時にはそこが終焉の地ともなり、これらが「屍倉(かばねくら)」つまり「鎌倉」の語源になったという説があります。
 松島海岸に点在する岩窟や磨崖仏たちもまた、「やぐら」です。そこには入定した行者たちの面影が刻まれています。
 なぜ行者たちは松島を目指したのでしょう。
 その答えを、あの満月の夜に見つけた気がします。

 もうすっかり暗くなった脇道を下り、扇谷(おうぎたに)へ行きました。
 展望台にはお茶屋さんがありますが、崖の下、入り江の海岸には民家も灯りもありません。
 そこでは、藍色の空にやや朱の混じった月が太古のまま水面(みなも)を煌々と照らしていました。
 ススキの穂影が、その煌々たる月光を吸いとろうとしているかのように静かに揺れています。
 そして島々は沈黙し、ただ波の音だけが扇谷に打ち寄せていました。

 それは死後の寂寂とした世界に見えました。または全てを諦観した浄土にも見えたのです。
 これが松島の原風景なのでしょう。

 松島は、霊場なのです。
 松島に通うようになって、やっと僕は、松島をほんの少し知った気がしています。


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彼は目をとじて・・・

2019年10月22日 02時08分12秒 | Weblog

ラグビーを面白いと思った。

2019ワールドカップの話。そう、いわゆる「にわかラグビーファン」になっていた。

なかなかタッチラインに到達できないもどかしさにハラハラして

一転、突破した瞬間にわあっと声が出てしまう

タッチダウンにおおーっと湧いて

次にぐたーっとなってしまう。

これ、心臓に悪いなぁ。

ルールも知らずに見ていたが(高校の体育では一応やってたけど、ノックオンくらいしか覚えていないし)わかってくると、何をやりたいのか、どうすれば点がとれるのか、考えるようになっていよいよプレーが面白くなった。

驚いたのは徹底した規律。

前に投げてはいけない

タックルは後ろから

スクラム参加も後ろから

倒れたらボールを離さなければならない

徹底した規律。違反すればチームが不利になる。

ヨーロッパの戦士がしていたプレーがスポーツになったという経緯があるのに、彼らは紳士のわきまえを深く心得てピッチに立っている。

 そしてノーサイドの瞬間の握手、抱擁。汗臭い、ホコリ臭い、そしてオトコ臭い。

でもなんか目頭があつくなる。

日本の最後の試合は南アフリカに完璧やられてしまったけれど、相手へ「優勝しろよな!」と呼びかける姿勢もカッコイイ。

なぜかユーミンの曲がききたくなった。

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ゴールドラベル復活

2017年10月05日 01時02分05秒 | Weblog
運転免許証更新しました。

やっとゴールド免許復活。
長かった。

あれは、かれこれ7年前。
右折禁止エリアを知らずに右折(標識見ろよ)。待ち構えていたおまわりさんに切符切られて、ゴールド剥奪。

おまわりさんが待ち構えているくらいだから、右折する奴が多いんだろう。
実際、紛らわしい。
交差点の直前で1車線が2車線に増える。これがまるで右折レーンそっくり。ただし標識は直進マーク。これを見落として右に突っ込んだ。刹那、後でクラクションが鳴った気がしたが、自分に向けられたものだとは気が付かなかった。曲がったところに居たおまわりさん、ゆっくり手を揚げて、こっち来いと手招きする。この時自分が違反したことに全く気がついておらず、窓ガラス開けながら「なんスか」とやや睨むように言った。
「あれ、右折レーンじゃないから。違反ね。」
「え? あれは・・・」
「あとでよく見てごらん。直進するところだよ。」
やっちゃった感が全身に降り注ぐ。

「はい7千某円。あとで警察に振り込んで。」
もう、「はい」としか言えなかった。


何度も言う。長かった。
でもそれも今日で終わり。晴れてゴールド。自分におめでとー。
明日はどうなるかわからないけど。

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老いる、ということ(ひとつの決別)

2016年06月26日 02時11分27秒 | Weblog
 このごろ突き指ばかりしている。
 必ず小指ばかり。
 なにか取ろうと手を伸ばして小指を痛め、引き出しに手を突っ込んで小指を痛め、ドアにも小指を痛めて。
 右も左も、常につーんとした痛みがある。

 おそらく運動神経が小指まで管理できなくなっているのだろう。それに握力も低下しているのかも。これが老化なのか。
 同じ姿勢を保持し過ぎると腰痛になったり、首を痛めたり。ああ、そういえば抜け毛でつむじも随分崩壊した。

 小指を突き指するようになったのは、六年ほどやっていた古武術をやらなくなったのと関係があるかもしれない。
 古武術なんて、別に強くなろうとしていたわけではない。ただ、腰痛持ちで猫背の身体を改善したくて、理にかなった身体用法を覚えたかっただけ。
 あれは古来日本人の体型を理解したうえで最も効率よく、または怪我なく力を伝達する技術であった。手にするのが別に武器でなくて良い。いろいろな道具を生活の中でどのように使いこなせばよいのかという知恵でもあった。体幹を動作の源とすれば、あらゆる動作はまるで別ものとなる。小指の先まで一つに繋がるような新鮮さを感じた。昔話もたくさん聞けた。口伝の中に息づく先人の考えに、書籍を読むのとは違うリアルを感じてゾクゾクした。
 稽古は大して進まなかった。いまだにその道の入り口をウロウロしているような感じ。結局、臂力はやや向上し猫背も改善したが、腰痛は改善しなかった。週1回程度の稽古である。筋肉を増やすトレーニングまではしていなかった。

 そのうち、現代武道の経験者が多く入ってきた。彼らは、古武道の破壊力と効率性に異論を唱えた。現代武道の基礎を取り入れるべき、と、口ではなく、稽古そのものに現代武道の理論を導入した。
 
 僕はそれに興味が持てなかった。
 きっと僕は昔話が好きだっただけなんだと思う。
 胸を張って正面を見せる現代武道より、半身で時に低くかがむ不格好な古道のほうが好きだった。
 だんだん道場から足が遠のいてしまった。道場は失伝してしまうかもしれない。古参が戻ってきて再興する可能性もあるけど・・・。一つはっきりしているのは、僕が奥義を識ることはないだろう、ということ。文字通り四十の手習いである。道は遠く、身体は悲鳴を上げている。

 小指の痛みは、ひとえに稽古不足なのだ。
 たったひとりだけど、初心に帰って基礎を続けようと思う。
 疲れてしまって出来ない日もあるけど、それでも所作の意味を問い続けてみよう。
 なんだか、自身の老い方の方向性が見えてきた気がするのだが、それでも何かが伸びるかもしれない。せめて、腕は肩より上に上がったほうがいい。膝は腰より上に上がったほうがいい。つま先と顔は上を向いているくらいがいい。身体はいつもひとつの塊で、水のように風のように巌のようにありたい。
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<花巻界隈(人物)紀行「佐々木鏡石」>

2014年12月05日 13時00分36秒 | Weblog
 遠野には佐々木鏡石(1886-1934、本名「喜善(きぜん・きよし)」)という人がいた。
 彼こそが遠野物語の土台。彼の語った話をもとに綴られたのが遠野物語だ。けれども柳田國男をヌキに遠野物語が成立しなかったのも事実である。

 農政省の役人でもあった柳田には、物事を簡潔明瞭に説明できる文章力と、本を出版できるほどの人脈があった。
 一方の佐々木は駆け出しの文学青年。自分の持っている知的財産の価値に気がついていなかった。
 佐々木は実家も裕福だったのだが、彼のほんとうの知的財産とは、子供の頃から囲炉裏端や墓地やお社の片隅で繰り返し繰り返し聴いてきた不思議な不思議な遠野の昔話である。
 ザシキワラシ、オシラサマ、山男、経年(ふったち)、迷い家(まよいが)、寒戸の婆(さむとのばば)・・・。

 柳田に呼び出され、問われるままに佐々木は語る。言い方は悪いが、知的財産をタダで他者に譲っているようなものだ。「遠野物語」の冒頭で「佐々木鏡石」の名を出してもらったのが唯一のご褒美であったか。

 柳田の功績で「民族学」が興り、遠野は一躍注目を浴びた。
 けれど「佐々木鏡石」という作家が世にでることはなかった。

 せっかく宮沢賢治との邂逅を果たしたのに、佐々木と賢治ではまるで月と太陽のようだ。
 無理やり郷里の議員にさせられ、財政的な責任を負わされたことなど、不幸の連続であったが、それ以前に佐々木の文学性を柳田が忌避していたからだと言われている。柳田は彼を封じたわけではないだろう。ただ、彼の文章の叙情的なところを嫌った。
 それでも柳田のお陰で佐々木は原稿料を得ることもあったようだ。結局、佐々木は柳田の傘から出ることが出来ずに48歳で亡くなる。
 佐々木の最期の地は仙台の清水沼であった。

 花巻の旅が終わってから、佐々木の終焉の地・仙台市宮城野区清水沼を訪ねてみた。沼そのものが消滅してしまっているので、当時のことはよくわからない。佐々木はこのころ郷里の資産をすべて取り上げられており、文字通り爪に灯をともすような生活であったと思われる。原稿の清書を手伝ってくれた娘もいまは亡く、失意の極みではなかったか。自身の書屋を誇った柳田とは大きな隔たりがある。

 それでも、佐々木は藤原相之助らとの邂逅に恵まれ、仙台にも郷土学が興ることになる。
 同時代には三原良吉、天江富三郎らがいて、みなマスコミを介して大いに仙台から文化を発信していた(「東北土俗講座」)。その環のなかに佐々木喜善はたしかに居て、その著作はいまも図書館に見ることができる。彼を以って曰く「日本のグリム」(追諡・大槻文彦)。 
 
 ただ、それでも郷土学というものは聞き伝えの収集が専らであり、科学のように検証や文献を重んずるようになるにはさらに時間が必要であった。
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<花巻界隈(風鈴)紀行2>

2014年09月07日 02時11分00秒 | Weblog
 花巻市街地に入った。雨は降ったり止んだりを繰り返す。
 時間は12:30頃だっただろうか。いい時間すぎてなかなかお店に入れない。
 すこしお腹がすいてきた。こりゃあいつものパターンかも。

 いつも家族で移動する時って、必ずお昼ごはんで苦労する。
 車だから駐車場のないお店には入れない。〇〇ビルの△階なんてのはちょと無理。
 一方、いい時間(お昼時)ともなれば、駐車場だって満車のところが多い。逆にお昼時に駐車場のすいているお店では、なんだか心配になる。
 結局、車を流しながら入りやすそうな店を物色することになり、駐車場の空き具合、建物の雰囲気などをあれころ見て迷っているうちにみんな後方へと過ぎ去ってゆく。
 知らない町だと必ずこういうことになる。

 国道4号線バイパスから旧道へとそれて花巻市街地を北上する。もうお昼はあきらめていた。
 天気はなんだかはっきりしない。夏とは思えないくらいに涼しい。
 北上川も増水している。これじゃどこがイギリス海岸なのかサッパリわからない。
 
 あれこれ迷って、やっと宮沢賢治童話村へ到着。
 ちょうど雨も一段落。銀河ステーション(白鳥の停車駅?)を想像させるエントランスに向かった。
 風通りのよい天井を見上げると、なるほど、ちょっと旅人の気分になれる。

 言い方は悪いが、ここは特になにか特別なものがあるわけではない。賢治の遺品もないし、彼がここを訪れたというエピソードがあるわけでもない。あるのは豊かな森と小川、そして賢治のキーワードを散りばめた散歩道と、博物学的な好奇心を誘う標本たち。そして感覚を刺激する小さな体験型ミュージアム。
 
 これが子どもたちには思いのほかウケが良かった。
 不思議なくらい透明な空をちいさくちいさく凝縮したツユクサのレンズ。それを集めて小川は冷たく透き通って川床の石にふしぎな虹をかける。その虹はたちまち空へと上がって水蒸気となり、森に清らかな潤いを降らせている。
 森ではカッコウがまるで誰かを呼ぶように高く鳴き、見上げているとふいに頬のあたりをスズメバチがかすめてゆく。
 木の階段をのぼれば、少し湿気を含んだデッキが広く張り出していて、眼下にはポラーノの広場が横たわっている。
 あちらから電動トレインがのんのんと走ってきた。帰りはあれに乗ろう。
 
 デッキに並ぶ木造りの建物たち(賢治の教室)は、木材のエーテルを充満させて来訪者の気持ちを惑い、琥珀のなかの標本が本当は生きているかのように見せたり、部屋の中を小鳥の声でいっぱいにしてみたり、不思議な不思議なギラギラ光る模型を銀河のように見せたりするのだ。

 ここには遊具らしいものはないし、絶叫マシンもB級グルメもない。それなのに、人はなぜここに集まってくるのだろう。なぜ子どもたちはこんなに喜んでいるのだろう。

 遠くからきいんと鳴る音で我に返る。
 なんだろう、きれいだな。
 高く澄んだ音。そのまま成層圏まで届きそうなくらいまっすぐ響く。

 また鳴った。風鈴だ。

 売店の奥で風鈴が掛けてあった。風鈴だけではない。卓上鈴もある。
 重量感のある黒鉄色(くろがねいろ)。南部鉄器だ。
 緑青をまぶして着色してるのもある。
 いかにも重そうな(実際ずっしりと重い)鉄器なのに、こんなに澄み切った高い音を出すのは不思議でならない。
 
 ここで何か鉄器を買おうかと思ったが、少し待つことにした。何を?って、いい音色の鉄器に出会えることを。
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「水の影」 ~たどりついた時の狭間で~

2014年08月27日 11時21分41秒 | Weblog
 大層なタイトルつけましたが、大した話じゃないんです。ホント。

 ラジオから聞こえてきた一曲が、どうしても耳から離れなくなっちゃったんで、あれこれ探した、という話。

 
 ラジオで聞いたのは小野リサさんの「Japao2」からの一曲。
 「あれ、珍しい、日本語の歌だ」

 なにしろBOSSAの女王ですから。てっきり南米の言葉が泉のように聴こえてくるものとおもいきや、やや聞き慣れない(失礼!)、すこし重たげな、しかもマイナーコードたっぷり。ある意味明るい小野BOSSAとは真逆なサウンドでした。例えるならば、オレンジ色した従来の音にくらべ、柿色のサウンド。

 で、その時聴いた曲がどういうわけか頭からはなれなくなっちゃった。
 - ♪けれど傷つく心 持ち続けたい -

 どこかで聴いたことあるよう気もするし、初めて聴くような気もするし・・・。
 でもメロディはなぜかそのまま覚えることができた。

 BELAちゃんの前で歌って見せたら
 「んー、Bメロのあたり聴き覚えあるような・・・」


 こうなりゃ徹底的に調べよう。
 まずアルバムについて調べたところ、小野リサさんが日本の歌謡曲にチャレンジしたアルバム(しかも第2弾)とのこと。

 曲順をリサーチ。あいにく試聴ができないので、知らない曲だと調べきれない。

 と、次の日の夕方、またまたラジオであの曲がかかった。
 「あっ、この曲!!」なんかこの曲と縁があるのかな。

 こんどは松任谷由実さんの声だった。きっとオリジナルである可能性が高い!

 そうか、松任谷由実さんの楽曲をさがせばいいのか・・・。 って甘い!
 検索件数が多すぎる。荒井姓の時まで遡ればその曲数はハンパなものではない。
                                                                                                                 
 それよりは小野リサさんのアルバムから日本語の楽曲かつ松任谷(荒井)由美さんの作品を探すほうが早い。

 で、探しだしたのが「水の影」という曲。おー、おつかれ~。
 小野リサさんの楽曲もよかったけれど、原曲も繊細でいいですな。
 いやぁ、辿り着いた。このまま見つからずに年をまたいでしまうのかと思いましたよ。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               
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新盆

2014年08月19日 23時45分39秒 | Weblog
 お義父さんが帰天して、四十九日を経て、百か日が過ぎたと思ったら、もうお盆でした。

 BELAちゃんの実家では、盆棚を出して、位牌を並べ、盆提灯を吊り、生花を左右に盛って、葬式と同じくらいににぎやかになりました。

 この時期、こちらでは不思議な風習があります。
 毎朝、神様へお茶を出すのです。
 それもなぜか神棚ではなく、食卓に。

 これは誰の?と訊いたら、神様の、と言われました。

 不思議な不思議な風習です。
 
 そういえば、この地域は般若心経を神棚に向かって唱えるという不思議な行事があります。
 普段よく聞く般若心経ではありません。「大般若」です。
 いわゆる「般若心経」とは「大般若経」のダイジェスト版です。
 こちらでは「大般若」を大箱に収めてお寺と青年会とが各家庭を廻り読経してゆくのです。神棚に向かって。

 なんだか経典を虫干しするついでのような行事です。(失礼)

 もう一つ不思議なのは、お盆で迎え火焚いているのに、日中墓参りすることです。
 これはお義母さんも不思議がっていました。
 不思議がりながらも朝早く墓参りしていました。
 しかもお義父さんの大好きだったコーヒーを墓前に供えていました。
 僕達もあとから墓参りして、これを発見して笑ってしまいました。

 お義父さん、愛されているなぁ。
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おつかれ! SAMURAIジャパン!!

2014年06月27日 01時56分50秒 | Weblog
FIFAワールドカップ・一次予選は、胸が苦しくなるような試合だった。

コートジボアール戦での暗転からギリシャ戦での苦々しいドロー、
そして叩きのめされたコロンビア戦。

すっきりしない、できない。
落胆する選手達、監督、指揮陣。


でもね・・・。
とりあえず、還っておいで。
みんなで「おつかれさま」と言おう。

悔しい思いを、つい誰かのせいにしてしまいがちだけど、
すっきりしない思いを、雑言で紛らわそうとしてしまいそうになるけど、

でも、僕が90分間走り続けることができるわけでもないし、
すばやくサイドから切り込めるわけでもない
針の穴をとおすようなパスができるわけでもないし、
そもそも周囲の状況と足元のボールを同時に把握できる眼力もない。

ぼくらにはない能力を、さらに鍛えて研ぎ澄まして、
自分よりもデカくて、強引で、うんと速いヤツらに向かっていったのだから

その勇気と、根性と、悲願と、疲労に
「おつかれさま」と言いたい。

だから、
還っておいで。

これからまた、はじまるんだよ。
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プロメテウスに翼を!!

2014年04月26日 09時57分09秒 | Weblog
 お義父さんが、逝った。
 4月24日の午後1時過ぎだった。

 呼吸不全になりかけて、ひどい酸欠と頭痛とそれから全身の痛みの中で、ゆっくりと意識を閉じていった。
 
 お疲れ様でした・・・。
 みんな、みんな。

 いまは、葬儀の準備でいろいろな人が出たり入ったりする。
 指図する人もいろいろいるので余分に混乱している。
 これも乗り越えないと、休めない。

 癌の痛み以前から、疼痛が全身にあった。左肩に出る疼痛が一番ひどいようで、いつも「いたいいたい」と哭いていた。
 嘔吐、腹痛も。体中、痛みのパニックに苛まれていた。

 義父は、生真面目で、情け深い人だ。体が動かなくなるまで働いてきた。
 こんな苛みをうける謂れはないのだが・・・。

 
 義父の最期、介護する義母も体力の限界を越えていた。昼間はろくに座っていない。夜はろくに寝ていない。
 長男と長女(BELAちゃん)が交代で介護を代わるが、やはり眠れなくなるらしい。
 みんな疲れていた。
 家で看取るって、みんなで合意したことだけど、やっぱり大変だ。

 つい「尊厳死」なんて言葉が浮いてくる。
 
 言っておくが、だれも悪くないし、だれにも責めることはできない。
 ただ、みんな精一杯やっていただけ。そのなかで小さく呟かれる愚痴には、つい、そういう単語が浮かんで来ていたのだ。

 もちろん、自然死が大原則(でなかったら犯罪になっちゃう)であることは言うまでもない。
 自然死とは「遅らせる」ことも「早める」ことも出来ない、ということだ。
 それがこんなにもツラいことなのか。こんなにも無力感に苛まれることなのか。
 最期の一日は、義父はたしかに辛そうだったが、これで楽になれるという、その事だけがみんなの救いになっていたような気がする。 

 そもそも、勝手に人の値打ちというものを考えてしまうから、「死ぬこと」にも何か意味や価値を乗っけたがる。
 死ぬのが早い、もっと早く死んでおけばよかった。
 そんなものは結果の前には無意味だ。

 逆に、生物の「寿命」というものには何か理由はあるのかもしれない。
 人間が考える「意味」や「価値」ではない。自然界の理由が。

 それは細胞の生み出す生体エネルギーの絶対量が一定の水準を維持できるように生死を繰り返しているとか、
 呼吸による酸素、二酸化炭素濃度が大気のバランスを維持しているとか、

 そういう理解できないような何かがあって、お義父さんも、これまで生かされてきたのだろう。
 
 なかなか「お迎え」が来ないことに戸惑っていたのは誰よりも本人だった。
 それが苦しみを相乗させ、家族をも巻き込んだ。
 言い方が変かもしれないが、誰も悪くない。だれも責められるべきではない。

 とにかく、お義父さんは逝った。
 やっとすべての苦しみから解放された。
 僕たちは、生を続けるために、また歩み続ける。
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