放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

プロメテウスに翼を!

2014年04月18日 00時25分17秒 | Weblog
 義父はいま、死の床にいる。

 病名は・・・、複雑すぎてどう説明すればよいのかわからない。
 まず高齢である。83歳。糖尿と脊椎間狭窄症に長いこと苦しめられてきた。
 腹中部に腫瘍があり、膵臓周辺に癌コロニーを形成している。
 さらに心疾患。
 腸動脈と脳髄にも瘤もある。 


 震災後(5月に)、東京まで葬式に出かけ具合が悪くなった。
 それから、何を食べてもすぐ下すようになり、入退院を繰り返した。
 やはり医者が腹中部の遺物に対し首をひねった。
 検査、検査、開腹検査もしたが診断が付かない。医学的実験材料にされているのではないかとさえ疑った。
 けっきょく癌だと認定(?)されたのが1年前。やはり桜の季節。遅すぎた。
 無責任な医者からは11月までもたない、と言われていたが、冬を乗り越えた。 
 長く働いてきた人は生命力も強いのかもしれない。 

 それでも足腰は弱りつづけ、ついに自力でトイレに行けなくなった。
 体重は40キロ弱。
 寝たきりになると、今度は神経性疼痛も併発した。
 いろいろありすぎて薬の処方が難しくなってきた。あの薬は血流に影響が出る。この薬は意識が混濁するので難しい、と。

 3月28日(金)に一時「危篤状態」となり、一斉に呼び出しがかかった。 
 今後も重篤な状態に陥りやすいと聞かされ、家族(妻、長男、長女)で話し合い、延命措置を一切しないことを医者に申し出た。
 4月7日、点滴が外された。薬も投与を見送った。命を自然にまかせた。
 尿の量も減っている。食事もご飯数粒だけ。

 それでも強靭な生命力は義父を支え続けている。

 それはまるで巌に縛り付けられたプロメテウスのよう。
 野鳥にはらわたを食い破られても生き続けている。
 
 痛みと嘔吐と譫妄(せんもう)の日々。
 痛みが正気を醒ます日は、「殺してくれ」と悲痛に訴える。
 正気でない夜は、動けるはずのない身体で徘徊しようとする。譫妄しているときは、僕らの顔は判っていない。

 誰よりも本人が延命を望んでいない。
 家族は、せめて残された時間の痛みを取り除いてほしいと医者に訴えた。
 それでも医者は、効くはずのない胃腸薬を寄越すだけ。匙投げられたのか。

 願わくば、すべてから開放される翼を、彼に・・・。
 天上へとたどり着ける強い翼を・・・!
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定義如来の三角あぶらげ

2014年01月20日 01時03分35秒 | Weblog
1/19(日)、定義(じょうげ)如来にお参りに行きました。
この日は大吹雪(山だからね)。
積雪も40センチ越えているようです。この雪の中、それでも駐車場いっぱいでした。スキー場みたい・・・。

正しくは極楽山西方寺。浄土宗のお寺です。
昔から角田市の高蔵寺(真言宗)とは姉妹の関係にあるお寺とされ、この二つのお寺のお札ならばケンカすることはないといいます(ふつう、お寺や神社のお札、神紋などを並べておまつりすると、ケンカしてご利益がなくなるそうな)

なぜそうなのかはわかりません。同じ阿弥陀さまだからでしょうか。

定義如来は平家の落人伝説に発祥するといわれており、立派な山門と、これまた立派な門前町が有名です。
ここは、信心と食い気で人があつまる所なんです。

で、お参りを済ませるとお目当てはあったかい食事とおみやげ。

あげまんじゅう、焼きおにぎり、焼きだんご、定義そば、
そして三角あぶらげ!

・・・ってアレ、ない?


「売り切れましたよ」
ありゃー、他のおみやげ屋さんはどうかな?
「売り切れです、今日はもうダメだよ」

え? な、なんで?

「ヒミツのケンミンショーで紹介されちゃったからね、お客さん、そればっか買いにきたよ」
うそー、そんなー!!!

雪の中を無理して上がってきた努力の半分は報われないことが決定した・・・。

こんなことなら宮城県立美術館の「ミュシャ展」とテンビンにかけときゃよかった。
仙台の人、出足が遅いから、先に展覧会を見ときゃよかったかもしれない・・・。

無念・・・。
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平泉・中尊寺へ

2013年08月05日 00時09分51秒 | Weblog
 鎌倉へ行ったからというわけではないが、なぜか勢いで平泉に来ていた。

 ちょっと登米(とめ)の方へ行こうと思っただけなんだけど、そのまま道もわからないまま東北道を北上したら、一関まで来てしまい、勢いでそのまま平泉へ。
 鎌倉で誰かが僕らに平泉への言付けを託したのだろうか。

 休日だったので混んでいたが、中尊寺へ。

 
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NHK-FM「とことんYMOとその界隈」

2013年08月01日 22時54分59秒 | Weblog
きたぜ、やっときたぜYMO!

香山リカ先生、選曲の幅広さに圧倒されました。

それにしても初期の細野サウンドというか、ジャパンテクノの黎明期って、低音部にボコボコしたリズムが必ずついてまわる。
まるでギーガンが描く怪物の背骨のように一定のリズムが永遠と続いている。この無機質な感じがいい。音楽の抑揚に無頓着な冷徹さがいい。
もちろん、そこには現代の楽器では考えられないような手作りの難しさがあるのだが・・・。

次の瞬間に何が出てくるか判らないワクワク感。そして紡ぎだされるメロディの愉快さ、奇怪さ。
僕はあの頃のサウンドが大好きでした。


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鎌倉漫歩景-8

2013年07月14日 01時30分54秒 | Weblog
海蔵寺を後にする。
細い道路でタクシーを避けながら歩く。
とうぜん塀にへばりつくような格好になる。見るとはナシに見てしまう他人さまのお庭・・・。
古都にあるお住まいって、それだけでサマになる。というか、住む人の情緒が自然と趣き深いものになってゆくのだろうか。

ちょっと道に迷ったが、踏切を越えて道沿いにいき、なんとか雪ノ下・鏑木清方美術館の近くに出た。つまり小町通である。
折角だからと若宮八幡宮を参拝する事にした。

ところが、ひどい渋滞で、いや、渋滞って、参拝客(人ごみ)の渋滞ね。
階段を上がって拝殿に近づこうと思ったが、ここで断念。
結局、それ以上は登らず、あきらめて国宝館のほうを見て帰った。

このあともしばらく建長寺方向へぶらぶらするのだが、お話はこのあたりで終わりにしようと思う。

やはり1日半ではいろいろ行動に制限ができてしまう。
それでもBELAちゃんのリサーチがあったから、見所は満載だった。
また鎌倉に来れるときがあれば、今度は寺院のほとんどを拝観することができるだろう。ガイドブックなしで町並みをぶらぶらできるようになれたら「鎌倉漫歩計」も上級偏である。

ああ、エノデンが待っている。この街の時間が、もっともっとゆっくりと流れますように。
この日は万歩計1万6千超だったそうです(次男)。
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鎌倉漫歩景-7

2013年07月02日 13時10分31秒 | Weblog
タクシーで駅前に下ろしてもらってそこから北鎌倉に出ようか、それとも北条政子の墓を見ようかといろいろ案はでたが、BELAちゃんが関心を示している海蔵寺へタクシーでいくことにした。

簡単に「いくことにした」などと書いたが、鎌倉の人ならばコースがわかるだろうから、どんだけワガママな注文だったか想像できるだろう。
ご推察のとおりである。
その道の細さといったら! ・・・運転手さんの技術の高さに脱帽。そして度胸にも。

途中、いくぶん広い道には出るが、すぐまた圧迫感のある地形を刺さるようにして進んでいく。だんだん運転手さんに申し訳なくなってきた・・・。
やがて正面に風情のある大木とお堂が見えてきた。海蔵寺だ。

ここでタクシーには丁寧にお礼を言って別れた。
右も左も迫るような民家。そしてその背後には切り立った断崖が連なっている。

このアタリは「扇ヶ谷(おうぎがやつ)」というそうな。
ここも断崖に染み出した水が作った地形だろう。
あちこちに水が染み出していて、故事や伝説のある「井(泉)」もある。

海蔵寺は臨済宗のお寺。禅寺らしくさっぱりとしている。けれど一方でここは花の寺でもある。
ゆるやかな石段をのぼり山門をくぐると、よく手入れされた植栽が並んでいる。
アジサイ、萩、そして海棠(カイドウ)。幸運にも、カイドウ満開の季節に訪れることができました。

庫裏は太い太い梁ががっしりと組み合わさっていて、まるで東北の古民家のよう。
その正面、まるで満開の桜のように紅色(くれない)の海棠が咲き誇る。
いいですねぇ。華やいでいますね。いよいよ東北の遅い春を見つけたように錯覚してしまう。
りっぱなカメラを手にしたオジサンたちが思い思いの場所から海棠を撮影していた。みんなプロみたいな顔している・・・。

そのオジサンたちの背後に薬師堂があった。
中はいちめん土間。その奥に須弥壇があり、お薬師さまが薬壷を持って座っていらっしゃる。
ちょっと雰囲気がヤグラの中に似ている。こういう湿っぽい空間が当時の鎌倉人は好みだったのかも。
それともこの土間になにかイミがあるのかしら・・・。

もちろん薬師堂の背後はりっぱなヤグラがずらりと並んでいる。
何度も言うけど、こういうのって崩れたりしないの?


さて、海蔵寺の冒頭でも書いたけど、扇ヶ谷の周辺には故事や伝説のある「井(泉)」がいくつか有る。
その一つが「底脱の井(そこぬけのい)」。鎌倉十井の一つだという。

修行中の尼僧(武家の娘とも)が、ある日ここへ水を汲みに来たときに水桶の底が抜けた。
その瞬間、心の迷いが晴れ、いわゆる頓悟(とんご)した、という。
そのときに詠まれたと伝わる歌が逸話とともに海蔵寺には残っている。
「千代能がいただく桶の底脱けて 水たまらねば月もやどらじ」 詠み人は「無著禅尼」とも「如大禅尼」とも。

「水」とは誰かの評価の喩え。
自評か他評かわからぬが、一方的で勝手なモノサシであることに違いなかろう。
「月」とは自分。評価される側。
または逆に捉えてもよいかも。すなわち月が評価概念であり、水はそれを受け止める自分自身。
人って、誰しも一定の既成概念で縛られているところがある。それは時に自分を測るモノサシになり、時に「他人の目(批評)」となって個人を縛りつける。
けれどある日、桶がこわれて水が流れ落ちたその瞬間、それはあっさりと流れていった。
モノサシや批評は絶対なものではない。対する自分という現象もまた夢マボロシの如く、である。
そうして初めて、世の中の物事に対して、自分を勘定に入れずにあるがままに眺めることができるようになり、あらゆることが、醜くも美しくもないことに気がつくのだろう。
「水もたまらねば月もやどらじ」
水が流れてしまえば月も映らない。
それは誰よりも自由な境地であり、身も心もこれ以上ないくらいに軽やかだったに違いない。

この尼僧(または娘)の逸話はよく画題として取り上げられる。文人好みの画題といってよい。
画題のキモとなるのは尼僧(娘)の表情。割れた桶片手にどのような悟りの表情を浮かべるのか、ここで画家の力量が問われる。

BELAちゃんもこの画題は知っていたが、それが鎌倉にあることは知らなかったとのこと。しかもそれが海蔵寺にあるなんて。
知らないで来たから、よけいに感激しているBELAちゃんでした。


もう一つ、ここには不思議な「井(泉)」がある。
「十六井(じゅうろくせいorじゅうろくのい)」という。
厳密には海蔵寺から外れたところにあるのだが、境内で見学料を払うようになっているのだから海蔵寺の管理なのだろう。

そこは、断崖のそばをぐるりと廻って細い小道を伝うようにして進んだ先にある。
こういう小道はいかにも古都・鎌倉という雰囲気でよいのだが、やはり断崖にどぼんとクチをあけている「やぐら」の不気味さに落ち着かない気分になる。
なんども言うけど、この圧迫感には慣れないなぁ。

やがて、目の前にひとつの大きな「やぐら」が立ちはだかる。入り口に柵が設けられ、中に入ることはできない(入りたくないけど)。
ここはいままでの「やぐら」とは空気が違う。洞もかなり深く広い。そしてその底には整然と四列×四列の穴が開いていて、満々と清冽な水を湛えている。奥の壁に奉られているのは宇賀神(水の神)であろうか。
これが「十六井」である。

ふとBELAちゃんが意外そうな声を上げた。
「やぐら」の柵の右脇に石版が埋め込まれている。そこには木菴和尚の文が書かれてあった。

木菴和尚(1611-84)は中国福建省の人。同じく福建省の隠元和尚(黄檗宗(おうばくしゅう)の始祖)とともに来日。
隠元和尚が京都宇治に黄檗山萬福寺を創建し、木菴和尚がその二代目となった。

碑文をみると「黄檗木菴山僧書」とある。おそらく萬福寺二代に就いてからの碑文ではないか。
なぜここに木菴和尚の碑文があるのかわからない。
このことについていろいろネットで検索したが何も出てこない。
きっと碑文を解読するしかないのだろう。時間かかりそうだけど・・・。
「やぐら」の周辺を写真に撮るのはなんだか怖いんだけれど仕方が無い。僕らは碑文をいろいろな角度で丹念に撮った。
これは今後の宿題とする。

今回の旅で一番見応えと話題があったのは海蔵寺だったかもしれない。
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鎌倉漫歩景-4

2013年05月09日 13時27分18秒 | Weblog
鎌倉の景観を語る上で、どうしてもはずせないのが「やぐら」。

「やぐら」と言うと、盆踊りの中心にある櫓とかを想像してしまうが、鎌倉の「やぐら」は、むしろ岩窟である。
鎌倉のあちこちに露出している崖の岩肌に穴を掘る。人が屈んで入れるくらいの高さ、奥行きはさまざまだけど、深いもので四畳半くらい、かな? 狭いものならば畳一枚を横長に敷いたくらい。そこに五輪の塔や宝框印塔などが置かれている。
五輪の塔は鎌倉期から流行した墓石。ということは、これらは鎌倉期以降の墓という解釈でよいのだろう。必ずしもすべてかどうか判らないが。
地面にはお骨を納めたとされる小さな穴があるという。きっと火葬だろう。

正直、やぐらの前に立つたびに、言いようのない不気味さを感じていた。あれに慣れるのには時間がかかると思う。

まず鬱蒼としたたたずまいにドキリとする。
断崖だから圧迫感もある。崖のところどころ苔色になっているのも怖い。地層から水が染み出しているようだ。そのまま小さな水の流れを形成しているところもある。
おそらく水が土砂を運んで出来た堆積層なのだろう。地震が原因で隆起したのち、海が侵食して断崖が生まれたか。きっとミルフィーユのようにモロいのではないか。
モロいからこそ玄室のような洞窟が掘れる。洞窟にさらに小窓のようなくぼみをつけてお骨を合葬するところもある。いずれにしろ外から丸見えの墓室がそこにはある。しかも遮るものとて無く、安易に立ち入れてしまう状態なので尚のこと戸惑ってしまう

さて、報国寺を下って滑川に出る。これまで鎌倉宮、金沢街道、田楽辻子の道、報国寺、そして滑川と、結構歩いている。
このあたりは川っぺりを護岸加工したというより、県道の道幅を広げるために川の上にかぶさるようなデッキを設けたように見える。デッキの下には、そのままの川床があり、魚も水鳥もいる。小川だけど豊かな生態系を残せているのかもしれない。

橋を渡り、対岸の山を目指す。
ここに杉本寺がある。鎌倉最古の仏像、三体の十一面観音を安置している。天平から平安期にかけての仏である。
白い幟がずらりと並ぶ、苔むした階段をえんえんと登り、途中に弁財天を拝む。
ここも「やぐら」のようだ。水が湧き出していたので弁財天をお祀りしたのだろう。
そもそも今のぼっている石段は、かつて砦の城壁であったようだ。ここから本堂の裏手の山全体が杉本城ということになっている。時代は南北朝の頃。「太平記」にここが攻防戦の舞台になった記述があるという。よくまあ仏様が焼けなかったものだ。

石段は途中から柵で登れない。この先は崩れやすいのか。案内に従い脇階段を通って台地に出た。
17年ぶりの杉本寺。
お堂のたたずまいが変わっていないのがうれしい。でも屋根の一部にシートをかけている。雨漏りだろうか。

確かに観光地ではあるのだが、同時にここは霊場でもあるのだ。湿り気のある風と、あたりに漂うお香がそれに気付かせてくれる。

一礼してから本堂へ上がる。
前立ての観音様を拝み、それからクツを脱ぎ内陣へと進む。内陣の奥にコンクリートの覆屋があり、そこに分厚いガラスがはまっている(この、コンクリの厳重な保管と、煤で真っ黒くなった本堂の梁とのギャップがすごい)。鎌倉最古の仏像はその奥に安置されている。縁起によれば、天平期に行基菩薩によって刻された十一面観音菩薩と、さらに慈覚大師による十一面観音菩薩、そして恵心僧都による十一面観音菩薩と、まるで三役揃い踏みのようなものだ。いずれも国または県指定の重要文化財である。厳重なカプセルに格納しているのも「さも有りなむ」というわけ。


さて、本堂を出ると、敷地の右に五輪の塔がずらりと並べられているのが見える。これは、もしかしたら、戦争で死んだ鎌倉御家人たちはないか。または寺域を整備するときに発見されたやぐらの中にあったものか・・・。

本堂の周囲をみると、やっぱりここもやぐらでいっぱいだった。
それぞれの墓誌があるわけでもないので、誰の墓なのかさっぱりわからない。武士なのか坊さんなのかもわからない。
ご住職さんはこんなところで勤行していて怖くないのか、と子供のようなことを考えてしまう。

ぐるりとお堂の周りを見てから、お堂の左脇の細い上り坂へ数人向かうのを見た。
なにがあるんだろう?
そっちへ向かってみた。
踏み石のある細い上り坂。断崖の上を渡るように続いている。
途中で眺めのよいところに出た。

で、それっきり・・・。
道は民家へ向かっていただけ。

なんだこりゃ?

あとでその道が杉本砦の城壁であろうことに気が付いた。
きっと物見をしたところだろう。

このへんの歴史と地理にもっと詳しければ、何て事ない細道でも十分に楽しめるのだろうか。
なんか、勿体ないことをした・・・。
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放菴のお正月レポート

2013年01月26日 22時37分47秒 | Weblog
お正月は、どこへも行きませんでした。

例年ですと、僕かBELAちゃんの実家へ泊まりに行くのです。
「けれど今年は受験生いるから」、ってのが出かけなかった一応の名目です。

まあ、せっかくだから放菴のお正月も楽しみましょう、ってことにもなるんですがね。
年末はとんかつ屋さんをひとつ開拓して「ポンポンジー」(満腹の意味らしい。BELAちゃん作)。

大晦日にはもちろん年越しそば。
そばは家族全員すきで、なんと500gは平気で消化します。600gをこなしたこともありました。
この日、家族で初「モノポリー」。
ずっとボードを買ったままホコリをかぶっていました。子供たちもこのゲームが気に入ってくれたようで。よかったよかった。
こんど「スコットランドヤード」っての買おうな。
そしてそして、新年の時報を聞いてから初詣です。うっ寒い!


すこし寝て、日が高くなってから、デパート系「おせち料理」を初めて食しました。
もちろん事前にデリバリーしてもらっていました。
フタをあけると、おおっ豪華!
(エビの尻尾やカニのツメ見りゃ豪華だと勝手に思い込んでいるもので・・・)

元日は放菴で滅多にやらない酒とご馳走とコタツとボードゲームで過ごしました。
ダラダラしたけど、たまにはいいかも。


昨年のお正月は会津で迎えました。
ビジネスホテルだったのに、水道のお水がおいしくてびっくり。
会津のひとはこんなおいしい水を飲んでいるんですね。うらやましい。
ホテルからレトロな送迎車を回してもらい、「田事」という旅館兼料亭で一献。
炉端で頂くお酒と肴がうまかったー。

また会津行きたいな。
でも、ま、大河ブームがおさまってからだね。

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2013 初書き込みです

2013年01月26日 22時20分52秒 | Weblog
今年もよろしくお願いします。

相変わらず更新遅いです。
相変わらず可愛気無いです。
相変わらず震災のこととか書きます。
ときどき「やさしいご馳走」とか連載します。「放菴へ、愛を込めて」も連載します。

個人への誹謗・中傷は書きません。
個人情報も記載してしまわないように気をつけます。

そのうち、郷土歴史のこととか書くスペースを確保したいです。

今年も懸念材料の多い一年でしょう。
それでも、面白がって書いていられる場所にしたいです。
だれかが「うーん、そっかぁ」と言ってくれるようなことを書きたいです。
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寝相

2012年12月13日 11時04分15秒 | Weblog
朝、目が覚めたら、ズボンを脱いでいた。

どゆこと?

布団の中で寝ていたことは間違いない、けれど布団の中でズボンを脱いでいた。
まあパジャマのズボンなので簡単に脱げることは脱げるんだけど、なぜ脱いだのか理由がわからない。

どゆこと?

なんか恥ずかしくって布団から出られない。
かと言って布団の中でゴソゴソやっていると却って「不審な男」になってしまう。

うつらうつらしているとBELAちゃんに布団を剥がれてしまう。

布団のなか、足でズボンを手繰り寄せて(足繰り寄せて)何事もないフリしてそっと起き上がった。
スエットを着るドサクサでズボンを穿き、落ち着いてからしばし考え込む。

どゆこと?

そういえばさっき、起きて着替える夢を見たような気がする。
じゃあ、寝ぼけて脱いだ?

いやいや

なんか順序が違うような気がしてきた。

まず、ズボンを脱いでいて(だからなんで?)、それから着替える夢(ストーリー)を作り出したんじゃないかな。
ズボンを脱いだ自分のために後から説明を取って付けた的な・・・。

これまでにも寝ながらズボンを脱ぐということが時々あった。
本当に数年に1回とかいう感じ。その奇異で不可解な行動ゆえに忘られずにいる。

うーん・・・。


いろいろ考えて、一つの仮説ができた。

夏の暑いとき、ズボンを穿かずに寝るということはよくある。
それこそ、穿いていたって暑くて脱いでしまう。
これか?

この習慣が頭の隅に残っていて、冬でも無意識のうちにズボンを脱いでしまうのかしら?
布団の中が暖かくなってくると、体が「これから暑くなる」と勘違いして、ズボンを脱ぐのかもしれない。

こういう寝相の悪さってものあるんだねぇ。

うちの子供たちも、寝ながら「伸び」をするので、何度かパンチ&裏拳を喰らったことがあるけど、そういうのともまた違った、自分の深層心理のフチを覗くようでなんだか不気味な朝でした。


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