鎌倉の景観を語る上で、どうしてもはずせないのが「やぐら」。
「やぐら」と言うと、盆踊りの中心にある櫓とかを想像してしまうが、鎌倉の「やぐら」は、むしろ岩窟である。
鎌倉のあちこちに露出している崖の岩肌に穴を掘る。人が屈んで入れるくらいの高さ、奥行きはさまざまだけど、深いもので四畳半くらい、かな? 狭いものならば畳一枚を横長に敷いたくらい。そこに五輪の塔や宝框印塔などが置かれている。
五輪の塔は鎌倉期から流行した墓石。ということは、これらは鎌倉期以降の墓という解釈でよいのだろう。必ずしもすべてかどうか判らないが。
地面にはお骨を納めたとされる小さな穴があるという。きっと火葬だろう。
正直、やぐらの前に立つたびに、言いようのない不気味さを感じていた。あれに慣れるのには時間がかかると思う。
まず鬱蒼としたたたずまいにドキリとする。
断崖だから圧迫感もある。崖のところどころ苔色になっているのも怖い。地層から水が染み出しているようだ。そのまま小さな水の流れを形成しているところもある。
おそらく水が土砂を運んで出来た堆積層なのだろう。地震が原因で隆起したのち、海が侵食して断崖が生まれたか。きっとミルフィーユのようにモロいのではないか。
モロいからこそ玄室のような洞窟が掘れる。洞窟にさらに小窓のようなくぼみをつけてお骨を合葬するところもある。いずれにしろ外から丸見えの墓室がそこにはある。しかも遮るものとて無く、安易に立ち入れてしまう状態なので尚のこと戸惑ってしまう
さて、報国寺を下って滑川に出る。これまで鎌倉宮、金沢街道、田楽辻子の道、報国寺、そして滑川と、結構歩いている。
このあたりは川っぺりを護岸加工したというより、県道の道幅を広げるために川の上にかぶさるようなデッキを設けたように見える。デッキの下には、そのままの川床があり、魚も水鳥もいる。小川だけど豊かな生態系を残せているのかもしれない。
橋を渡り、対岸の山を目指す。
ここに杉本寺がある。鎌倉最古の仏像、三体の十一面観音を安置している。天平から平安期にかけての仏である。
白い幟がずらりと並ぶ、苔むした階段をえんえんと登り、途中に弁財天を拝む。
ここも「やぐら」のようだ。水が湧き出していたので弁財天をお祀りしたのだろう。
そもそも今のぼっている石段は、かつて砦の城壁であったようだ。ここから本堂の裏手の山全体が杉本城ということになっている。時代は南北朝の頃。「太平記」にここが攻防戦の舞台になった記述があるという。よくまあ仏様が焼けなかったものだ。
石段は途中から柵で登れない。この先は崩れやすいのか。案内に従い脇階段を通って台地に出た。
17年ぶりの杉本寺。
お堂のたたずまいが変わっていないのがうれしい。でも屋根の一部にシートをかけている。雨漏りだろうか。
確かに観光地ではあるのだが、同時にここは霊場でもあるのだ。湿り気のある風と、あたりに漂うお香がそれに気付かせてくれる。
一礼してから本堂へ上がる。
前立ての観音様を拝み、それからクツを脱ぎ内陣へと進む。内陣の奥にコンクリートの覆屋があり、そこに分厚いガラスがはまっている(この、コンクリの厳重な保管と、煤で真っ黒くなった本堂の梁とのギャップがすごい)。鎌倉最古の仏像はその奥に安置されている。縁起によれば、天平期に行基菩薩によって刻された十一面観音菩薩と、さらに慈覚大師による十一面観音菩薩、そして恵心僧都による十一面観音菩薩と、まるで三役揃い踏みのようなものだ。いずれも国または県指定の重要文化財である。厳重なカプセルに格納しているのも「さも有りなむ」というわけ。
さて、本堂を出ると、敷地の右に五輪の塔がずらりと並べられているのが見える。これは、もしかしたら、戦争で死んだ鎌倉御家人たちはないか。または寺域を整備するときに発見されたやぐらの中にあったものか・・・。
本堂の周囲をみると、やっぱりここもやぐらでいっぱいだった。
それぞれの墓誌があるわけでもないので、誰の墓なのかさっぱりわからない。武士なのか坊さんなのかもわからない。
ご住職さんはこんなところで勤行していて怖くないのか、と子供のようなことを考えてしまう。
ぐるりとお堂の周りを見てから、お堂の左脇の細い上り坂へ数人向かうのを見た。
なにがあるんだろう?
そっちへ向かってみた。
踏み石のある細い上り坂。断崖の上を渡るように続いている。
途中で眺めのよいところに出た。
で、それっきり・・・。
道は民家へ向かっていただけ。
なんだこりゃ?
あとでその道が杉本砦の城壁であろうことに気が付いた。
きっと物見をしたところだろう。
このへんの歴史と地理にもっと詳しければ、何て事ない細道でも十分に楽しめるのだろうか。
なんか、勿体ないことをした・・・。
「やぐら」と言うと、盆踊りの中心にある櫓とかを想像してしまうが、鎌倉の「やぐら」は、むしろ岩窟である。
鎌倉のあちこちに露出している崖の岩肌に穴を掘る。人が屈んで入れるくらいの高さ、奥行きはさまざまだけど、深いもので四畳半くらい、かな? 狭いものならば畳一枚を横長に敷いたくらい。そこに五輪の塔や宝框印塔などが置かれている。
五輪の塔は鎌倉期から流行した墓石。ということは、これらは鎌倉期以降の墓という解釈でよいのだろう。必ずしもすべてかどうか判らないが。
地面にはお骨を納めたとされる小さな穴があるという。きっと火葬だろう。
正直、やぐらの前に立つたびに、言いようのない不気味さを感じていた。あれに慣れるのには時間がかかると思う。
まず鬱蒼としたたたずまいにドキリとする。
断崖だから圧迫感もある。崖のところどころ苔色になっているのも怖い。地層から水が染み出しているようだ。そのまま小さな水の流れを形成しているところもある。
おそらく水が土砂を運んで出来た堆積層なのだろう。地震が原因で隆起したのち、海が侵食して断崖が生まれたか。きっとミルフィーユのようにモロいのではないか。
モロいからこそ玄室のような洞窟が掘れる。洞窟にさらに小窓のようなくぼみをつけてお骨を合葬するところもある。いずれにしろ外から丸見えの墓室がそこにはある。しかも遮るものとて無く、安易に立ち入れてしまう状態なので尚のこと戸惑ってしまう
さて、報国寺を下って滑川に出る。これまで鎌倉宮、金沢街道、田楽辻子の道、報国寺、そして滑川と、結構歩いている。
このあたりは川っぺりを護岸加工したというより、県道の道幅を広げるために川の上にかぶさるようなデッキを設けたように見える。デッキの下には、そのままの川床があり、魚も水鳥もいる。小川だけど豊かな生態系を残せているのかもしれない。
橋を渡り、対岸の山を目指す。
ここに杉本寺がある。鎌倉最古の仏像、三体の十一面観音を安置している。天平から平安期にかけての仏である。
白い幟がずらりと並ぶ、苔むした階段をえんえんと登り、途中に弁財天を拝む。
ここも「やぐら」のようだ。水が湧き出していたので弁財天をお祀りしたのだろう。
そもそも今のぼっている石段は、かつて砦の城壁であったようだ。ここから本堂の裏手の山全体が杉本城ということになっている。時代は南北朝の頃。「太平記」にここが攻防戦の舞台になった記述があるという。よくまあ仏様が焼けなかったものだ。
石段は途中から柵で登れない。この先は崩れやすいのか。案内に従い脇階段を通って台地に出た。
17年ぶりの杉本寺。
お堂のたたずまいが変わっていないのがうれしい。でも屋根の一部にシートをかけている。雨漏りだろうか。
確かに観光地ではあるのだが、同時にここは霊場でもあるのだ。湿り気のある風と、あたりに漂うお香がそれに気付かせてくれる。
一礼してから本堂へ上がる。
前立ての観音様を拝み、それからクツを脱ぎ内陣へと進む。内陣の奥にコンクリートの覆屋があり、そこに分厚いガラスがはまっている(この、コンクリの厳重な保管と、煤で真っ黒くなった本堂の梁とのギャップがすごい)。鎌倉最古の仏像はその奥に安置されている。縁起によれば、天平期に行基菩薩によって刻された十一面観音菩薩と、さらに慈覚大師による十一面観音菩薩、そして恵心僧都による十一面観音菩薩と、まるで三役揃い踏みのようなものだ。いずれも国または県指定の重要文化財である。厳重なカプセルに格納しているのも「さも有りなむ」というわけ。
さて、本堂を出ると、敷地の右に五輪の塔がずらりと並べられているのが見える。これは、もしかしたら、戦争で死んだ鎌倉御家人たちはないか。または寺域を整備するときに発見されたやぐらの中にあったものか・・・。
本堂の周囲をみると、やっぱりここもやぐらでいっぱいだった。
それぞれの墓誌があるわけでもないので、誰の墓なのかさっぱりわからない。武士なのか坊さんなのかもわからない。
ご住職さんはこんなところで勤行していて怖くないのか、と子供のようなことを考えてしまう。
ぐるりとお堂の周りを見てから、お堂の左脇の細い上り坂へ数人向かうのを見た。
なにがあるんだろう?
そっちへ向かってみた。
踏み石のある細い上り坂。断崖の上を渡るように続いている。
途中で眺めのよいところに出た。
で、それっきり・・・。
道は民家へ向かっていただけ。
なんだこりゃ?
あとでその道が杉本砦の城壁であろうことに気が付いた。
きっと物見をしたところだろう。
このへんの歴史と地理にもっと詳しければ、何て事ない細道でも十分に楽しめるのだろうか。
なんか、勿体ないことをした・・・。