放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

試論「100年の銀河鉄道」3<無為の幸福論>

2024年12月07日 02時01分53秒 | 賢治さん
 本文に出てくる「まことのみんなの幸(さいわい)」とは何なのか、何度も書いてみるが、どうも手が止まる。あんまり漠然としていて、掴みようがなさ過ぎる。
 おそらく賢治も「まことのみんなの幸(さいわい)」とは何なのか、答えを見つけることなかっただろう(または見つけても見失うことを繰り返したのではないか)。「銀河鉄道の夜」最終形を読んでも、ジョバンニもカムパネルラも、そして大型客船で遭難した姉弟を連れた青年も、誰一人確固たる自信をもってそれが何なのか語ってはいない。もしくは統一した答えを打ち出せなかったか。

- 「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。 ―
・・・
― 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
 燈台守がなぐさめていました。 ―
・・・
― 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。 ―
(引用文はいずれも「銀河鉄道の夜」最終形)

 かつて賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(農民藝術概論綱要)」と断じた。これに比べ、「銀河鉄道の夜」では「幸」について疑問形で話すことが多い。明らかにトーンが落ちている。これはなんとしたことだろうか。

 「銀河鉄道の夜」を読んで、小学生だった自分もジョバンニと同じように「まことのみんなの幸」を意識した。あれから45年以上経つが、いまだにそんなものを見たことがない。そもそも「まことのみんなの幸」って何だ。そんなものが本当にあるのだろうか。
 幸せというものは、人によってその形が違う。時はうつろい人の心もうつろう。そして価値観の多様性に気づかされてばかりいる昨今、個々の幸せはひとつとして同じものがない。さらに言えば、幸福は不幸と表裏一体で分離不可。だから他者に人の幸福なんぞ解るはずがない。
 幸福と不幸が表裏一体、分離不可であるのと同じく、厚意と傲慢(押し付け)もまた表裏一体、分離不可である。「良かれ・悪しかれ」は受け取り方次第。他者が勝手に決めつけるわけにはいかない。
 結局、人間ひとりの決意で何ができるというのか。まことの(真実の)みんなの(全人類の)幸(恒久的幸福)を実現することは到底不可能だし、ともすれば我々はみんな等しく幸せを追求すれども(まだ)叶っていないと嘆く日々を何千年、何万年、永劫に続けているではないか。これは「業(ごう)」である。
 「業」に挑み、なんども弾かれた経験をした賢治は元・教え子あてに書簡で自身の慢心を述懐しているが、それは多くの研究成果があるので、そちらに委ねたい。
 ここで別のことに注目したい。

 ジョバンニは、「ほんとうの幸」は一体何かわからないというのに、それを求めることに少しも迷っていないのだ。
 彼だけではなく、登場人物たちはみんな「ほんとうの幸」が何か解明できていないのに、誰一人として迷いを口にする者はいない。

 誰しもこんな経験はないだろうか。
 周囲に異変を感じて、とっさに身体が動いてしまうような。
 誰かを支えようとして思わず手を伸ばしてしまうような、そんな経験はないだろうか。難しいことを考えるまでもなく、良かれとも思う暇すらなく。
 こういう行動が、一定の割合で誰かの幸いに結びつくならば、それは蠍の火と同じだ。その時がきたら惜しまず行動しよう、という覚悟(いや態度か)を晩年の手帳に書かれた詩篇「雨ニモマケズ」にも見ることができる。
 こんな手でよかったら使ってください。この身でよかったら使ってください。自己犠牲とか、デクノボーとか、よくわかりません。ただ、この手が利くなら有効に使いたい。手がなくとも、この身が現存するならば、何かの足しにはならないだろうか。消耗品には消耗品の扱われ方というものがある。それが正しい扱われ方ならば、身が削れてゆくこともきっと正しいことなのだ、という「無為」の心地、いや「覚悟」というべきか。
 ジョバンニは、「別れ」ばかりが繰り返される銀河鉄道で、この「覚悟」を授かり培った。登場人物たちは、望むと望まざるとに拘らず、だれもが消耗品のように消え去る。しかしそこに醜さや惨めさはない。ただ不思議と明るくさっぱりとその役割を尽くして消えてゆく。これを無常とよぶ。
 実は誰でも、偉業や革命または大それたことをした人でも、広大な銀河にあっては無常の風に吹かれゆくひと粒の消耗品にすぎない。
 傲慢も偽善も無常。
 善意も嫉妬も無常。
 ほんとうのさいわいも無常の彼方にある。そう思えてならない。

 「銀河鉄道の夜」が書かれてからずいぶん時が経った。
 大きくなったジョバンニは、ザネリは、
その生涯の最期においてもほんとうの幸せを探し続けていただろうか。
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