放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

試論「100年の銀河鉄道」#4<ブルカニロ博士の犯罪>

2024年12月14日 02時42分33秒 | 賢治さん
 当時にも「エイリアス」または「アバター」という概念があったのだろうか。
 そのように思ってしまう登場人物が、物語に、いる。
 その人物は、初期形には存在しているが、最終形ではブロカニロ博士とともに忽然と消滅している。
 セロのような声。
  銀河鉄道のすべてを知っている。
   黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな。
  大きな一冊の本をもっている。
 その本は、あらゆる時代の人々が考えていた地理と歴史のことが載っている辞典。

 その人は名前を持っていない。ただ上記の通り形容されているだけ。
 夢の中でだけ登場する。はじめは銀河鉄道について声だけで話をする。カムパネルラが去ったあと、その席にいつの間にか座っていて、これから大人になって激しい時代を大股でわたってゆかなければならないとジョバンニを諭す。
 この人は最終形の推敲においてブロカニロ博士とともに削除されているから、博士と同一人物または博士と同一の役割をもっていると推察できる。しかし彼は初期形におけるストーリーテラーであり、ファシリテーターでもある。その発言の重要さはブロカニロ博士の比ではない。一緒に削除する必要性について賢治に再考を促したいほどだ。
 いっぽうブロカニロ博士が削除された理由は明快だと言ってもいい。

 博士は罪を犯した。その決定的な発言は以下のとおりである。

「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。」(初期形三)

 これは、ジョバンニが銀河鉄道の夢から醒めた時に博士が声をかけてきたときの様子である。
 実験とはなんのことだろう?

 物語という限られた設定の中で考えるならば、それはジョバンニを催眠誘導し、夢という劇場型空間において博士の考えを理解できるよう体験させることではなかろうか。
 夢は#2でも述べた通り、ひどく無責任なものだ。
 夢で見たものは体験したに等しく、しかもどんなに荒唐無稽でも、すんなり受け入れてしまう。夢は一方的で支配的なのだ。これを自分の思考を伝える実験の手段にしてしまうとは、何と傲慢なことか。
 こういうのを何というのだろう。「催眠術」、「刷り込み」、「劇場型の洗脳」・・・。
 やや無責任な形容を羅列したが、とにかく褒められたものではない。
 博士は夢から醒めたジョバンニに、小さく折りたたんだ切符に金貨を2枚包んで返している(初期形三)。これがなんだかひどく嫌だ。実験に付き合わせた謝礼なのか。

 さてジョバンニの夢体験がブロカニロ博士の実験ということになれば、「銀河鉄道」という壮大かつ幻想的な舞台装置も、登場する人々も、カムパネルラでさえ、すべて博士の手のひらの中で作り出された偽世界ということなのだろうか(これについて、博士がネクロマンシー術を使った疑惑も浮上してくる)。その結果ジョバンニが辿り着いた「すべての人のまことの幸い」も、博士が仕組んだ答えということなのか。こうなると「銀河鉄道の夜」は、「幻想」が聞いて呆れるとんでもない駄作ということになってしまう。
 ブルカニロ博士の思考はおそらく良心に満ち満ちているのだろう。しかし伝達方法には問題がある。こんな傲慢な方法は実験とは言わない。そしてあの発言は致命的だ。
 賢治はおそらく、そのことに気づき、瞋(いか)りと羞恥に苛まれながら原稿にバツを入れたのではないだろうか。
 こうしてブロカニロ博士はその罪ゆえに物語から追放されたのである。
 しかし、これだけでは作品の完成からは遠いように思う。
コメント
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