フレーミングについて
僕が考える「フレーミング」とは、枠組みとか学びの方向を決めること、指導者が持つ答えに導く柵(羊の群れを小屋に導くため)のことを指している。
体験学習において
「自分で考え、決断し、行動すること」をゴールにするなら、フレーミングはないほうがいい。
「良い経験をさせる」が必要と言うが、「◯◯をさせる」という価値観を押し付けている教育こそが「考えることをやめる」に近づけているのではないだろうか。
例えば、あなた自身が「考えて決断し、行動した時」はどんなとき?
僕は正直、自分の人生がつまらなくて苦しくてどうしようもなくなった時である。
「生き方」について先生方に教訓じみたことを言われた時ではない。
『答え』のある学びには限界がある。
新しい世界を発見してきた科学者や思想家、芸術家は大抵世間に認められていなかった。
それは「答え」を押し付けられてきたからである。
しかし彼らが素晴らしいのは「新しい答え」を見つけるために、「新しい問い」を作り出すことができたのだ。
そういう生き方ができる人を育みたいと思う。
実際、子ども達は勉強よりゲームやYouTubeに夢中である。
なぜなら勉強は大人が正解を押し付けるものだと勘違いしているから、「勉強」ってつまらない出来事なんだろうって認識している。
逆にゲームは唯一自由に遊ぶことができる世界であると認識している。(時間は限られているけど…)
例えば、ゲームをしたいと思う理由は?
スーパーマリオも「良い体験(クリアする体験)が大切」だと思う?
『程よい難しさ』が大切でしょ?
『出来そで出来ない』がいいんでしょ?
『出来た時の感動』が得たいんでしょ?
あと『エンタメ』要素でしょ?
でも僕は体験学習がゲームやYouTubeにも負けない要素を持っていると信じている。
僕はやっぱりその部分に惹かれてこの世界で生きている。
しかし指導者達は体験学習を学校の勉強みたいに『答え』『学びのゴール』がないと学習ではない!と言っている。
だからフレーミングは正義だと言う。
大多数がそうだし、恐らくクライアントがそれを求めている。そして教育者としてもそれが存在価値が高い。
その中で『フレーミング』についての違和感を感じている人は今のところ少ない。
「それがないと教育じゃない」とまで言う人もいる。
そもそもゴール設定が違うんだろうね。
体験学習の指導者は短期間で成果を出さなきゃいけない雇われ浪人なので、斬った悪者の数で評価される。ここでの「斬る」は「介入」の事だけど…(こういう表現をするから孤独になるんだと思う…)
とにかく僕は「新しい問いをつくる人」をゴールにする。
マリオで言えば「マリオメーカー」をゴールにする。
こ、これは良い例えじゃないですか?
あ、教育者達は「マリオメーカー」知らないか…YouTubeでよゐこの動画観たら…、あ、YouTubeも観ないか…
一緒に「まなびメーカー」で遊びませんか?