長い間、斎藤茂吉著「万葉秀歌」(岩波新書)によって、万葉集の歌に親しんできた。最近では、朝日新聞夕刊に掲載される中西進先生の「万葉こども塾」も参考になるので、切り抜いて保存している。
いままで、これらの著作に基づいて、主として万葉歌を表面的に解釈し、観賞してきたように思う。今回、万葉歌の背景となる万葉民俗学やその時代の史実にまで深入りし、万葉歌を読み直してみることを思い立った。以下、その結果として、万葉集の中から3つの歌を選択して、素人のコメントを残しておくことにした。
まず、次の持統天皇の歌をとりあげる。
春過ぎて 夏来(きた)るらし 白妙(しろたえ)の 衣(ころも)乾(ほ)したり 天(あめ)の香具山 (1・28)
ここに香具山は、当時、持統天皇のいる藤原宮から1kmくらい離れたところにある麓から50m位の高さの低い丘だそうである。この歌について、藤原宮から香具山まで遠すぎて白い衣は「白点」にしか見えないとか、香具山は全体が神聖な霊山とされてきたのであり、この丘に住んで衣をほすなど考えられない、という疑問が投げかけられている。
しかし、このような疑問は、私にはどうでもよいことに見える。持統天皇は、香具山の麓まで出向いて、白い衣を目撃したのかも知れず、近くの住民が香具山の麓に白い衣をほすことはあり得ることと考えるからだ。それより、「白妙の衣乾したり」の語句は、春から夏に移り、それまで着ていた衣を洗濯してほすという風景と、白い衣に夏の日光が反射してそれがまぶしいまでに見えるという状況とがマッチし、この歌を印象的なものにしている。
次に、有間皇子の歌をとりあげる。
家にあれば 笥(け)に盛る飯(いい)を 草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る (2・142)
この歌を単独でそのまま率直に読めば、旅行中に食事をしている風景としか読めない。笥(け)とは、米飯を盛るための食器のことで、竹製の箱または銀器であるという説がある。ふだん使っている食器もないという不自由な状況が想像できるとともに、椎の葉の上に飯を盛るという野趣あふれる非日常的な雰囲気さえ感じられる。強いて言うなら、野外でキャンプしているときの気分にも似ている。また、椎の葉は飯を盛るには小さ過ぎるのでは、という疑問が生じてくる。この問題については、旅行中であるといっても、弁当を包むための竹の皮の一枚くらいは持参したであろうから、そのようなものの上に何枚かの椎の葉を敷いて食器としたのではなかろうか、ということで納得できる。または、斎藤茂吉の説のように、椎の小枝を食器としたと考えてもよい。あるいは、すでに言われているように、椎の葉の上に少量の飯を載せて、土地の神か先祖の霊に供え、旅の安全を祈ったのではないか、とも考えられる。
しかし、この歌に関して、有間皇子は犯罪の容疑者として紀州へ護送される途中であるという境遇を考慮しないわけにはいかない。この歌の直前に置かれた歌、「磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真幸(まさき)くあらばまたかへり見む」(2・141)では、訊問が無事に済むことを祈っている。そうであれば、2・142の歌は、この祈りを受け、さきゆきの不安な気持ちに対して無事を祈ったものであることが考えられる。あるいは、食事どきの気安さから、皇子の不安感がふーと一時的に和らいだ状態を詠ったものかも知れない。
次に、大伴旅人の歌をとりあげる。
わが園(その)に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れくるかも(5・822)
この歌を読み、ここには大自然と一体感をもった人間が詠まれていると、感心したものである。この歌と比べて、古今集以後の歌は、「ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらん」とか、「心なき身にもあわれは知られけれしぎたつ沢の秋の夕暮れ」などのように、自然を詠うというよりも、自然と対抗するかのように内向する人間の心情を中心とする歌に変わっていったように思える。
しかし、万葉民俗学まで深入りしてみると、この旅人の歌に関する限り、そのような単純な判断には疑問を感じるようになった。この歌は、大伴旅人の邸宅で催された宴での「梅花の歌三十二首」中の一首である。まず、他の歌が今咲き誇っている梅の花を主題にしているのに、主人旅人の歌は、「梅の花散る」景を詠みこむのは奇妙である。大久保廣行は、この宴の開催は「旅人の個人的な目的として、二年前に急逝した妻大伴郎女への鎮魂があったと思われる」と述べている。いずれにしても、旅人の歌は、目の前の風景を率直に詠んだものでないことは確かである。
また、万葉の庭を詠んだ歌には、道教と深く結びついた「神仙思想」の影響があることが指摘されている。すなわち、万葉に詠まれた庭(園)は、「天・地・水という道教的な宇宙の垂直構造を表現していた」という。そうであれば、旅人のこの歌も「神仙思想」と無縁とは考えられない。
さらに、旅人の歌は、「梅花の歌三十二首」中の一首である山上憶良の歌「春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ」(5・818)と対照的である。憶良の歌は、庭が孤独な内面を見つめる個人的な風景に移行しており、大自然と一体感をもった人間という単純な構図から離れていっていると言える。
万葉集の研究者は、万葉歌によみ込まれた地名や言及された人名に疑問をいだき、想定されている地名の現地踏査をしたり、他の書物を参照して地名や人名を考証しようとしている。しかし、万葉歌を読む多くの人々は、遠い昔の地名や人名を特定することにはあまり関心がないと思う。万葉歌が作られ伝播された当時の状況は、多くの場合、うかがい知ることができないほど複雑ではないだろうか。表記する人物の心になぞらえて他人が歌をつくったり、他人が介入して歌を添削したり改変したりすることもあるだろう。和歌というものは、作歌当時の状況あるいは伝播過程をハッシュ関数のような不可逆関数を介して得たハッシュデータのようなものではなかろうか。そうであれば、一般に結果としての万葉歌から当時の状況や作歌過程、伝播過程を推定することは困難である。それでもなおかつ、万葉歌は、作者や歌の伝播に係わった人々がどうしても伝えたいと考えたこころを宿しているに違いない。万葉歌の背景となる万葉民俗や史実を参考にするにしても、要となるのは、多くの人々を介して万葉歌が伝えようとしている「こころ」、言い換えればメッセージであることは間違いない。
参考文献:
上野誠等編「万葉民俗学を学ぶ人のために」(世界思想社)
古田武彦著「古代史の十字路-万葉批判」(東洋書林)
小林恵子著「本当は怖ろしい万葉集」(祥伝社)