古代ギリシャで形成された哲学は、その後に発展する西洋哲学の源流となった。特に、プラトン哲学で論じられるイデア論については、私が知っている科学の一般書に限っても、4冊の著作で引用されている。
ある参考文献の著者は、「西洋哲学はプラトンにつけた脚注だといわれる。」とまで言っている。なるほど、カントの「純粋理性批判」で論じられる「物自体を知ることはできない」という文言は、プラトンのイデア論を踏襲するものと受け取られる。
しかしながら、プラトン哲学と言うと、多くの人々は、哲学という学問の一分野というくらいの認識で満足し、それが日常生活とどうかかわるのかについて考えたことはないのではなかろうか。かく言う私も、このブログを書こうと決めるまでは日常生活とのかかわりについて深く考えたことはなかった。
新聞を読んでいて、「イデア」について分かりやすく説明する人がいることを知った。その人は、紙に手書きの三角形を描き、これは何かと問う。多くの人は三角形と答える。しかし、それはイデアとしての三角形とは異なるものである。後者は、内角の和は180度のように数学的に定義されるものであり、手書きにせよ、定規や分度器を使って描くにせよ、人間がイデアとしての三角形を描くことはできない。したがって、我々はイデアとしての三角形を見ることはない。どうもプラトンのイデア論は、古代ギリシャの幾何学から多大の影響を受けているようだ。
シドニー・ブレナーが述べたように、「数学は完璧を目指す学問。物理学は最適を目指す学問。生物学は、進化があるため、満足できる答えを目指す学問である。」数学的構造をイデアとするならば、物理学に基づく観測データは、ベストの状態であってもイデアの近似にしかならない。生命体に至っては、イデアの存在自体がかすんでしまうほどであるが、生命体は、環境に適合するための最適解を実現したものとみなせる。生物がもつ遺伝情報は、進化の過程で環境に応じて変更されてきたのであり、これをイデアとみなす人はいないだろう。
量子力学においては、その数学的理論と量子の物理量を測定するという行為とは、別世界のものとなっている。その数学的構造こそ物自体であり、観測することはできない。ここから原子というものは実在するか否かの議論が生じ、「原子はないけど数学的構造はある」という構造実在論を主張できる。
人間の脳機能に関する統一理論において、その中核となるのは知覚モデルである。この知覚モデルによれば、網膜に映った画像をつくった原因は、直接知ることができないという意味で、「隠れ状態」と呼ばれる。脳の仕事は、感覚信号sから隠れ状態uを推論することである。この推論は、予測信号(予測値)を隠れ状態uに近づけるような予測作業を何回か行って、次第にuに近い知覚認識に達するのである。
この隠れ状態uが一応イデアに相当すると考えられる。プラトンは、例えば、すべての馬の特徴を含んだ理想的な馬が存在すると考え、それを「馬のイデア」と呼んだ。各個人の認識にはその人の主観が反映されるので、人によってその隠れ状態uは異なるかも知れない。しかし、現実の馬を見たとき、多くの人は、頭の中で抽象的な馬を思い浮かべ、「それは馬です」と答えるので、同じ「馬のイデア」を共有していることになる。
人工知能は、人間の脳機能がもつプロセスを真似ているので、入力されるデータsから隠れ状態uを推論する操作を行っている。データsを入力したニューラルネットワークからの出力は、予測値と呼ばれる。教師あり学習では、正解データSが設定され、これが隠れ状態uに相当する。また、S-予測値は、予測誤差に相当する。機械学習により、この予測誤差に基づくコスト関数が確度高く最適化されるようにニューラルネットワークの状態が決定される。
そういえば、一般力学の教科書には、「力学系の運動方程式が正確に解けるのはごく特別な場合に限るから、一般には近似解で満足しなければならない。この近似解を求めるのにしばしば用いられるのが摂動法と称せられる計算方法である。(中略) 例えば、太陽系惑星の運動において、他の惑星からの引力を無視すれば太陽と一つの惑星との二体問題となり、その正確解が求められる(注:これを第一次の近似解と呼んでもよいだろう)。その楕円軌道運動をもとにして、他の惑星の引力をも考慮したときの運動を近似的に求める方法である。」とある。
日常生活においても、新しい物をデザインしたり、既製品を修理したりするときには、いろいろ代案が考えられる中でその最適案を求める必要が生じる。その最適解は、諸条件を満足するので一応最良の解と考えてよいが、真の最適解ではないかも知れない。この場合には、満足できる最良の近似解ということになる。
人間の視覚系は時間を内在しないが、聴覚運動系は時間を内在する。そこで、両者の折り合いをつけるために、人間は時間の概念を意識するのだという。そうすると、プラトンのイデア論は、視覚系を対象とするものであり、時間の概念は内在しない。古代ギリシャの哲学の中で時間を内在する哲学として、ヘラクレイトス学派の「万物流転」説があるという。これは、日本で言う「諸行無常」に相当する。般若心経に出てくる「色即是空」は、プラトンのイデア論に相当するのだろうか。無関係とは考えないが、イデア論は哲学的議論を展開できるもの、色即是空は宗教的な悟りの境地に達すればよしとするものだろうか。
参考文献
養老孟司著「遺言。」(新潮新書)
森田邦久著「科学哲学講義」(ちくま新書)
森田新生著「計算する生命」(新潮社)
ある参考文献の著者は、「西洋哲学はプラトンにつけた脚注だといわれる。」とまで言っている。なるほど、カントの「純粋理性批判」で論じられる「物自体を知ることはできない」という文言は、プラトンのイデア論を踏襲するものと受け取られる。
しかしながら、プラトン哲学と言うと、多くの人々は、哲学という学問の一分野というくらいの認識で満足し、それが日常生活とどうかかわるのかについて考えたことはないのではなかろうか。かく言う私も、このブログを書こうと決めるまでは日常生活とのかかわりについて深く考えたことはなかった。
新聞を読んでいて、「イデア」について分かりやすく説明する人がいることを知った。その人は、紙に手書きの三角形を描き、これは何かと問う。多くの人は三角形と答える。しかし、それはイデアとしての三角形とは異なるものである。後者は、内角の和は180度のように数学的に定義されるものであり、手書きにせよ、定規や分度器を使って描くにせよ、人間がイデアとしての三角形を描くことはできない。したがって、我々はイデアとしての三角形を見ることはない。どうもプラトンのイデア論は、古代ギリシャの幾何学から多大の影響を受けているようだ。
シドニー・ブレナーが述べたように、「数学は完璧を目指す学問。物理学は最適を目指す学問。生物学は、進化があるため、満足できる答えを目指す学問である。」数学的構造をイデアとするならば、物理学に基づく観測データは、ベストの状態であってもイデアの近似にしかならない。生命体に至っては、イデアの存在自体がかすんでしまうほどであるが、生命体は、環境に適合するための最適解を実現したものとみなせる。生物がもつ遺伝情報は、進化の過程で環境に応じて変更されてきたのであり、これをイデアとみなす人はいないだろう。
量子力学においては、その数学的理論と量子の物理量を測定するという行為とは、別世界のものとなっている。その数学的構造こそ物自体であり、観測することはできない。ここから原子というものは実在するか否かの議論が生じ、「原子はないけど数学的構造はある」という構造実在論を主張できる。
人間の脳機能に関する統一理論において、その中核となるのは知覚モデルである。この知覚モデルによれば、網膜に映った画像をつくった原因は、直接知ることができないという意味で、「隠れ状態」と呼ばれる。脳の仕事は、感覚信号sから隠れ状態uを推論することである。この推論は、予測信号(予測値)を隠れ状態uに近づけるような予測作業を何回か行って、次第にuに近い知覚認識に達するのである。
この隠れ状態uが一応イデアに相当すると考えられる。プラトンは、例えば、すべての馬の特徴を含んだ理想的な馬が存在すると考え、それを「馬のイデア」と呼んだ。各個人の認識にはその人の主観が反映されるので、人によってその隠れ状態uは異なるかも知れない。しかし、現実の馬を見たとき、多くの人は、頭の中で抽象的な馬を思い浮かべ、「それは馬です」と答えるので、同じ「馬のイデア」を共有していることになる。
人工知能は、人間の脳機能がもつプロセスを真似ているので、入力されるデータsから隠れ状態uを推論する操作を行っている。データsを入力したニューラルネットワークからの出力は、予測値と呼ばれる。教師あり学習では、正解データSが設定され、これが隠れ状態uに相当する。また、S-予測値は、予測誤差に相当する。機械学習により、この予測誤差に基づくコスト関数が確度高く最適化されるようにニューラルネットワークの状態が決定される。
そういえば、一般力学の教科書には、「力学系の運動方程式が正確に解けるのはごく特別な場合に限るから、一般には近似解で満足しなければならない。この近似解を求めるのにしばしば用いられるのが摂動法と称せられる計算方法である。(中略) 例えば、太陽系惑星の運動において、他の惑星からの引力を無視すれば太陽と一つの惑星との二体問題となり、その正確解が求められる(注:これを第一次の近似解と呼んでもよいだろう)。その楕円軌道運動をもとにして、他の惑星の引力をも考慮したときの運動を近似的に求める方法である。」とある。
日常生活においても、新しい物をデザインしたり、既製品を修理したりするときには、いろいろ代案が考えられる中でその最適案を求める必要が生じる。その最適解は、諸条件を満足するので一応最良の解と考えてよいが、真の最適解ではないかも知れない。この場合には、満足できる最良の近似解ということになる。
人間の視覚系は時間を内在しないが、聴覚運動系は時間を内在する。そこで、両者の折り合いをつけるために、人間は時間の概念を意識するのだという。そうすると、プラトンのイデア論は、視覚系を対象とするものであり、時間の概念は内在しない。古代ギリシャの哲学の中で時間を内在する哲学として、ヘラクレイトス学派の「万物流転」説があるという。これは、日本で言う「諸行無常」に相当する。般若心経に出てくる「色即是空」は、プラトンのイデア論に相当するのだろうか。無関係とは考えないが、イデア論は哲学的議論を展開できるもの、色即是空は宗教的な悟りの境地に達すればよしとするものだろうか。
参考文献
養老孟司著「遺言。」(新潮新書)
森田邦久著「科学哲学講義」(ちくま新書)
森田新生著「計算する生命」(新潮社)