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物質が先か、精神が先か

2013-11-25 08:28:27 | ブログ

 I.ムラデノフ著「パースから読むメタファーと記憶」(勁草書房)を読む機会をもった。パースとは、哲学者のチャールズ.S.パース(1839~1914)のことである。哲学の作法も知らぬ私にとって、この本の哲学的内容を理解するのは難しいが、一つだけ注目したい点があった。それは、パースの哲学が、デカルト流の心身二元論を避け、一元論に徹しているという点である。

 I.ムラデノフが解釈するパースの一元論哲学を要約すると、次の通りである:全宇宙は、「退行した精神」から成っていて、物質と精神の間には何のギャップもなく、ただ成熟度が相違する精神があるだけである。換言すれば、すべての物質は、実在的には退行した精神であり、それは、根深い習慣が物理的法則になるということを意味する。

 パースがその哲学をつくったのは、今から100年以上も前のことであり、その当時、量子論も相対性理論も知らなかったとみてよいであろうし、もちろん、DNA上の遺伝情報など知る由もなかった。また、パースの言う「精神」や「退行した精神」が何を意味するのか、明確な定義があるわけでもないようだ。しかし、パースは、デカルトに代わって、現代のポーストモダンと呼ばれる思想の先駆けとなった一人ではないか、とさえ思える。

 デカルトの二元論哲学は、脳という物理的化学的に動作する物質とは別に、「私」、自己、心、魂というものが存在すると仮定する。しかし、脳の神経生理学や認知心理学が進歩するとともに、神経回路網の活動プロセスから「私」や心を連続的に説明することが益々困難になってきている。一方、脳との比較対象として考えるときのコンピュータは、ハードウェアの動作からソフトウェアの動作に至るまでのプロセスを連続的に説明できる。

 大脳は、多数の神経細胞から成り、活動する神経回路ネットワークであるという要素還元主義を超えて、連続的に精神の世界を説明しようとしても、自己組織化や複雑系など現在知られている知識を総動員してもこれを説明するのは困難である。そこで、物質主体と逆の発想で、パース流に、精神こそが宇宙を構成する主役であって、物質はただ精神に付随する脇役に過ぎない、と考えてみる。主役は変えられないが、脇役は代わりの人間でも可能とする。この考えは、考え得るかも知れないが、容易には納得できないように思える。しかし、「精神」を広く解釈し、「情報」を含むものとすれば、より納得できそうな気がしてくる。もし「精神」とは、「情報」しか含まないものであれば、脳はコンピュータと同等とみなしてよいから、物質主体の考えでも一元的に説明できるわけだ。

 ここで、以前ブログで紹介したRay Kurzweil著のHow to create a mind (Penguin Group)の心に関する章を読み直してみる。Kurzweilは、「この本のタイトルとして、brain()とせず、敢えてmind(心、精神)の方を選んだ」と言っているので、その説明に期待がかかる。Kurzweilは、心身二元論を否定はしないが、むしろ「意識あるいは精神とは、複雑な物理的システムから立ち現われてくるその属性である」と述べている。しかし、この説は、後にその理由を述べるが、かなり疑わしいと思う。また、「精神の問題は、哲学的なものであり、科学からは満足できるような解答を出せない」と述べている。そのためか、それまで詳細に説明されてきた大脳の新皮質を構成する多数のパターン認識モジュールが活動することによって、どのようにして精神が立ち現われてくるのかについて、何も言及していない。

 人は、古典的な絵画の名品を見ると、何か感動を覚える。そのような絵画は、何か人を感動させるオーラのようなものが出ているのではないかと思わせる。私も、米国ワシントンの美術館でラファエロの聖母子を描いた絵を見たとき、精神的に激しい衝撃を感じたのを覚えている。絵画は、物質的にはカンバス上に塗った絵具のパターンに過ぎないが、物質としての絵具が人を感動させ、絵画の価値を高めているのではなく、何かその絵画がもつ精神とでも言えるようなものが実体であることは明らかである。

 ここでちょっと寄り道をして、巡回セールスマン問題(TSP)を利用して描いた絵の話を持ち出そう。TSPとは、セールスマンが地図上のn個の都市を巡回するとき、最小のコストで巡回するようなn個の都市を結ぶ一筆書きのルートを見つける問題である。永田裕一氏は、TSPの作法に従って、平面上に打たれた10万個の点を線でつないで、一筆書きのルートで構成されたダ・ヴィンチのモナ・リザを完成させた。平面上の点は、ランダムに打たれているわけではなく、原画の濃淡密度と色調に合わせた配置となっている。モナ・リザの巡回路は、その最適解に非常に近いということである。でき上がったモナ・リザのTSP絵画は、白黒であるが、ある程度、本物のモナ・リザに似たものになっている。

 10万個の点を一筆書きで結んだルートは、最も単純なネットワークに属するが、それなら、人間の脳の神経回路ネットワークのように複雑なネットワークによってモナ・リザのイメージを再現するのは容易なことのようにみえる。実際のところ、本物のモナ・リザの絵を見た人の脳は、その神経回路ネットワーク中にモナ・リザのイメージを構成するわけであるが、このとき、ダ・ヴィンチがモナ・リザに込めた高貴な精神とでも言うべき実体が、その人の脳にも伝達され、脳の高次機能によって同じ精神を感じることができる。そうすると、ダ・ヴィンチの精神というものは、モナ・リザを構成する絵具のパターンの属性とは考えられないし、同様に、この絵を見た人の神経回路ネットワークの属性とも考えられない。何故なら、この精神は、活動する神経回路ネットワークから立ち現われてくるものではなく、モナ・リザのイメージと一緒に絵画から伝達されてきた何らかの実体としか考えられないからである。「クォリア」と言われるものが、「意識的な経験」と定義できるのであれば、絵画から伝わってくる精神もクォリアの一種とみてよいだろう。しかし、クォリアは、そもそも情報なのか、情報を超えてその枠には収まらない実体なのか、謎である。脳科学者たちは、脳と心についての問題を、脳内だけで閉じた問題とみなしているようにみえるが、それは疑問であり、そのような見通しに固執したくない。

 こうしてみると、本物の絵画と神経回路ネットワークに取り込まれた絵画のイメージなどの情報とだけで充分話の主旨が伝わり、TSP絵画の例は不要だったかも知れない。TSP絵画よりもバーチャル・リアリティの方が説得力あるのかも知れない。バーチャル・リアリティは、元となる物理的実体がなくても、その情報だけで、人の脳に、あたかも物理的実体があるかのような感覚を与えることができる。もちろん、物理的実体のイメージだけではなく、その精神というべきものも人の脳に伝えることができるに違いない。このことを一般的な科学の言葉で言えば、精神は不変量であり、ある物理的媒体上の精神を何らかの変換を行って別の物理的媒体に移しても、不変量は保存される、ということであろうか。

 音楽についても、絵画と同様のことが言える。しかし、ここまでくれば、もうくどくど説明する必要はないであろう。音楽とは、時系列的に流れる一連の音楽情報であるし、その中に作曲者の精神が込められていることは明らかである。しかも、ある楽曲を演奏する人や楽器、演奏される音楽を人の耳まで届ける空気という物理的媒体が変わっても、人の脳にはほぼ同じ音楽の実体を届けることができる。音楽が楽器や空気から立ち現れてくるその属性などと考える人はいないだろう。もっとも、人の耳にまで届く音楽情報には、作曲者の精神ばかりではなく、楽器がもつ音色の違いという個性、演奏者のもつ個性および会場の造形の違いからくる音響の変化が加わっている、という意見がある。もっともであるが、作曲者の精神が主役とすると、他は脇役ではなかろうか。絵画に込められた精神が静止情報であるとすると、時間とともに流れる音楽にその精神とともに込められた音楽情報との間に何か共通するものがあるのだろうか。

 Kurzweilも指摘しているが、人間の肉体を構成する細胞は常に入れ換わっているという事実を忘れてはならない。小腸や胃の内層を構成する細胞は1週間で入れ換わるし、白血球の寿命は数日から数カ月程度である。人の大脳も例外ではない。生き残っている神経細胞であっても、細胞内のオルガネラやタンパク質は40秒から1カ月程度の間に入れ換わるという。このように、神経細胞が常に作り換えられていても大脳に記憶されている情報は保存されるものと考えたくなる。しかし、人は長期記憶しない情報はすぐ忘れるし、長期記憶された情報でも再記憶しないと忘れることがあり、一度覚えただけで数十年に亘って記憶している情報もあって、情報の保存状態は定かではない。明言できることは、人の肉体がその脳を含めて死滅しても、DNA上に記憶された遺伝情報だけは、親から子、子からその子孫へと受け継がれていくということである。

 ついでにと言ってはなんだが、またも蛇足をつけ加えたくなった。現代のコンピュータにおいては、ソフトウェアが主役であり、特定のソフトウェアをサポートするプラットホームとして複数のハードウェア機器が市場に投入される。このソフトウェアを使用したいユーザは、これらハードウェア機器の中からいずれかを選択できる。また、スマートホンなど電子機器は、そのコンセプトあるいは設計思想が主役であり、電子機器のメーカーは、世界中の部品メーカーが提供する部品の中からそのコンセプトを実現するために必要な部品を集めてその電子機器を組み立てることができる。