今年の初めに、住んでいる地域の人々の間の交流を深めるという目的で「コミュニティふらっと」が開設された。人によって状況は異なるとは思うが、自分の住居の近くに住む人たちとも交流が少ない地域にあって、当初、話したことのない人たちと話をする機会があるのではないかと思って一度この出会いの場を訪ねてみたいと考えていた。
しかし、それから10ヶ月以上経つが、まだこの施設を訪ねたことはない。書道教室、折り紙教室、ダンスや体操の会など、次々とイベントが開催されるのだが、どのイベントにも参加したいという意欲はなく、せめてスタッフさんと話をしてみたいという意気も消沈するばかりである。これでは、人と数学や自然科学の話をするのは論外、政治や社会について議論するのも「およびでない」のであろう。どうも「意識高い系」が参入する場ではないようだ。
知識を求めるのが教養であるとすれば、生成AIによって強化されたネット情報で充分であり、コミュニティふらっとは教養を求める場ではないのであろう。単に見知らぬ人と交流する場ということであれば、SNSやネット上の出会い系サイトがその役割を果たしているが、顔見知りの人たちもいる同じ地域に住む人々との交流となると、地域コミュニティの場の存在価値が小さくないのであろう。そこはムラ社会であるから、対話や議論の場ではなく、同じ趣味をもつ人々が集まる同好会の場となるのであろう。
ネット情報だけでは満足できず、専門家の指導の下に対話的な教養を享受したい人には、放送大学やカルチャーセンターの場が用意されている。私は、自然科学の講演を聴講するためにカルチャーセンターを利用しているとき、聴講者からサイエンスカフェを紹介され、サイエンスカフェに移ることにした。その後、サイエンスカフェの幹事さんが亡くなるとともにカフェが閉設したので、次のカフェを求めているときに、友人の紹介により現在の自然科学カフェを知り、このカフェに移ることにした。自然科学カフェが掲げる理念に賛同するとともに、事務局が招聘する専門家の講演と主催するダイアログに満足している。私が初めてサイエンスカフェに参加してから今日まで10年以上経過している。自然科学カフェには約7年通っている。
自然科学に執着するのは、何らかの宗教に執着するのと似ているのかも知れない。住んでいる地域の近くには、大きな神社と大きな寺院のほかに宗教団体の大施設がある。また私の住み家の近くを散歩していると、住居から漏れてくる読経の声を聞くことがある。住んでいる地域が属している区域には、学問や芸術に執着する人と宗教に執着する人のほかに、特にこれらに執着するわけでもない普通の人々が住んでいるのであろう。コミュニティふらっとに集まる人々は、普通の人々かも知れない。また、地域には多くのマンションやアパートが存在する。マンションやアパートの住人には、他の区域に通勤・通学している人も少なくないとみるので、このコミュニティふらっとに関心がない人も多いと推測する。こうなると、地域や区域の郷土史よりも住んでいる地域・区域のリアリティを反映する社会学が面白いのかも知れない。
英語の「エンゲージメント」という単語には、「愛着」「思い入れ」「意欲」などの意味があることを知った。この単語には日本人の集団でよく使われる「頑張る」という意味はないし、独立した個人がやりたいことを尊重する気持を表現しているようで好ましいと思う。
コミュニティふらっとの表向きのイベントとは別に、奥座敷もあり、同好のメンバーがクラブをつくって何かやっているようだ。スタッフさんに、何をやっているのか尋ねたところ、囲碁クラブ、卓球、輪投げなどを挙げていたが、参加メンバーを登録しているが何をやっているのか分からないクラブもあるそうだ。数学や自然科学についてダイアログするクラブがあるか聞いてみたが分からないようで、他の同好会の様子からみてないと判断してよいようだ。自分から新しいクラブを立ち上げる元気はなくなった。
その後、ふらっとでもらってきたIMAGINUSという科学体験ラボのパンフレットを見ていて、科学ゲーム展のゲームコーナーで「スイングバイ チャレンジ」というゲームに目が止まった。一度このラボを訪ねて、このゲームを見学しながらラボのスタッフさんと科学について話してみるのが交流のよいアプローチらしいと気付いた。
しかし、それから10ヶ月以上経つが、まだこの施設を訪ねたことはない。書道教室、折り紙教室、ダンスや体操の会など、次々とイベントが開催されるのだが、どのイベントにも参加したいという意欲はなく、せめてスタッフさんと話をしてみたいという意気も消沈するばかりである。これでは、人と数学や自然科学の話をするのは論外、政治や社会について議論するのも「およびでない」のであろう。どうも「意識高い系」が参入する場ではないようだ。
知識を求めるのが教養であるとすれば、生成AIによって強化されたネット情報で充分であり、コミュニティふらっとは教養を求める場ではないのであろう。単に見知らぬ人と交流する場ということであれば、SNSやネット上の出会い系サイトがその役割を果たしているが、顔見知りの人たちもいる同じ地域に住む人々との交流となると、地域コミュニティの場の存在価値が小さくないのであろう。そこはムラ社会であるから、対話や議論の場ではなく、同じ趣味をもつ人々が集まる同好会の場となるのであろう。
ネット情報だけでは満足できず、専門家の指導の下に対話的な教養を享受したい人には、放送大学やカルチャーセンターの場が用意されている。私は、自然科学の講演を聴講するためにカルチャーセンターを利用しているとき、聴講者からサイエンスカフェを紹介され、サイエンスカフェに移ることにした。その後、サイエンスカフェの幹事さんが亡くなるとともにカフェが閉設したので、次のカフェを求めているときに、友人の紹介により現在の自然科学カフェを知り、このカフェに移ることにした。自然科学カフェが掲げる理念に賛同するとともに、事務局が招聘する専門家の講演と主催するダイアログに満足している。私が初めてサイエンスカフェに参加してから今日まで10年以上経過している。自然科学カフェには約7年通っている。
自然科学に執着するのは、何らかの宗教に執着するのと似ているのかも知れない。住んでいる地域の近くには、大きな神社と大きな寺院のほかに宗教団体の大施設がある。また私の住み家の近くを散歩していると、住居から漏れてくる読経の声を聞くことがある。住んでいる地域が属している区域には、学問や芸術に執着する人と宗教に執着する人のほかに、特にこれらに執着するわけでもない普通の人々が住んでいるのであろう。コミュニティふらっとに集まる人々は、普通の人々かも知れない。また、地域には多くのマンションやアパートが存在する。マンションやアパートの住人には、他の区域に通勤・通学している人も少なくないとみるので、このコミュニティふらっとに関心がない人も多いと推測する。こうなると、地域や区域の郷土史よりも住んでいる地域・区域のリアリティを反映する社会学が面白いのかも知れない。
英語の「エンゲージメント」という単語には、「愛着」「思い入れ」「意欲」などの意味があることを知った。この単語には日本人の集団でよく使われる「頑張る」という意味はないし、独立した個人がやりたいことを尊重する気持を表現しているようで好ましいと思う。
コミュニティふらっとの表向きのイベントとは別に、奥座敷もあり、同好のメンバーがクラブをつくって何かやっているようだ。スタッフさんに、何をやっているのか尋ねたところ、囲碁クラブ、卓球、輪投げなどを挙げていたが、参加メンバーを登録しているが何をやっているのか分からないクラブもあるそうだ。数学や自然科学についてダイアログするクラブがあるか聞いてみたが分からないようで、他の同好会の様子からみてないと判断してよいようだ。自分から新しいクラブを立ち上げる元気はなくなった。
その後、ふらっとでもらってきたIMAGINUSという科学体験ラボのパンフレットを見ていて、科学ゲーム展のゲームコーナーで「スイングバイ チャレンジ」というゲームに目が止まった。一度このラボを訪ねて、このゲームを見学しながらラボのスタッフさんと科学について話してみるのが交流のよいアプローチらしいと気付いた。