認知心理学が教えるところによれば、人間の知覚過程がいくつかの水準(レベル)からなっており、処理水準が深くなれば、それだけ強固な記憶痕跡が形成され、情報が忘却されにくくなるとする。そうすると、深い水準の記憶痕跡が形成されれば、認知症の発症を遅らせるか、認知症の進行を遅らせるのに有利に働くのだろうか。
参考文献によると、認知症研究では、一般的に言って、「それまでの人生における複雑な精神活動が認知症の発症を遅らせる」ということがわかっているそうだ。そうであれば、深い水準の記憶痕跡は、認知症の予防にとって有利に働くと言えそうだ。
バイリンガルには、認知的なメリットがあるという研究結果が報告されている。カナダ、ヨーク大学のエレン・ビアリストックらの研究では、184人の認知症の老人を対象に、認知症の症状がいつ現れたかを調べ、バイリンガルの老人の方が、モノリンガルの老人に比べて、認知症の発症が平均で4年遅れる、という発見をした。しかも発症後の進行も特に早くない、ということである。この研究でのバイリンガルの基準は、「少なくとも大人になってからはずっと2つの言語を日常的に使っていた人」というものである。
2つの言語をコントロールすることを身につける過程で認知的負荷がかかるため、情報処理能力が高まるのではないかと思われる。つまり、習得する言語間の距離が遠いほど、既知の言語知識を使うことが難しいために、処理負担が高くなり、それを続けていることにより、高い情報処理能力が身につくのであろう。
「複雑な精神活動」とは、バイリンガルな生活に限られるものではないから、バイリンガル以外の事例が欲しいところである。
一方、「高学歴の人の認知症の発症は遅いが、ひとたび発症したら進行が早く、高学歴でない人に5年後には追いついてしまう」という研究結果がある。いくら強固な記憶痕跡が形成されていたとしても、神経細胞が変性するか、神経細胞に酸素と栄養分を供給する血管に障害が生じれば、神経細胞が死滅していき、強固な記憶痕跡どころか日常的な記憶さえ想起できなくなることは、充分考えられるところである。
何故、「複雑な精神活動が認知症の発症を遅らせる」のだろうか。推測するに、複雑な精神活動が脳の血流を活発にし、数年程度の差とはいえ、それが血管の障害を軽減する方向に働くのではなかろうか。血管中を流れる血液の圧力が高まれば、血管が破れるリスクがいくらか高まるかも知れないが、動脈硬化の原因物質を排除するメリットもあるのではなかろうか。
加齢によって、大脳の前頭葉などの部位は委縮していく。しかし、活発な血流が、ある程度まで脳の委縮に対する抵抗力として働くように思えてならない。また、学習すればするほど、脳の神経細胞間の結合が強くなり、強固な神経ネットワークが形成されるという脳の自己組織化作用も忘れてはならないものである。
今後、認知症研究の成果を調べ、生活習慣と認知症との関係、精神活動と認知症との関係、脳の血流状態と脳機能低下との関係などについて注目していきたい。
参考文献:
白井恭弘著「外国語学習の科学」(岩波新書)
和田秀樹著「「思考の老化」をどう防ぐか」(PHP新書)