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趣味にみる「転写」と「創造」

2012-12-14 15:23:15 | ブログ

 世の中には生涯教育とか趣味の名で呼ばれていて、人を勧誘するようなものの種類が多い。しかし、定年になって仕事から解放されたので、急に何か趣味を始めようと思っても、そうそう趣味が身につくわけでもない。人が趣味を楽しむような境地に達するには、10年、20年の継続的に活動する習慣が必要のようである。

 世の中で趣味と称せられるものを大まかに分類すると、「転写」の性格の強いものと、「創造」につながる可能性のあるものとに区分できるのではなかろうか。「転写」とみられるものには、例えば、書道、写経、茶道、写真撮影、楽器演奏、コーラス、カラオケ、パソコン、読書、音楽鑑賞、絵画鑑賞、映画鑑賞、ゴルフ、登山、旅行、料理、手芸、園芸、模型づくり、陶芸、演劇、ダンス、絵のスケッチやデッサンなどがある。これらの趣味は、何かオリジナルなものがあって、これを手本として紙やメモリのような媒体に転写するか、オリジナルのイミテーションを製作したり身振りしたりするか、そのイメージを人間の脳の中に生成して認知する活動ということになる。また、「創造」の可能性があるものには、俳句や短歌の創作、小説やエッセーの創作、絵画の創作などがある。例えば絵画の創作のように、始めてから経験の浅いうちは「転写」、長い間の修練を経て「創造」の域に達し得るようなものもある。

 それでは、魚釣りのような趣味はどちらに入るのかと問う人がいるかも知れない。魚釣りや狩猟は、元々生活の手段であったものが趣味に転化しただけのものであり、ここで区分する趣味に入れなくてよいだろう。また、囲碁や将棋、パチンコ、その他のゲームはどうだろうか。これらのゲームは、人の頭脳を活性化するが、特に新しいものを生み出すわけではないので、少なくとも「創造」につながる活動をしているわけではないと言ったら、異論があるだろうか。あるいは、勝利という明りを求めて暗い森の中の道なき道をさまよっている彷徨者と言ったら、酷だろうか。

 ところで、生物が生命活動を行うに当たり、細胞は、まずDNAの遺伝情報をRNAによってコピーする。つまり、生物にとって「転写」というプロセスは不可欠なものである。次に、細胞は、写し取った遺伝情報に基づいて複数のアミノ酸を結合してタンパク質を合成する。合成されたタンパク質は、生命活動に必要な各種機能を発揮する。タンパク質の合成とその活躍は、単なる転写とは次元の違う高度のプロセスであり、生物が長い時間をかけて「創造」することによって獲得されたものである。タンパク質の合成とその活用を別にしても、生物が子孫を残すという目的のために、また受精卵が細胞分裂して多細胞生物の各種器官をつくっていくために、DNA全体の複製というプロセスは、不可欠なものである。バクテリアのように高度の生命活動をしているというよりも細胞分裂して子孫を残すことを最優先にしている生物が、生命誕生とほとんど同時期に誕生し、いまだに生存しているという事実は、「転写」というプロセスがいかに生命活動の基本であるかを改めて教えられる気がする。

 人間が行う趣味も、細胞が行う生命活動のプロセスとよく対応しているように思える。転写型の趣味がなくなることは、未来永劫考えられない。このような趣味を実行することは、単に機械的な「転写」を行っているわけではなく、そのときの人間の身体的、精神的な条件や自然環境と人間環境が結果に影響し、人が感じる満足感も状況に応じて違ったものになるのだろう。やはり、この種の趣味を行う人を尊重すべきであろう。それにしても、本当に自分のやりたい趣味を追求するというよりも、人とつながることを最優先とし、趣味の追求は二の次という人もいるに違いない。作家の水上龍氏が「無趣味のすすめ」というエッセーを書かれたように、この種の趣味に失望し、むしろ無趣味でいる方が煩わしい人間関係を回避できて、精神衛生上よいと考える人もいるかも知れない。あるいは、何らかの趣味を始めてみたが、身につかないので、結果として無趣味の身になりました、という人もいるかも知れない。

 ここで、私自身の趣味について触れてみたい。私は、上に挙げたような趣味のいずれにも興味がわかず、何か終生楽しめるような趣味を自分でつくっていくしかないと考えた。その結果が、今までブログで公表しているような類のエッセーである。この種のエッセーを人が書かないのなら、自分が書くしかないと思っている。ただし、私の書いているものは、既存の知識を寄せ集めたようなものであり、まだ「転写」の域を出ていないと感じている。これから独自の「創造」と言えるようなものを書くことに向けて挑戦することが最重要の課題であると考える。