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再び「シュレディンガーの猫」についてコメントする

2021-06-27 08:29:23 | ブログ
 2019年9月8日付のブログで「「シュレディンガーの猫」について考える」を書いた。2021年5月30日の朝日新聞朝刊の文化欄に「シュレーディンガーの猫 エンタメ彩る」と題する記事が掲載されたので読んだ。この話題は、物理学に関するエピソードのはずだが、どういうわけか、エンタメ作品あるいはSF作品の中で人気ある話のようであり、文化欄の記事として扱われている。

 新聞記事では、この話は、「いまなお科学者の頭を悩ますパラドックスだが、しばしばエンタメ作品に登場する。」と記している。

 私は、エンタメ作品には興味がないが、量子論のかいしゃくには興味があるので、再びこの話題についてコメントすることにした。

 まず、記事で言う「量子論のパラドックス」とは何かについて、シュレーディンガーの考えを引用しているので、この考えを説明する。シュレーディンガーは、量子論の世界ではミクロの現象と猫の生死は連動しているので、ミクロの世界が「重ね合わせ」の状態にあるのなら、猫の生死も「重ね合わせ」の状態にあるはずである。よって猫は、50%の確率をもつ生きた猫と、50%の確率をもつ死んだ猫との重ね合わせである。実際には、猫は「生きている」か「死んでいる」かのいずれかであるはずであるから、これはパラドックスであるというのである。

 議論は、猫の生死とは何かという問題から始まる。猫に限らず人間でも議論の対象となるのだが、生物の死とは、脳死状態を言うのか否か、いまだに明確ではない。もし脳死状態であるなら、それは生か死かを区分できる状態か否かさえ判然としない。もし生物が生きているとは意識がある状態、脳死とは意識がない状態を言うのであれば、それは言葉を換えただけである。そうすると、猫の生死とは、頭で状態を区分しただけの二元論であり、実際の猫の状態は不明であるということになる。状態不明の猫は、半分生きて半分死んだ状態の猫と言ってもよいだろう。

 こうしてみると、猫の生死の「重ね合わせ」状態とは、猫が生きている状態、死んでいる状態、生死が不明の状態の3区分になるはずである。ここでは生死不明の猫が存在し得るのだから、生死いずれかしかないとする前提が崩れ、「パラドックス」はないことになる。

 だが、もし猫に毒ガスを当てたときほぼ100%の確率で猫が死ぬことが実証されているとしたらどうなるのか。この場合には、猫が「生きている」状態と「死んでいる」状態のいずれかしかあり得ないので、いずれか判定できないことを「重ね合わせ」状態というのである。ここでは、半分生きて半分死んだ猫は存在しないので、生死いずれかしかないとする前提通りであり、「パラドックス」はない。

 以上の議論を整理すると、猫の状態は、観測によって生きていることが確定したもの、死んだことが確定したもの、生死不明のものの3区分あることが分かる。現行のデジタル技術では生死が確定した状態は1か0の情報として表現できるが、生死不明状態は表現できない。言い換えれば、今のデジタル技術は、自然現象の近似解を表現できるが、表現できない状態が存在し得るので、真の解答でないことが分かる。

 いま世界中で動作しているコンピュータのほとんど全ては、1と0の並びからなる2進数によって表現されるデジタル情報を処理している。すなわち、情報を構成する各ビットは1か0かどちらかの状態しか取ることができない。それは、単に経済的な電子回路をもつコンピュータを実現するためには、情報は2進数形式でなければならないという制約に従っているだけである。

 例えば、アナログ音源からCDのようなデジタルの音楽データを作成する場合には、アナログの音楽データをサンプリングし、ヒトが聞き取れないような高い周波数成分をカットしている。このため、CD上の音楽データは、演奏会場の臨場感に近い高音質に欠けるという問題がある。

 こうしてみると、我々が日常的に接するマクロの世界は、歪曲された世界というか、制約された世界である。量子論こそ自然の素顔であることが分かったので、将来性のある自然観をもつには、量子論を学べ、ということになる。

世界の人種差別事情について思うこと

2021-06-13 08:38:26 | ブログ
 2020年7月5日付のブログ「歴史的必然を意識するこのごろ」で、米国の制度的な人種差別について書いた。最近のタイム誌で、世界の人種差別に対する抗議運動に関する記事を読んだので、この際、世界の人種差別事情についてブログを書くことにした。

 よく知られているように、米国の警官がジョージ・フロイドの首を絞めて殺害するシーンの動画が世界中に流れ、これを発端として、米国内ばかりではなく世界中で人種差別に対する抗議運動がおこることになった。その代表的な運動が、Black Lives Matter(BLM)運動である。

 2020年から2021年に亘って、各国の新型コロナウイルスの感染者数と死者数が増大し、特に黒人など有色人種の人々の死者数がその人口に対して不釣り合いなほど多いことが報告されている。これらの人々は、ウイルス感染のリスクが高い職場に勤務し、また、コロナウイルスによる職場の休業に伴って職を失うケースも多い。コロナウイルスの蔓延とともに、彼らに対する根深い人種差別の実態が露になったのである。

 差別される人間が警官による拘束中に殺害される事件は、米国内のいくつかのケースのほかに、フランス、オーストラリア、ナイジェリアなどでも起こっている。オーストラリアでは、少なくとも7人のアボリジニが拘束中に死亡したという。

 タイムの記事では、2020年6月に日本でもBLMを主張するデモが行われたことを報じている。ただ、日本ではジョージ・フロイド事件に相当するような事件は起きていないので、米国のデモを支持するという協賛のデモか。日本における人種差別の例として、お笑い芸人がテニス・プレイヤーの大坂なおみさんをからかったことなど2例が紹介されている。

 人種差別と言うと、BLMが意味するように、外国では差別される側の人間にとっては生きるか死ぬかの問題である。そしてその根底には、制度的な人種差別と社会の分断がある。これに対して、日本では、お笑いのネタか批判の対象になる程度の問題なのだろうか。タイム誌によれば、日本で多く議論が集中するのは、人種間混血によって生まれる個人を差別する問題であると報じている。外国では、制度的な社会問題とみなされているのに対して、日本では個人的な問題というわけか。それが本当であるとすれば、あまりにも大きな違いである。

 タイム誌が世界の人種差別事情として取り上げている国は、日本をトップとして、インド、ナイジェリア、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、英国の8ヶ国である。そうなると、中国、韓国、インドネシア、マレーシア、タイなど他の東アジアおよび東南アジアの国々の事情はどうなのかという興味がわく。各国固有の人種差別はあるのだが、日本を除いて抗議デモで目立つことはなかったということだろうか。

 日本の歴史をかえりみると、少なくとも日本人に関する限り奴隷制度というものがなかったし、また黒人は珍しい人間として好奇の目で見られることはあっても、差別の対象とはならなかったようだ。例えば、体力、知力ともに勝れていたYasukeとか呼ばれた黒人は、織田信長に仕え、重用されたようである。

 信長の家臣の一人として黒人がいたことは聞き及んでいたが、Yasukeの出身から信長に仕えるに至るまでの経歴や彼の勝れた能力については知らなかった。Yasukeの研究者によって、彼についての断片的な情報がつなぎ合わされ、彼の経歴が一冊の本にまとめられて注目を集めている。

 アフリカ出身の黒人が他国に連行され、多くは非人道的な扱いを受けて過酷な生涯を送ったことは歴史的事実である。出身地のアフリカから連行され、インドでの滞在期間を経て日本に渡ったYasukeにも苦難の時期があったかも知れないが、信長に仕えることになった彼の後半生には、殺伐とした人種差別の影が見られないことが何か新鮮に感じられ、興味深いものがある(並外れた能力をもつ人間を好んだ信長の性格を考慮に入れるとしても)。