2019年9月8日付のブログで「「シュレディンガーの猫」について考える」を書いた。2021年5月30日の朝日新聞朝刊の文化欄に「シュレーディンガーの猫 エンタメ彩る」と題する記事が掲載されたので読んだ。この話題は、物理学に関するエピソードのはずだが、どういうわけか、エンタメ作品あるいはSF作品の中で人気ある話のようであり、文化欄の記事として扱われている。
新聞記事では、この話は、「いまなお科学者の頭を悩ますパラドックスだが、しばしばエンタメ作品に登場する。」と記している。
私は、エンタメ作品には興味がないが、量子論のかいしゃくには興味があるので、再びこの話題についてコメントすることにした。
まず、記事で言う「量子論のパラドックス」とは何かについて、シュレーディンガーの考えを引用しているので、この考えを説明する。シュレーディンガーは、量子論の世界ではミクロの現象と猫の生死は連動しているので、ミクロの世界が「重ね合わせ」の状態にあるのなら、猫の生死も「重ね合わせ」の状態にあるはずである。よって猫は、50%の確率をもつ生きた猫と、50%の確率をもつ死んだ猫との重ね合わせである。実際には、猫は「生きている」か「死んでいる」かのいずれかであるはずであるから、これはパラドックスであるというのである。
議論は、猫の生死とは何かという問題から始まる。猫に限らず人間でも議論の対象となるのだが、生物の死とは、脳死状態を言うのか否か、いまだに明確ではない。もし脳死状態であるなら、それは生か死かを区分できる状態か否かさえ判然としない。もし生物が生きているとは意識がある状態、脳死とは意識がない状態を言うのであれば、それは言葉を換えただけである。そうすると、猫の生死とは、頭で状態を区分しただけの二元論であり、実際の猫の状態は不明であるということになる。状態不明の猫は、半分生きて半分死んだ状態の猫と言ってもよいだろう。
こうしてみると、猫の生死の「重ね合わせ」状態とは、猫が生きている状態、死んでいる状態、生死が不明の状態の3区分になるはずである。ここでは生死不明の猫が存在し得るのだから、生死いずれかしかないとする前提が崩れ、「パラドックス」はないことになる。
だが、もし猫に毒ガスを当てたときほぼ100%の確率で猫が死ぬことが実証されているとしたらどうなるのか。この場合には、猫が「生きている」状態と「死んでいる」状態のいずれかしかあり得ないので、いずれか判定できないことを「重ね合わせ」状態というのである。ここでは、半分生きて半分死んだ猫は存在しないので、生死いずれかしかないとする前提通りであり、「パラドックス」はない。
以上の議論を整理すると、猫の状態は、観測によって生きていることが確定したもの、死んだことが確定したもの、生死不明のものの3区分あることが分かる。現行のデジタル技術では生死が確定した状態は1か0の情報として表現できるが、生死不明状態は表現できない。言い換えれば、今のデジタル技術は、自然現象の近似解を表現できるが、表現できない状態が存在し得るので、真の解答でないことが分かる。
いま世界中で動作しているコンピュータのほとんど全ては、1と0の並びからなる2進数によって表現されるデジタル情報を処理している。すなわち、情報を構成する各ビットは1か0かどちらかの状態しか取ることができない。それは、単に経済的な電子回路をもつコンピュータを実現するためには、情報は2進数形式でなければならないという制約に従っているだけである。
例えば、アナログ音源からCDのようなデジタルの音楽データを作成する場合には、アナログの音楽データをサンプリングし、ヒトが聞き取れないような高い周波数成分をカットしている。このため、CD上の音楽データは、演奏会場の臨場感に近い高音質に欠けるという問題がある。
こうしてみると、我々が日常的に接するマクロの世界は、歪曲された世界というか、制約された世界である。量子論こそ自然の素顔であることが分かったので、将来性のある自然観をもつには、量子論を学べ、ということになる。
新聞記事では、この話は、「いまなお科学者の頭を悩ますパラドックスだが、しばしばエンタメ作品に登場する。」と記している。
私は、エンタメ作品には興味がないが、量子論のかいしゃくには興味があるので、再びこの話題についてコメントすることにした。
まず、記事で言う「量子論のパラドックス」とは何かについて、シュレーディンガーの考えを引用しているので、この考えを説明する。シュレーディンガーは、量子論の世界ではミクロの現象と猫の生死は連動しているので、ミクロの世界が「重ね合わせ」の状態にあるのなら、猫の生死も「重ね合わせ」の状態にあるはずである。よって猫は、50%の確率をもつ生きた猫と、50%の確率をもつ死んだ猫との重ね合わせである。実際には、猫は「生きている」か「死んでいる」かのいずれかであるはずであるから、これはパラドックスであるというのである。
議論は、猫の生死とは何かという問題から始まる。猫に限らず人間でも議論の対象となるのだが、生物の死とは、脳死状態を言うのか否か、いまだに明確ではない。もし脳死状態であるなら、それは生か死かを区分できる状態か否かさえ判然としない。もし生物が生きているとは意識がある状態、脳死とは意識がない状態を言うのであれば、それは言葉を換えただけである。そうすると、猫の生死とは、頭で状態を区分しただけの二元論であり、実際の猫の状態は不明であるということになる。状態不明の猫は、半分生きて半分死んだ状態の猫と言ってもよいだろう。
こうしてみると、猫の生死の「重ね合わせ」状態とは、猫が生きている状態、死んでいる状態、生死が不明の状態の3区分になるはずである。ここでは生死不明の猫が存在し得るのだから、生死いずれかしかないとする前提が崩れ、「パラドックス」はないことになる。
だが、もし猫に毒ガスを当てたときほぼ100%の確率で猫が死ぬことが実証されているとしたらどうなるのか。この場合には、猫が「生きている」状態と「死んでいる」状態のいずれかしかあり得ないので、いずれか判定できないことを「重ね合わせ」状態というのである。ここでは、半分生きて半分死んだ猫は存在しないので、生死いずれかしかないとする前提通りであり、「パラドックス」はない。
以上の議論を整理すると、猫の状態は、観測によって生きていることが確定したもの、死んだことが確定したもの、生死不明のものの3区分あることが分かる。現行のデジタル技術では生死が確定した状態は1か0の情報として表現できるが、生死不明状態は表現できない。言い換えれば、今のデジタル技術は、自然現象の近似解を表現できるが、表現できない状態が存在し得るので、真の解答でないことが分かる。
いま世界中で動作しているコンピュータのほとんど全ては、1と0の並びからなる2進数によって表現されるデジタル情報を処理している。すなわち、情報を構成する各ビットは1か0かどちらかの状態しか取ることができない。それは、単に経済的な電子回路をもつコンピュータを実現するためには、情報は2進数形式でなければならないという制約に従っているだけである。
例えば、アナログ音源からCDのようなデジタルの音楽データを作成する場合には、アナログの音楽データをサンプリングし、ヒトが聞き取れないような高い周波数成分をカットしている。このため、CD上の音楽データは、演奏会場の臨場感に近い高音質に欠けるという問題がある。
こうしてみると、我々が日常的に接するマクロの世界は、歪曲された世界というか、制約された世界である。量子論こそ自然の素顔であることが分かったので、将来性のある自然観をもつには、量子論を学べ、ということになる。