進化生物学者の長谷川英祐さんは、「働きアリの中に働かないアリがおり、そのような働かないアリの存在に意義がある」などの研究で知られている。
NHKの科学番組で、長谷川さんは、働かないアリやカッコウの托卵の例を挙げ、「ダーウィンの進化論に異議あり」を表明していた。
ダーウィン説に異議を唱えるのは聞き捨てならないと思い、長谷川さんの「働かないアリに意義がある」(メディアファクトリー新書)を読んでみた。
長谷川さんたちが1ヵ月以上ある種の働きアリの観察を続けたところ、だいたい2割くらいは「働いている」と見なせる行動をほとんどしていないことが分かった。
このような働かないアリがいるということは、働きアリの仕事であるエサ集め、卵・幼虫や女王の世話、巣の修理などの作業の生産性が下がったり、卵が死滅するなど、コロニーが壊滅するリスクが増大するであろう。これは、ダーウィンの自然選択説である「生物は多くの子どもを残そうとする」という原則に反するのではないか、というわけである。
そこで、なぜ働かないアリが存在するのかを探求したところ、「働かないアリに意義がある」という結論に達したという。そのポイントをまとめると、次の通りである。
(1)ハチやアリには、必要とする労働に対する反応の違い(反応閾値)という「個性」がある。
(2)コロニーが必要とする労働の質と量は時間とともに変動する。それに効率よく対処するには、ハチやアリには反応閾値の違いという個体差が必要である。反応閾値に個体差があると、必要な仕事に必要な数のワーカーを臨機応変に動員することができる。
(3)従って、仕事が増えると、働かないアリも働くようになる。
(4)働かないアリは、反応の鈍い「働けないアリ」である。
(5)疲労という宿命があると、働かないアリのいる非効率的なシステムのほうが長期間存続できる。
そうすると、働かないアリに意義があるのであり、コロニーを一つの生物とみたとき、ダーウィンの自然選択説と矛盾しないことになる。
ドーキンスは、「自らのコピーを増やそうとする遺伝子の利己性」を主張する。これは、ダーウィンの自然選択説を現代生物学にふさわしい言葉で表現し直しているもののように受け取れる。また、ドーキンスが注目している利己性をもつ主体は、生物の個体や集団(群)ではなく、遺伝子そのものである。このため、多くの利他行動の事例がその主張の根拠となっている。
ドーキンスの挙げる事例の中に「働かないアリ」の説明はないが、例えばカッコウの托卵の例が挙げられている。カッコウに托卵される小鳥は、自分の種に特有な模様のある卵を識別する能力を身につけ、カッコウの卵を排除する。一方、カッコウの方は、自分の卵の色、大きさ、模様を里親の卵に類似させるように進化し、これに対抗する。このようにして、よりだませる形質をもつカッコウの遺伝子と、カッコウの卵の擬態にわずかな不完全さがあっても見逃さない鑑識眼をもつ托卵される小鳥の遺伝子とが拮抗し、最終的には両者が共生するような状態となる。
こうなると、長谷川さんの主張は、ドーキンスの主張に包含されることになり、特にダーウィンの自然選択説に異議を唱える必要はないのではないか、と思われる(異議は唱えても、自然選択説に代わる代案を提案できない)。
それにしても、ドーキンスの言う「自らのコピーを増やそうとする遺伝子の利己性」が自然選択という進化の過程を説明しているのだろうか、という疑問が残る。そのような利己性がなければ自然選択という土俵に上がれないことはわかる。しかし、理論的には両者は別物であって、イコールで結べないということである。
自らのコピーを増やそうとしても、突然変異が入ってきて種の遺伝子が変わっていくし、環境の変化によってその種が自然選択されるとは限らない。今までに存在していた種の99.9%は絶滅し、0.1%だけが生き残ったという説が本当であるとすれば、実際のところ、遺伝子の利己性などとるに足りない進化の要因であるようにみえる。長谷川さんが指摘しているように、自然選択説は理想的な状態でしか成り立たない仮説であり、これによって地球という環境で長期間に亘って行われる生物進化の過程を実証することは困難であるということになる。
長谷川さんが本当に主張したかったことは、働かないアリをもってダーウィン説に異議を唱えることではなく、この真社会性昆虫の行動を通じて、人間社会の組織のあり方、ひいては人間社会の在り方を強調したかったのではないか、と思われる。
長谷川さんは、人間の組織にはメンバーの間に個性が必要であり、規格品ばかりの組織はダメと述べている。性能のいい、仕事をよくやる規格品の個体だけで成り立つコロニーは、決まり切った仕事だけをこなしていくときには高い効率を示すが、刻々と変わる状況に対応して組織を動かすためには、様々な状況に対応可能な一種の「余力」が必要になる。
こうなると、長谷川さんの意見に乗じて、人間社会のあり方について一言も二言も言いたくなってくる。
この複雑化の一途をたどる社会にあっては、様々なタイプの能力が必要であることは明らかである。AI(人工知能)やロボットの発達によって、人間がやる必要のない仕事が出てくるが、人間でなければできない仕事も増えるこそすれ減ることはないように思われる。その種の仕事として、高い学歴を必要とする仕事ばかりでなく、ほとんど学歴を必要としない仕事も残るだろう。そのような状況のとき、高学歴や有名大学卒のエリートが優遇されるような社会では、社会の衰退を招くだけである。今、世界的にこの傾向が顕著になっている。いわゆる3K職場や介護職場の人手不足、外国人労働者を導入しなければ会社組織が運用できなくなる例など人の知るところである。その結果として、反エリート主義、反既得権益が台頭し、エリート層も安閑としてはいられない。
人間社会の中で、自然選択説に反すると思われる例として、生涯独身の人、妊娠中絶、育児放棄、子ども虐待などがある。独身者には人生の墓場を避けて自由謳歌の向きもあるが、望ましい配偶者を得られずに終わるケースもあるので、一概には言えない。妊娠中絶は、個人の利益に社会の必要性がからみ、時代や地域によって変わってくるので微妙である。育児放棄や子ども虐待は、脱税や公金横領などと同様に、社会にとっての裏切り行為である。
ヒトの社会学では、社会的コスト(義務)を応分に負担せずに社会システムがもたらす利益だけを享受する者が生じてくる。アリの世界にも本当に働かない裏切りアリが存在するが、裏切り者がはびこると、社会が回らなくなり、全員が滅びることになるので、そのような裏切り行為に抑制がかかるのだという。
参考文献
長谷川英祐著「働かないアリに意義がある」(メディアファクトリー新書)
リチャード・ドーキンス著「利己的な遺伝子」(紀伊国屋書店)
池田清彦著「進化論の最前線」(インターナショナル新書)
NHKの科学番組で、長谷川さんは、働かないアリやカッコウの托卵の例を挙げ、「ダーウィンの進化論に異議あり」を表明していた。
ダーウィン説に異議を唱えるのは聞き捨てならないと思い、長谷川さんの「働かないアリに意義がある」(メディアファクトリー新書)を読んでみた。
長谷川さんたちが1ヵ月以上ある種の働きアリの観察を続けたところ、だいたい2割くらいは「働いている」と見なせる行動をほとんどしていないことが分かった。
このような働かないアリがいるということは、働きアリの仕事であるエサ集め、卵・幼虫や女王の世話、巣の修理などの作業の生産性が下がったり、卵が死滅するなど、コロニーが壊滅するリスクが増大するであろう。これは、ダーウィンの自然選択説である「生物は多くの子どもを残そうとする」という原則に反するのではないか、というわけである。
そこで、なぜ働かないアリが存在するのかを探求したところ、「働かないアリに意義がある」という結論に達したという。そのポイントをまとめると、次の通りである。
(1)ハチやアリには、必要とする労働に対する反応の違い(反応閾値)という「個性」がある。
(2)コロニーが必要とする労働の質と量は時間とともに変動する。それに効率よく対処するには、ハチやアリには反応閾値の違いという個体差が必要である。反応閾値に個体差があると、必要な仕事に必要な数のワーカーを臨機応変に動員することができる。
(3)従って、仕事が増えると、働かないアリも働くようになる。
(4)働かないアリは、反応の鈍い「働けないアリ」である。
(5)疲労という宿命があると、働かないアリのいる非効率的なシステムのほうが長期間存続できる。
そうすると、働かないアリに意義があるのであり、コロニーを一つの生物とみたとき、ダーウィンの自然選択説と矛盾しないことになる。
ドーキンスは、「自らのコピーを増やそうとする遺伝子の利己性」を主張する。これは、ダーウィンの自然選択説を現代生物学にふさわしい言葉で表現し直しているもののように受け取れる。また、ドーキンスが注目している利己性をもつ主体は、生物の個体や集団(群)ではなく、遺伝子そのものである。このため、多くの利他行動の事例がその主張の根拠となっている。
ドーキンスの挙げる事例の中に「働かないアリ」の説明はないが、例えばカッコウの托卵の例が挙げられている。カッコウに托卵される小鳥は、自分の種に特有な模様のある卵を識別する能力を身につけ、カッコウの卵を排除する。一方、カッコウの方は、自分の卵の色、大きさ、模様を里親の卵に類似させるように進化し、これに対抗する。このようにして、よりだませる形質をもつカッコウの遺伝子と、カッコウの卵の擬態にわずかな不完全さがあっても見逃さない鑑識眼をもつ托卵される小鳥の遺伝子とが拮抗し、最終的には両者が共生するような状態となる。
こうなると、長谷川さんの主張は、ドーキンスの主張に包含されることになり、特にダーウィンの自然選択説に異議を唱える必要はないのではないか、と思われる(異議は唱えても、自然選択説に代わる代案を提案できない)。
それにしても、ドーキンスの言う「自らのコピーを増やそうとする遺伝子の利己性」が自然選択という進化の過程を説明しているのだろうか、という疑問が残る。そのような利己性がなければ自然選択という土俵に上がれないことはわかる。しかし、理論的には両者は別物であって、イコールで結べないということである。
自らのコピーを増やそうとしても、突然変異が入ってきて種の遺伝子が変わっていくし、環境の変化によってその種が自然選択されるとは限らない。今までに存在していた種の99.9%は絶滅し、0.1%だけが生き残ったという説が本当であるとすれば、実際のところ、遺伝子の利己性などとるに足りない進化の要因であるようにみえる。長谷川さんが指摘しているように、自然選択説は理想的な状態でしか成り立たない仮説であり、これによって地球という環境で長期間に亘って行われる生物進化の過程を実証することは困難であるということになる。
長谷川さんが本当に主張したかったことは、働かないアリをもってダーウィン説に異議を唱えることではなく、この真社会性昆虫の行動を通じて、人間社会の組織のあり方、ひいては人間社会の在り方を強調したかったのではないか、と思われる。
長谷川さんは、人間の組織にはメンバーの間に個性が必要であり、規格品ばかりの組織はダメと述べている。性能のいい、仕事をよくやる規格品の個体だけで成り立つコロニーは、決まり切った仕事だけをこなしていくときには高い効率を示すが、刻々と変わる状況に対応して組織を動かすためには、様々な状況に対応可能な一種の「余力」が必要になる。
こうなると、長谷川さんの意見に乗じて、人間社会のあり方について一言も二言も言いたくなってくる。
この複雑化の一途をたどる社会にあっては、様々なタイプの能力が必要であることは明らかである。AI(人工知能)やロボットの発達によって、人間がやる必要のない仕事が出てくるが、人間でなければできない仕事も増えるこそすれ減ることはないように思われる。その種の仕事として、高い学歴を必要とする仕事ばかりでなく、ほとんど学歴を必要としない仕事も残るだろう。そのような状況のとき、高学歴や有名大学卒のエリートが優遇されるような社会では、社会の衰退を招くだけである。今、世界的にこの傾向が顕著になっている。いわゆる3K職場や介護職場の人手不足、外国人労働者を導入しなければ会社組織が運用できなくなる例など人の知るところである。その結果として、反エリート主義、反既得権益が台頭し、エリート層も安閑としてはいられない。
人間社会の中で、自然選択説に反すると思われる例として、生涯独身の人、妊娠中絶、育児放棄、子ども虐待などがある。独身者には人生の墓場を避けて自由謳歌の向きもあるが、望ましい配偶者を得られずに終わるケースもあるので、一概には言えない。妊娠中絶は、個人の利益に社会の必要性がからみ、時代や地域によって変わってくるので微妙である。育児放棄や子ども虐待は、脱税や公金横領などと同様に、社会にとっての裏切り行為である。
ヒトの社会学では、社会的コスト(義務)を応分に負担せずに社会システムがもたらす利益だけを享受する者が生じてくる。アリの世界にも本当に働かない裏切りアリが存在するが、裏切り者がはびこると、社会が回らなくなり、全員が滅びることになるので、そのような裏切り行為に抑制がかかるのだという。
参考文献
長谷川英祐著「働かないアリに意義がある」(メディアファクトリー新書)
リチャード・ドーキンス著「利己的な遺伝子」(紀伊国屋書店)
池田清彦著「進化論の最前線」(インターナショナル新書)