■季節のない街/山本周五郎 2017.9.18
最近、不倫報道が囂しい。
たんば老は云った。
「金持でも貧乏人でも、学問があってもなくても人間にはみんな、そのような間違いをおこす時期があるんだな、男にも女にもさ、なま身の体というやつは、ときどき、自分でもどうにもならなくなることがある」
山本周五郎の 『季節のない街』 を読むと男も女も暇をみつけては既婚者、独身者お構いなく盛んに夜這い、逢い引きに励んでいる様が見て取れる。そりゃあ、当然、駆け落ちもよく起こる。
井戸端に集うおばさんたちの一番楽しみな噂話のひとつ。くっついたり、離れたり。あっけらかんでからっとしている。
苦しい日常生活のなかのちょっとした息抜き、楽しみ、アバンチュール、そして、楽天的で原始的だ。
昨今の不倫 「年増の女が、若い男の肉体に溺れた」 あるいは、その逆とは訳が違うようだ。
ちょっと面白い話が書かれている。
この作品のユーモアの質が分かる。人間に対する優しさも話の面白さも分かって欲しい。長いが引用してみる。
箱入り女房
「その、あれなんだがよ、ちょっと云いにくいことなんだがよ」彼はしきりにうしろ頸を掻いたり撫でたりした、「こいつはたんばさんだから云えるんだが、くに子のやつはまあ箱入り女房さね、世間ずれのしていねえ、うぶなこたあ、これまでなんども話したとおりなんだが、それにしてもげせねえことがあるんだ」
老人は黙って、膝の前にある詰め将棋の盤を見まもりながら、徳さんのあとの言葉を待った。
「それってえのがおめえ、なんだあ、つまりあのときのことよ」と徳さんは口ごもりながら云った、「あのときってえばわかるだろうが、あっしがよ、その、なんだあ、つまり汗だくんなってつとめてるさいちゅうによ---くに子のやつはいきなりへんなことを云いだすんだ、ねえあんた、秋になると木の葉はどうして枝から落ちるんでしょうって、---あっしゃあびっくりしちゃったよ、ほんとにさ、おめえそんなことを考えてたのかってきくと、いま急に気になりだしたんだって、こんなときにまたどうして気になりだしたんだってきいたら、どうしてだかは知らないがとにかく気になってしょうがないって、---よせやい、いまそれどころじゃねえじゃねえかって云って、あっしゃあまた馬力をかけたが、いけねえんだたんばさん、秋になると枝から木の葉が落ちらあな、なるほど、どうして秋になると落ちるのかって、こっちも気になりだしちまったら、馬力がまるっきり抜けちまったってわけよ」
「けれどもよ、どんなにいい考えにしろ、なにも選りに選ってそんなときに云いだすこたあねえやね、そうでしょう、たんばさん、あっしゃあだから云ってやったよ、おめえ時と場合を考えて云えって、にんげん誰だってこういうときには身を入れてやるもんだ、こっちは気が散って続かねえじゃねえかってよ」
たんば老人は詰め将棋の駒の一つを、慎重に動かしてから、なんということもなく呻った。
「くに子のやつあ温和しい性分だから、あっしに口返答はしねえ、はい、といってこっくりをするんだが、---忘れるのか生れつきの癖かどうか、あっしが汗だくんなって馬力をかけだすと、ねえあんたをまた始めるんだ、ねえあんた、七福神は誰と誰だっけとくる、また始めるのか、そんなこたああとの話だってえと、だって気になってしょうがないから教えてよとくる」
「ところがいけねえ、ホームストレッチにかかろうとするとたん、またくに子のやつがねえあんたときた、それがまたとんでもねえ、首をくくるのと身投げをするのと、鉄道自殺をするのとどれがいちばん苦しむだろうときた、えっ、そのときあっしがどんな気がしたと思う、たんばさん」
「あっしゃあねえ、胃袋がここんとこまで」彼は自分の喉を指さした、「---このへんまでとびだしてきたように思ったよほんとに、ほんとだよたんばさん」
「どうしてこういうときに限ってよけいなことを考えだすんだ、こっちだって感情害しちゃうじゃねえか、どういうわけだって云ってやった、そうでしょう、たんばさん」
「あっしがそう云うと、くに子のやつあ首をかしげて考えたっけ、やがてまた首をこっちへかしげて、自分でもわからないが、お店にいたじぶんマダムに云われたことがある、そういうときには気をそらして、なにかほかのことを考えるんだって、さもなければ躯が続かないよってさ、念を押して云われたのが癖になったのかもしれないってんだ、そんなことがあるのかな、え、たんばさん」
「世間ずれがしなさすぎるよ、ほんとうに、十八のとしから七年の余もバー勤めをしていてそれなんだから、まったくうぶってったって限界があろうじゃねえか、そうでしょうたんばさん」
「大事にしてやるんだな」と老人は云った、「いまにいいかみさんになるよ、きっと」
”箱入り女房” なんです。
とっても切なくて悲しい話がありました。
「半助と猫」と「ぷーるのある家」です。
どちらの話にも、面白い個性的な猫と犬が出てきます。
半助は独身で、 「とら」 という名の猫といっしょに住んでいる。
「プールのある家」のほうは犬、子供の敵で、名を 「まる」 という。
半助と猫
半助は人に連れ去られたのである。連れ去ったのは刑事だともいうし、半助がいかさま賽を作っていたため、プロの賭博者たちが掠っていったのだともいわれた。
プールのある家
子供は決して反抗しなかった。力の差を比較したからではなく、反抗するのがまったく無意味なことだと、よく理解しているかのように。また、それが避けられない災厄であって、この世に生きている以上、すべての者が堪え忍ばなければならないことだと承認しているように。
ギャングどもがその遊戯に飽きて、彼を最後に突きのめすか、もう一つ殴りつけるかして去ると、初めて、子供は涙をこぼすのであった。
次のふたつの話も切なかった。
枯れた木
「あの顔つきを見な、あの体つきを見な」とあるかみさんは云った、「あたしの昔よく知ってた人にああいうふうな人がいたけれどもさ、あれは人並はずれていろぶかい性分だよきっと、五十になっても六十になっても、からだはいろざかりでちっとも衰えないっていうくちさ、よく見てみればわかるよ」
がんもどき
これらのことは、この「街」の他の住人たちと同様、すべてがあいまいでつかみどころがない。ここでは常に現在があるだけで、過去のことは関知されないのが通例であり、たまたま語られる過去の話は、九割まで粉飾され、誇大に歪められるのが常識のようになっていた。
興味ふかいのは、こういう誇張された話になると、語り手は自分で嘘と知りながら昂奮し、それがもし哀話であれば、その哀れさに自分で涙をこぼした。聞いているほうも、ああこれは作り話だなと思いながら、それでもなお身につまされて、もらい泣きをするというのが珍しくないことだ。但し、これが虚栄心に関連した問題になるとまったく事情が変る。明らかに嘘とわかっていても、必ず反感をかい、こっぴどい悪口を云われるし、実際にむかし金持であったり、現にそれをみせつけたりすれば、それこそ仇がたきのようにそしられるのであった。
夫婦の間には、外からは窺い知れないことがある。
そのことがよく分かる話だった。 「僕のワイフ」
僕のワイフ
この住人たちのつきあいは、物の貸し借りと、ぐち話の交換が中心になっている。他人は泣き寄り、という言葉がかれらの唯一の頼りであり、信仰であるようにさえみえる。物の貸し借りといっても、小皿ヘー杯の醤油とか、一と摘みの塩とか、茶碗一杯の米ぐらいのものであるが、貸してやったほうは「源さんのとこもらくじゃないんだね」と思い、自分のうちにはまだ少しはゆとりがあるのだ、というささやかな心づよさと優越感をあじわえるのである。それはしばしば、相手にそういう感情をたのしませるために、必要でもない一と摘みの塩を借りにゆくという、隣人愛のあらわれともなるのであった。
以上、引用部分は、題名の内容を反映していない(書かれていた場所)ようだが。しかし、作者の人間をみる目の優しさが感じられる。
黒澤明監督の作品 『どですかでん』 1970年(昭和45年)10月公開のDVDを借りてきた。
以前に鑑賞したことはあったが、「季節のない街」を読んですぐに観てみるとどの部分が省略されているのかがよく分かる。
上の引用中、「箱入り女房」と「半助と猫」は抜けていた。
映画を観て小説の内容から抜けている部分を考えるのも楽しい。
周五郎の人をみる優しさ。
---黒い樹立ちから眼をあげると、空にはいちめんに星が輝いているが、そのまたたきは冷たく、非情で、愛を囁きかけるというよりも、傍観者の嘲弄のようにみえる。
「よしよし、眠れるうちに眠っておけ」とそれは云っているようであった、「明日はまた踏んだり蹴ったりされ、くやく泣きをしなくちゃならないんだからな」
一度お読みになったあなたも、年齢と経験を重ねられた今、もう一度、読み返されたならば、きっと、新たな発見と感動があるはずです。
『 季節のない街/山本周五郎/長篇小説全集第二十四巻/新潮社 』
最近、不倫報道が囂しい。
たんば老は云った。
「金持でも貧乏人でも、学問があってもなくても人間にはみんな、そのような間違いをおこす時期があるんだな、男にも女にもさ、なま身の体というやつは、ときどき、自分でもどうにもならなくなることがある」
山本周五郎の 『季節のない街』 を読むと男も女も暇をみつけては既婚者、独身者お構いなく盛んに夜這い、逢い引きに励んでいる様が見て取れる。そりゃあ、当然、駆け落ちもよく起こる。
井戸端に集うおばさんたちの一番楽しみな噂話のひとつ。くっついたり、離れたり。あっけらかんでからっとしている。
苦しい日常生活のなかのちょっとした息抜き、楽しみ、アバンチュール、そして、楽天的で原始的だ。
昨今の不倫 「年増の女が、若い男の肉体に溺れた」 あるいは、その逆とは訳が違うようだ。
ちょっと面白い話が書かれている。
この作品のユーモアの質が分かる。人間に対する優しさも話の面白さも分かって欲しい。長いが引用してみる。
箱入り女房
「その、あれなんだがよ、ちょっと云いにくいことなんだがよ」彼はしきりにうしろ頸を掻いたり撫でたりした、「こいつはたんばさんだから云えるんだが、くに子のやつはまあ箱入り女房さね、世間ずれのしていねえ、うぶなこたあ、これまでなんども話したとおりなんだが、それにしてもげせねえことがあるんだ」
老人は黙って、膝の前にある詰め将棋の盤を見まもりながら、徳さんのあとの言葉を待った。
「それってえのがおめえ、なんだあ、つまりあのときのことよ」と徳さんは口ごもりながら云った、「あのときってえばわかるだろうが、あっしがよ、その、なんだあ、つまり汗だくんなってつとめてるさいちゅうによ---くに子のやつはいきなりへんなことを云いだすんだ、ねえあんた、秋になると木の葉はどうして枝から落ちるんでしょうって、---あっしゃあびっくりしちゃったよ、ほんとにさ、おめえそんなことを考えてたのかってきくと、いま急に気になりだしたんだって、こんなときにまたどうして気になりだしたんだってきいたら、どうしてだかは知らないがとにかく気になってしょうがないって、---よせやい、いまそれどころじゃねえじゃねえかって云って、あっしゃあまた馬力をかけたが、いけねえんだたんばさん、秋になると枝から木の葉が落ちらあな、なるほど、どうして秋になると落ちるのかって、こっちも気になりだしちまったら、馬力がまるっきり抜けちまったってわけよ」
「けれどもよ、どんなにいい考えにしろ、なにも選りに選ってそんなときに云いだすこたあねえやね、そうでしょう、たんばさん、あっしゃあだから云ってやったよ、おめえ時と場合を考えて云えって、にんげん誰だってこういうときには身を入れてやるもんだ、こっちは気が散って続かねえじゃねえかってよ」
たんば老人は詰め将棋の駒の一つを、慎重に動かしてから、なんということもなく呻った。
「くに子のやつあ温和しい性分だから、あっしに口返答はしねえ、はい、といってこっくりをするんだが、---忘れるのか生れつきの癖かどうか、あっしが汗だくんなって馬力をかけだすと、ねえあんたをまた始めるんだ、ねえあんた、七福神は誰と誰だっけとくる、また始めるのか、そんなこたああとの話だってえと、だって気になってしょうがないから教えてよとくる」
「ところがいけねえ、ホームストレッチにかかろうとするとたん、またくに子のやつがねえあんたときた、それがまたとんでもねえ、首をくくるのと身投げをするのと、鉄道自殺をするのとどれがいちばん苦しむだろうときた、えっ、そのときあっしがどんな気がしたと思う、たんばさん」
「あっしゃあねえ、胃袋がここんとこまで」彼は自分の喉を指さした、「---このへんまでとびだしてきたように思ったよほんとに、ほんとだよたんばさん」
「どうしてこういうときに限ってよけいなことを考えだすんだ、こっちだって感情害しちゃうじゃねえか、どういうわけだって云ってやった、そうでしょう、たんばさん」
「あっしがそう云うと、くに子のやつあ首をかしげて考えたっけ、やがてまた首をこっちへかしげて、自分でもわからないが、お店にいたじぶんマダムに云われたことがある、そういうときには気をそらして、なにかほかのことを考えるんだって、さもなければ躯が続かないよってさ、念を押して云われたのが癖になったのかもしれないってんだ、そんなことがあるのかな、え、たんばさん」
「世間ずれがしなさすぎるよ、ほんとうに、十八のとしから七年の余もバー勤めをしていてそれなんだから、まったくうぶってったって限界があろうじゃねえか、そうでしょうたんばさん」
「大事にしてやるんだな」と老人は云った、「いまにいいかみさんになるよ、きっと」
”箱入り女房” なんです。
とっても切なくて悲しい話がありました。
「半助と猫」と「ぷーるのある家」です。
どちらの話にも、面白い個性的な猫と犬が出てきます。
半助は独身で、 「とら」 という名の猫といっしょに住んでいる。
「プールのある家」のほうは犬、子供の敵で、名を 「まる」 という。
半助と猫
半助は人に連れ去られたのである。連れ去ったのは刑事だともいうし、半助がいかさま賽を作っていたため、プロの賭博者たちが掠っていったのだともいわれた。
プールのある家
子供は決して反抗しなかった。力の差を比較したからではなく、反抗するのがまったく無意味なことだと、よく理解しているかのように。また、それが避けられない災厄であって、この世に生きている以上、すべての者が堪え忍ばなければならないことだと承認しているように。
ギャングどもがその遊戯に飽きて、彼を最後に突きのめすか、もう一つ殴りつけるかして去ると、初めて、子供は涙をこぼすのであった。
次のふたつの話も切なかった。
枯れた木
「あの顔つきを見な、あの体つきを見な」とあるかみさんは云った、「あたしの昔よく知ってた人にああいうふうな人がいたけれどもさ、あれは人並はずれていろぶかい性分だよきっと、五十になっても六十になっても、からだはいろざかりでちっとも衰えないっていうくちさ、よく見てみればわかるよ」
がんもどき
これらのことは、この「街」の他の住人たちと同様、すべてがあいまいでつかみどころがない。ここでは常に現在があるだけで、過去のことは関知されないのが通例であり、たまたま語られる過去の話は、九割まで粉飾され、誇大に歪められるのが常識のようになっていた。
興味ふかいのは、こういう誇張された話になると、語り手は自分で嘘と知りながら昂奮し、それがもし哀話であれば、その哀れさに自分で涙をこぼした。聞いているほうも、ああこれは作り話だなと思いながら、それでもなお身につまされて、もらい泣きをするというのが珍しくないことだ。但し、これが虚栄心に関連した問題になるとまったく事情が変る。明らかに嘘とわかっていても、必ず反感をかい、こっぴどい悪口を云われるし、実際にむかし金持であったり、現にそれをみせつけたりすれば、それこそ仇がたきのようにそしられるのであった。
夫婦の間には、外からは窺い知れないことがある。
そのことがよく分かる話だった。 「僕のワイフ」
僕のワイフ
この住人たちのつきあいは、物の貸し借りと、ぐち話の交換が中心になっている。他人は泣き寄り、という言葉がかれらの唯一の頼りであり、信仰であるようにさえみえる。物の貸し借りといっても、小皿ヘー杯の醤油とか、一と摘みの塩とか、茶碗一杯の米ぐらいのものであるが、貸してやったほうは「源さんのとこもらくじゃないんだね」と思い、自分のうちにはまだ少しはゆとりがあるのだ、というささやかな心づよさと優越感をあじわえるのである。それはしばしば、相手にそういう感情をたのしませるために、必要でもない一と摘みの塩を借りにゆくという、隣人愛のあらわれともなるのであった。
以上、引用部分は、題名の内容を反映していない(書かれていた場所)ようだが。しかし、作者の人間をみる目の優しさが感じられる。
黒澤明監督の作品 『どですかでん』 1970年(昭和45年)10月公開のDVDを借りてきた。
以前に鑑賞したことはあったが、「季節のない街」を読んですぐに観てみるとどの部分が省略されているのかがよく分かる。
上の引用中、「箱入り女房」と「半助と猫」は抜けていた。
映画を観て小説の内容から抜けている部分を考えるのも楽しい。
周五郎の人をみる優しさ。
---黒い樹立ちから眼をあげると、空にはいちめんに星が輝いているが、そのまたたきは冷たく、非情で、愛を囁きかけるというよりも、傍観者の嘲弄のようにみえる。
「よしよし、眠れるうちに眠っておけ」とそれは云っているようであった、「明日はまた踏んだり蹴ったりされ、くやく泣きをしなくちゃならないんだからな」
一度お読みになったあなたも、年齢と経験を重ねられた今、もう一度、読み返されたならば、きっと、新たな発見と感動があるはずです。
『 季節のない街/山本周五郎/長篇小説全集第二十四巻/新潮社 』
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