この一週間の中で、自然環境を保全するために、先住民が持っているTeKが話題にはならなかった。彼らがそれらを理解することは不可能だからだ。その場に彼らがいなくてはいけないが、それができない。民主的とは、ある意味で、個人の履歴にものすごく影響されている。学んだ環境、学んだ先生、生まれた場所、家族の教育方針。しかし、そのことに気づいていないことが大半である。そして、ある一定の枠組みに当てはめながら議論がすすむ。
気候変動に関しても、ある意味民主的な社会が生んだ負の財産だ。大規模な森林の伐採による森林の消滅、農業地帯の大規模造成による水資源の枯渇、大量の化学肥料による水質の悪化。しかしそうしたことは、話題すらならなかった。なぜなら、彼らには、歴史性が残念ながら、欠けているからである。
一方で、私たちはどうかといえば、歴史性が当たり前になってしまい、その当たり前の事実を理解できぬままに、価値を失い荒廃の一途をたどってしまう可能性があることである。歴史性を背負っているものの、当たり前すぎて暗黙知となっていつの間にか、伝統知がゆっくりと失われていく。そして、ある1つの価値観によって支配され返って、本来の姿を見失ってしまうのである。せっかくの歴史性も議論しなければ価値を見失う。
閉伊川は、48館、義経伝説、静御前伝説、妖怪伝説。短角牛の発祥地。それらを支える30億年前の海底地層からなる豊かな土壌とそこから流れ出るミネラルを含んだ水等、閉伊川流域と言う歴史性を持った価値ある環境は、価値観の異なる人々が議論することによって価値を認め合う場を提供することが必要があると、考える。
閉伊川流域の森川海と人々と生活は重要な世界的な財産だ。