井頭山人のgooブログ

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哲学の東北

2024年12月05日 20時29分04秒 | 日本文化の多様性

 哲学の東北とは或る本の題名である、中沢新一か?。僕には東北はなにか鈍臭くて、それでいて強靭な深い何かがあると感じる。外面に捉われない自立の強さと詩情の豊かさがある。自分は東北に対して常にそう感じて来た。僕の生まれは北関東だが、それは或る意味では南東北である。僕は関東人であるが、こころの中では東北人である。雪に閉じ込められて耐え、春を待つ希求のひたむきな強さがある。東北には闇と光の計り難い何かがある。それは二万年を越す縄文の地霊かも知れないし、大自然のふところに暮らした、永い永い歳月の記憶が積み重なった霊的地層である。東北人は日本人の原型なのである。彼らは、一見寡黙であるが思考の中では饒舌で、時流に流されない根源的なものを求める。斎藤茂吉、棟方志功、宮沢賢治、寺山修司、思い付く名前をすこし並べて見たが、なにかここに共通項は見いだせないか?。

芸術家の大抵は一途で個性的だが、上に挙げた彼らは、非常に不器用で骨の太い主張と存在感がある。鈍臭いにも関わらす豊かな味がある、然し全くスマートではないのだ。野暮ったくて、それゆえ信頼できる。なぜなのだろうと長い間感じて来たが、これと言った説明が付かなかった。その内、もしかするとこれは人種が違うのでは無いか?とまで思った。何か東北と云うと縄文人である。それから沖縄も縄文人、日本文明は異質な物の混合か。哲学も文学も圧倒的に東北が強い。ナウマンゾウを取ってゐた人々が居る、ゾウが滅んだのが35000年前と云う、ならばその当時この列島には人が住んで居たはず。過去の歴史は中々推察し難いのである。文字記録がないのは当然の事だろうが、人々は話すばかりで話を文字で再現できないのだ。人間の文化は、火を取り扱うこと、土器を発明したこと、文字を発明したこと、で、文化の進歩度が格段に進んだ。人間の住むには温度が決定的な役割をする。当時の人々は狩りばかりしていたのでもない。栗を栽培したり柿やイチジクも作ったであろう。陸稲が縄文期には在った。

空想を逞しくすると、仮に日本人の起源が東南アジアに太古存在したというスンダランドに在ったとすると、今から5万年前以上以前、スンダランドが水没する前に、その住人は、JavaからAustraliaに出てNew ZealandからPolynesiaに広がりPolynesiaは現在は島々であるが超古代には、そこはある程度の大陸を形成していた。水没を機会に彼らは北上し日本列島と目指して船を進めた。彼らは日本列島が在るとは考えもしなかったがそこに流れ着いた。もちろんPolynesiaからと同じく、黒潮に舟をこぎ出しPhilippinesからTaiwanを経て、沖縄諸島をへて九州に来た者も居れば東京湾、鹿島灘に入った者も居たであろう。関東地方は海が深く進入し大きな内海を形成していた。そこは魚介類が豊富で、気温の温かかった当時は照葉樹林の大森林が形成されていたであろうから、将に楽園だったのだ。いつの事であったか新聞に鬼怒川中流域でクジラの化石を調査している県立博物館の記事が出ていたことがある。

*何人かの男たちが干上がった川の中でタマ石を掘り返している

通り掛りの者 ー 何をして居るんだね?

博物館の職員 ー クジラの骨を発掘しています。

通り掛りの者 - ここは川だぞ。

博物館の職員 ー ハイ、今は川です、しかし1500万年前、この場所は内海でた。それは中々信じられない事ですが、現実で確かです。我々の生存時間のスケールでは、地球の変化は実感出来ませんが、陸地は移動し隆起と沈下を繰り返しています。

当時の海の深さはどのくらいあったのか?が、思われるが、関東平野には太平洋の海が深く入り込んで、栃木、茨城、群馬、埼玉に跨る内海を形成していた事は、海岸線に沿って貝塚遺跡が何千と点在していることを考えれば、この海は豊かで穏やかな海だった事が窺がわれる。千葉の外側を、暖かい黒潮が還流して居いて、非常に住み易い所であっただろうと想像する。縄文期の水深がどの位あったのかは不明だが、一千万年前にこの鬼怒川の中流を10mのクジラが泳いでいるとすれば、少なくとも30mの水深はあったのでは。関東地方の等高線を考慮して見ると、その大まかな形状が推察される。此れだと北関東の平地はだいたい水没する。山地に降った雨を集めて鬼怒川も塩水の内海にそそいで居た可能性が大である。山地には落葉広葉樹林と針葉樹の森が大森林を形成していた。二万年に及ぶ縄文期がそこに展開された。これは一種の奇跡である、大自然の恵みの中で自然と共に生きて来た古い人類である縄文人、この世界はまだ明確に明らかにされてはいない。縄文期が17000年続いた、それ以前に12万年もの旧石器時代があった。12万年前の磨製石器が出土しているのだ。この石斧やガラスのナイフなどを使い、採取と漁労により生活を支えて居たのだろう。

氷河期は最近の物も含めて何度もあった。近々の例を挙げれば、ギュンツ氷期(80万年前)、ミンデル氷期(38万年前)、リス氷期(15万年前)、ウルム氷期(1万5000年前)、そうして我々は次の氷期を迎えることに成る。そして人間に取って肝心なのは、この氷河期がどうして到来するかという事です。永い地質年代を俯瞰すると、氷河期は珍しくなく、寧ろ間氷期に比べて氷河期の方が永いことが解かるのです。人間の文明はこの間氷期の間に発達したものです。温暖な気候に下に植物が繁茂し、それに支えられた動物が増え、動物の一種である人間も増えた。次の氷期が来ると、たぶん私の予想でしかないが、我々の「神である植物は」減少し、本物の食料減少に見舞われる。現在80億人の人口は1000分の1に成るかも知れない。それは地球全人口が800万人に成る事です。500分の1とすると1600万です。必然的にそう成らざる得ない。

地球の歴史を遡れば、或る時太陽が弱くなり何度も氷河期は訪れた。寒冷化の原因は太陽活動の弱まりと地球自体の原因、火山活動の活発化大気中への光を遮る埃灰。宇宙線の増大により雲の発生で太陽光が地表に届かぬ寒冷化、太陽系の歳差運動による周期的なサイクル。色々と原因らしきものが挙げられたが、これが原因という物は一つでは無いであろう。円の中に正多角形が内接する、そしてあらゆる形が円に含まれることで、形はすべて円の中に在る。特に円に内接する精妙な形は、円内の存在する正多角形である。五つの正多角形に数学者としてのヨハネスケプラーは宇宙の構造を見た。彼の考えた惑星の軌道は、この多角形とその運動がもたらすものだった。そうすると正多角形が宇宙の軌道を構造を作っていることに成ります。ケプラーはたぶんそう考えた。(宇宙が非の打ち所がない程完璧ならば数学的整合性が宇宙を形作っていると)。だが多角形は無限の存在する。我々は正二角形さえ描くことが可能だ。

だがKeplerが考えた宇宙的定理性と調和は、物理的存在様式とは同値ではない。数学の理念と現実の宇宙は同じではないということです。実際に宇宙を形成しているのは原則としてはエネルギーが最小のかたちで形成される。これは普遍的な原則です。この宇宙もその様な形を維持している。氷河期も大規模な運動の歪から起きる。それは未だに解明はされていないが、定期的の起こる事を思えば原因は確かに在る。未だに太陽系の形成とその運動は隅から隅まで解明されたわけでは無い。若しもその経過を詳細に調べて見れば、地球内部の原因、太陽系と太陽活動の原因、太陽系を覆う外部銀河系宇宙の原因、と、に分けられるでしょう。我々を含めた生命という存在は、この地球という惑星が生み出したものです。我々は大自然のほんの小さな一部です。

一人の人間の寿命は、カゲロウやセミにくらべれば長いものです。本川先生の本に「ゾウの時間とネズミの時間」というご著書があります。そこで謂われているのは大きな動物ほど長命で小さな動物ほど短命というご指摘です。だが短命と長命が一概に比較できる物では有りません。長命だから得で、短命だから損であるとは言い切れないのです。生物の寿命はその生物の心臓の鼓動数が決めているという御指摘もあります。確かにゾウの鼓動はゆっくりで、ネズミの鼓動ははやい、その鼓動が一億回を打った時が一つの命の寿命だと仰ってゐる。わたしは調べた事が無いですがわかる気がします。そしてもっと言うならば、動物のゾウは子供を産むのに二年に一頭です。ネズミはネズミ算式と言う様に、短期間にたくさんの子供を産む。産まれて来た命がこの世で生物的に為さなければ成らない事は、つぎの世代を産む事と、自分が飢え死にしない様に自分の体を維持する事です。これが地球上の生物の基本的な仕事です。生命はその様に設計されているのです。ですから最適状態を模索するように作られている。大自然は無駄を省きます、最小作用の原理があらゆる所に働いてゐる。大自然の配慮ははるかに人智を超えて居ます。生命の設計は何か大きな数学の原則を再現し大自然はそれを顕現して居ます。

「植物は動物に取って神の如き存在です」。動物はすべて、植物によって命を支えられて居るのです。皆さんは、モミジの種子を見た事が在るでしょうか。モミジの種子は種に二枚の羽根が生えています。その羽根を詳細に見て調べた事が在りますか?。その羽根は実に芸術的に設計されたものです。あれほどの美しい構造を見たことが在りません。何かに気が付く筈です、そうですハエの羽根にもそっくりです。これは驚くほど似ている、私も詳細にルーペで観察し、ハエの羽根とモミジの羽根には、自然上の何らかの知られていない共通性が存在すると思いました。わたしが生物のかたちに興味を持ったのは、小学生の頃でした。なぜこんな形をしているのだろう?、わたしは昆虫少年でしたので、セミやカマキリ、蝶や甲虫類に常に関心を抱いて居ました。自然には何らかの深い配慮が潜んでいると感じていました。世の中は段々に、そんな疑問に答えを用意できる段階にまで進みました。1980年代に「自己組織性」という言葉が学問にも現れて来たのです。その言葉になんら違和感は有りませんでした、なぜならば自分が自然観察から得た結論が、その自己自身で自分を形図くる本能的な能力にある事を知っいたからです。これを数学的に解明する事が必要だと感じていました。生物のかたちは遺伝情報(DNAの塩基構造)のなかに潜んでいる。ですからその塩基構造を記号情報として形の形成と結びつけなければ為りません。それは未だ解明されていない分野です。数学と情報理論、暗号理論、確率論、非線形力学、分子構造数学、非可逆過程論、熱力学、統計物理学、量子力学、相対論、流体力学、成長過程分析、波動工学、等々、理論物理学の全領域と数学の全領域を知って居る必要があります。不思議なのはなぜ、自然はDNA構造の様な見事な情報の蔵を創り上げたかです。

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仏教とは何か

2024年08月09日 11時16分33秒 | 日本文化の多様性

あらゆる宗教の起源は、自然現象の解釈から発している。

神と云う観念も恐れと云う観念も、各民族の生活環境から発生する。

依って神の観念も異なって来る。

原始仏教は何を探求して居たのか?

その哲理を一言二言で現すとすれば、

* この現世とは、何か? であり

* 我々は、そのなかで、如何に生きるべきか、の道の探求である

原始仏教のすべては、そこから派生したものだ 膨大な教典をふくめて、最初の志向がそうだ。

現世とは短い、食べ物、衛生、怪我、などで命が終わった。

日常の救済が、殆どが確立されていなかった古代に於いては人の一生は、今より短かった。

永い平和が続いた江戸時代の平均寿命は確定されていない。当時の幕府にしても藩政府にしても、家臣を別にして、全国の死亡統計を出してはいない。藩を見ても領民の死亡年齢は江戸中期まで記録されていない。もしもその記録を探るとすれば、膨大な寺院の過去帳に頼る外は無いだろう。幸いなことに、過去帳は寺の火災を省けば、大抵は見出される。立川昭二先生のご本「日本人の病歴」それによると、江戸時代の平均寿命は、男が、28‣7歳、女が、28・6歳となるという。これは0歳の平均余命で、この年齢の異常な低さは、乳幼児死亡率の高さにある。この時代の乳児と幼児の死亡率の異常な高さは、例えばその年の全死亡率の70%~75%を占めている。この0歳から5歳に掛けての死亡率は凄く多い。江戸時代の終りに日本を訪れた外人が見た記録では、「日本は子供の天国である」という。それは大人が、子どもの死亡率を知って居たからでもあろう。当時の諺では「5歳までは子供は神様の預かり物だ」という。それは子供がいつ死んでしまうか解らない程、死が多かった為であろう。古来、日本人は子供を、余り叱る事がなかった。子供は好きなようにさせて置くことが一般的でもあった。

日本では60歳を「還暦」と謂う、それは「暦が元に戻る事」であり、再び新しい歳が始まる事だが、其処まで生存できぬ人も居られる。還暦では赤いちゃんちゃんこを、子供達や孫たちが作ってくれて祝って呉れる。なんという嬉しいことだろう。だが、今の世の中では60歳では人の世の区切りとは見てくれない。少ない年金を出すのは65歳を過ぎてからだという。人には親から授かった、持って生まれた体という物がある。丈夫な人も居るが、丈夫でない人も居る。元気さも働いてきた仕事の種類にも因るだろう。誰もが丈夫なわけでもない。

そして70歳を「古希」と謂う。古希とは杜甫の漢詩からの「古来希なり」の事であり、日本の同世代のたぶん半分の人は、この古希を迎えられなかったに違いない。人々はこの呼び名を基に己の人生を計った。つまり終わりの用意、心掛けをしたのだろう。ここには永い時を経た先人の知恵があった。70歳をすぎれば、いつ最後が来るかを知らなくては為らない。永遠に明日があると思う者はおろかなのである。兼好法師は随筆集「徒然草」のなかで、そんなことを語っていたような気がする。それでも同じ事を繰り返す以外に、特別な事をする訳でもない。それが人生の実態でありまた要諦でも在ろう。

喜寿は77歳という、喜びの歳であろう。これだけ生きれば古代人には喜びであった。この歳くらいが自分で身を養う限界か。働くにも体の点で困難になる。むかしは体を酷使する仕事が多かった為に、この歳に成れば、相当にガタが来ている。助けてくれる者が無ければ、命は続くまい。人それぞれで、北斎は90歳でも絵を描いていた。

傘寿は80歳という。まあこの辺に至れば否が応でも人生の終りを想わざる得なくなる。この歳でも元気な人は元気である。

米寿は88歳である。現代ではこの歳が迎えられる人も多い。この歳に成ると圧倒的に女性がおおい。女は生物的には強く作られている。それが自然の摂理だ。

卒寿は90歳である。90歳とは世の中の多くを見て来たに相違ない。多くの智慧も在る事だろう。白寿は99歳である。この歳で矍鑠している方は、本当に素晴らしいことだ。

さて、大まかに人生の区切りを見て来た。人生が長く成って人間は変わったであろうか。人生が伸びただけ人々は幼稚に成ったとの見方もあるが、本当はどうなのか一概には言えないだろう。

さて、ゴータマ・ブッダの主導された仏教は、彼の大悟から始まり其の生涯は80年に及ぶとされている。釈尊は修行の過程で、それ以前の探求者の道から多くの物を受けている。仏陀が苦しい修行体験から得た物は、人生の真の道を得るのに、刻苦の修業が、何んの役にも立たなかった発見だったろう。勿論、人としての道に節制と克己は不可欠で、断食を為して死の淵まで行く経験も貴重だし、千日登峰も必要だろうが、では、それで人生の諸問題と命の存在の意味を問い、人の道の心底に出会うことが可能だろうか。仏陀の得た体験は華厳経に書かれているとされてゐる。仏陀ほどの人が自ら書いた論書を残さななかった。書いたのは側にいた謂わば修行者としての書記たちである。なぜ書かなかったのだろう。「書いた物にはいずれ誤解と改竄が生ずる」そう思って居たのだろうか。孔子もソクラテスもキリストも自分で書いた著作や日記は残さなかった。この人達が文字を書けなかったとは思えないから、何らかの理由が在るのだろう。

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神道とはなんだろうね。

2021年12月27日 15時52分13秒 | 日本文化の多様性

今年も押し詰まりました。あと数日で令和4年を迎えます。そろそろ年末の掃除をして、新しい年を迎える準備をします。今年は飼い猫のトラが破いた障子を張り替えようと思います。庭の北の隅には我が家の氏神の祠があり、そこは朝一番に朝日の射す、暖かい日当たりの好い所です。用事が無い限り私は朝起きて、60メートルほど離れたところに在る氏神にご挨拶をします。大谷石の参道を歩き二礼二拍手一拝をしますが、トラは必ず付いて来て祠に飛び乗り中の幣束をのぞき込み下手をすると手を入れて、神様の印である幣束を倒してしまいます。今年の秋には自分の尻尾を祠に入れて幣束を揺らしていました。駄目よ、と注意しますが平気です。神様も猫がやることですから許して下さるでしょう。

さて、我が家の氏神も神道の神でもあります。そこで神道の神に付いて少し思いを書いてみたい。神道の起源はたしかに古く、それはこの日本列島に人間が住むように成って以来の事蹟でしょう。ですから10万年以上は経つと思われる。ただ神道という名称で描かれるのはたぶん縄文時代からでしょう。神道の起源は「太陽崇拝」と「自然崇拝」と「祖先崇拝」であろうかと思います。人々は生きて行く為には物を食わねば成りません。植物であれ動物であれ殺めて食って居る訳です。植物はお日様の光で実り、動物は森林の恵みで生きています。このような世界の生きている事は大自然への感謝の気持ちが自然に起こります。自然の動物である、熊や猪、鹿などを捕って暮らしを立て居たわけです。また植物では木の実の、クリ、クルミ、ドングリ、穀物では、ひえ、あわ、そば、など、根菜類では、タロ芋、長芋、葛、など、果実では、柿、桃、柑子、梨?、林檎?、アケビ、などがあったろう。川や海辺では魚が取れました。縄文の遺跡には鯛の骨などが出るそうです。

日本の気候はここ数万年で変化は有りましたが、極寒のツンドラでもなく、熱帯でもないので、春夏秋冬の四季が明確で変化の多い国です。その四季の変化は日本人の美的感受性(二十四節気)を生んだ。その為に日本人は季節の変化に敏感なのです。神道は、そんな中から生まれてきたものです。自然を司るお天道様に感謝し、大自然の恵みに感謝し、自分を生んだ祖先の魂に感謝する、それが神道の枠組みです。

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ひとり公園を歩きながら

2019年11月28日 18時36分35秒 | 日本文化の多様性

 寒さが厳しくなり、昨夜来の雨に紅葉も散りかけていた。ひとり公園を歩くのは何か月振りだろうか?、ふと,この前公園にやって来た時を想い起してみた。乾いた落ち葉が足元を賑やかにしていた時期だ。人気のない季節だったので二月の初めだろうか。

この間に春が過ぎて、夏が過ぎて、いまは平野の秋も終わりである。
記憶の糸を辿ってみると、何か僅かなあいだに、母との別れなど

辛い事も在った為か、10年の歳月が流れたように感じる。

子供だった頃、遠い昔には、この付近は小高い丘と丘に挟まれた湿地帯で、中心部には、丘陵の終端部から湧きだした湧水が水田の灌漑用の溜池として利用されていた。池の周りには湿地帯が在り、周辺には散歩道が池の周りを囲んでいた。少し丘陵をあがるとコナラとクヌギの森林が続き、チェーホフの短編「晩に」のように篝火が焚かれ、ひっそりと暖かな会話が話されるような場所だった。

ここは県内でも有数の県立自然公園と県民一万人プールの造成時に、縄文時代初期の遺跡も発掘され、今から10000年も遠い過去に、我々の先祖の生活が在った場所でもある。沼地には牛のような大声を出す食用ガエルが住んでいて、春先には奇妙な恋の歌を歌っていた。また両生類に近い肺魚も住んでおり、冬の暖かい風のない日向では、魚なのに陸に上がり、日向ボッコをしているという変な魚だった。ひとが近づくと慌てて池に飛び込むのは面白い。カサカサと羽音を立てて落ち葉を踏みしめて、淋しい木立の道を歩む。

時々、キーッとかクワ・クワと鳴く鳥の声が聴こえて、飛来した鴨が池に打ち込まれた杭に上がり自分の毛づくろいをして居る。今年は鴨が多い、オスの鴨は緑の羽根で美しい。白鳥も飛来し、池の周りは渡り鳥で賑わいをみせている。ここは狩猟禁止区であるので鳥はそれを知って居るのか、此処に来ると安心している様子がうかがえる。向こうから80歳を越すだろうと思われる老人が歩いてきた。冬支度で森の散歩を楽しんでいるのだろうか。

何となく気持ちが爽やかに成って落ち着いてきた。人の一生には、儚さと共に悲しいことや嬉しいことも必ずある。悲しい時に思い出すのは、いつも自分を支えてくれた人達の言葉だ。もうあの人はこの世には居ないけれど、その言葉の音色はいつ迄も耳の底に残っている。忘れがたい記憶という物はたぶんそのような記憶なのだ。その声に助けられ、冷えた心が熱くなる。力を貰える。私はひとりだが、本当はひとりでは無い。今在るのは父母や祖父母、そして代々の先祖の血が私の体を廻っている。彼等は、いまの自分を見ているに違いない。池の周りを一周した。6キロほど歩く、さあ駐車場に置いてきた車で家に帰ろう。
                         
                          1999年11月の日記から

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日本文化の根幹とはなにか

2019年11月22日 13時45分08秒 | 日本文化の多様性

大それたテーマではあるが、多くの人が関心を持って居るに違いないと思う。日本語の表現が庶民に定着して以来、様々な記紀などの文字記録、歌集や説話集などの文学作品が生まれた。とおい時代にはコトバを文字に表現出来る人は少なく、自在に書ける人人々は貴族や官人などに限られていたようだ。それでも仏教を支えとした人々は、庶民への教育の機会を創って居たようです。当時は寺子屋と言う制度があったとは到底思えないが、それでも、歴史上では弘法大師空海が構想した庶民の学校であった「綜芸種智院」が有名である。

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